<メッセージノート>
神さまに喜ばれる生活をしよう 永原アンディ
A. 夫婦愛 (1-8)
1) 道を踏み外す前にガードレールを設置する (1-5)
1 さて、兄弟たち、主イエスに結ばれた者としてわたしたちは更に願い、また勧めます。あなたがたは、神に喜ばれるためにどのように歩むべきかを、わたしたちから学びました。そして、現にそのように歩んでいますが、どうか、その歩みを今後も更に続けてください。
2 わたしたちが主イエスによってどのように命令したか、あなたがたはよく知っているはずです。
3 実に、神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです。すなわち、みだらな行いを避け、
4 おのおの汚れのない心と尊敬の念をもって妻と生活するように学ばねばならず、
5 神を知らない異邦人のように情欲におぼれてはならないのです。
2) 人を踏みつけ神を拒む汚れた生き方から離れる (6-8)
6 このようなことで、兄弟を踏みつけたり、欺いたりしてはいけません。わたしたちが以前にも告げ、また厳しく戒めておいたように、主はこれらすべてのことについて罰をお与えになるからです。
7 神がわたしたちを招かれたのは、汚れた生き方ではなく、聖なる生活をさせるためです。
8 ですから、これらの警告を拒む者は、人を拒むのではなく、御自分の聖霊をあなたがたの内に与えてくださる神を拒むことになるのです 。
B. 兄弟愛 (9-13)
1) なおいっそう兄弟愛を追求する (9, 10)
9 兄弟愛については、あなたがたに書く必要はありません。あなたがた自身、互いに愛し合うように、神から教えられているからです。
10 現にあなたがたは、マケドニア州全土に住むすべての兄弟に、それを実行しています。しかし、兄弟たち、なおいっそう励むように勧めます。
2) 地に足の着いた落ち着いた生活 (11, 12)
11 そして、わたしたちが命じておいたように、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい。
12 そうすれば、外部の人々に対して品位をもって歩み、だれにも迷惑をかけないで済むでしょう
メッセージのポイント
夫婦は社会の最小単位です。しかし私たちの生まれながらの性質は、神様の助けを得て努力しなければ、この関係を悪化させてしまいます。神さまに喜ばれる人生を送りたいなら、まず神さまが与えたパートナー、そして周りの人に喜ばれる者となることです。神さまは礼拝の中で、私たちにそのために必要な愛と知恵と意志を豊かに与えてくださいます。
話し合いのために
1) 聖なる者とはどのような人ですか?
2) 神さまに喜ばれる生活とは?
子供達のために
イエス様は生きておられるということを中心に話し合ってみてください。それぞれの生活の中でイエス様が助けてくださったことや、お父さんやお母さんから聞いた話でもいいと思います。イエス様が十字架で死なれたままではなく復活されたということは、それからずっとイエス様は生きておられるということです。今は目には見えなくても、確かに私たちの中で生きておられるということを覚えてほしいと思います。スタッフの皆さんの体験をお話しするのもいいと思います。
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<メッセージ全文>
神さまに喜ばれる生活をしよう 永原アンディ
A. 夫婦愛 (1-8)
1) 道を踏み外す前にガードレールを設置する (1-5)
1 さて、兄弟たち、主イエスに結ばれた者としてわたしたちは更に願い、また勧めます。あなたがたは、神に喜ばれるためにどのように歩むべきかを、わたしたちから学びました。そして、現にそのように歩んでいますが、どうか、その歩みを今後も更に続けてください。
2 わたしたちが主イエスによってどのように命令したか、あなたがたはよく知っているはずです。
3 実に、神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです。すなわち、みだらな行いを避け、
4 おのおの汚れのない心と尊敬の念をもって妻と生活するように学ばねばならず、
5 神を知らない異邦人のように情欲におぼれてはならないのです。
この手紙を書いたパウロは間違いなく、イエスに従うということはどういうことなのかを私たちに伝えてくれた新約聖書時代の最高の功労者です。しかし彼にも限界がありました。人は時代や文化の制約を超えることは出来ないのです。だから他の手紙には「妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。(エフェソ5:22, 23)」とか「婦人たちは、教会では黙っていなさい。婦人たちには語ることが許されていません。律法も言っているように、婦人たちは従う者でありなさい。何か知りたいことがあったら、家で自分の夫に聞きなさい。婦人にとって教会の中で発言するのは、恥ずべきことです。(IIコリント14:34,35)」といったことを書き残しています。現代でも、聖書に忠実にと主張して、女性が牧師になれない教会もあるのです。しかしそれは、パウロに忠実にであって、イエスに忠実であるとはいえません。イエスの言葉や行動をみると、イエスは全く時代と文化に制約を受けていません。人を性別や階級によって偏り見ることなさいません。それほどラディカルだったので社会に受け入れられなかったともいえます。2000年経って少しはイエスの考え方に社会が近づいてきたのです。けれども、未だに時代、文化の制約、当時の偏見を、イエスの視点で見なおそうとはせず、かえって律法学者、ファリサイ派のように、様々な点で自分とは違う人々をさばいているのは、皮肉なことに聖書に忠実だと自称するキリスト教のグループなのです。聖書の教えに忠実でありたいなら、聖書を表面的に文字のとおりに受けとるのではなく、注意深くイエスの言葉、イエスの歩みに従って解釈しなければなりません。そうでなければ私たちはまた律法主義に飲み込まれてしまうことになるのです。
今日のこの箇所も、表面的に読めば読者は男性であることがわかります。兄弟姉妹ではなく兄弟たちと呼びかけています。しかし、神様はパウロの言葉を通して、私たちのすべてに大切なことを教えてくれているのです。当時の社会は男性だけに人としての尊厳が認められていた時代です。妻も子供も主人の財産のように見做されていました。日本語の聖書で妻と訳されている原語の意味は器 vesselです。文脈によって妻、あるいは自分の体などの比喩で使われます。この箇所も「妻」をさしているのか「自分の身体」をさしているのかで議論が分かれてきたところなのです。3節では当時の社会では当たり前になされていた結婚相手ではない人との性的関係を禁じているので、4節は、そうではなく結婚関係を大切にしなさいという意味で、「身体」ではなく「妻」と考えたほうが良いでしょう。創世記で示された結婚関係を大切にすることは、何度戒められても、十分ということはありません。性的な誘惑に負けてしまうことが、夫婦関係を破壊するだけではなく、神様との関係をも破壊することになってしまいます。妻を、夫を軽んじる人は、神を軽んじているのです。それでは神様に喜ばれることが出来るわけがありません。パウロはここで、異邦人といっても人種や国籍を言っているのではなく、神様の心に背いている人のことをそう呼んでいるのです。私たちは山道のカーブで曲がりきれず谷底に落ちてしまう車のようにならないために、神様の言葉というガードレールを与えられているのです。
2) 人を踏みつけ神を拒む汚れた生き方から離れる (6-8)
6 このようなことで、兄弟を踏みつけたり、欺いたりしてはいけません。わたしたちが以前にも告げ、また厳しく戒めておいたように、主はこれらすべてのことについて罰をお与えになるからです。
7 神がわたしたちを招かれたのは、汚れた生き方ではなく、聖なる生活をさせるためです。
8 ですから、これらの警告を拒む者は、人を拒むのではなく、御自分の聖霊をあなたがたの内に与えてくださる神を拒むことになるのです 。
神様の心に背いているのは、他の宗教を信じている人ではありません。これは、クリスチャンと自称しながら前の部分でお話ししたような行動を取る人に対する警告なのです。教会の指導者たちの中にも、そのようなことが起こります。尊敬し、信頼していた信仰の指導者に裏切られた人々の心の傷は深いのです。信仰を失ってもおかしくはありません。それだから、キリストの体に連なりながら汚れた生活に身をおくなら、それは人々に対する裏切りにはとどまらず神様に対する裏切りです。人々を悲しませているだけではありません。神様を悲しませているのです。自分のことだと思う人がいるなら、聖霊の力を求めて祈り、そこから離れる決心をして下さい。もう手遅れになってしまったわけではありません。もう一度神様に喜ばれて活きる生活をすることが出来ます。
B. 兄弟愛 (9-13)
1) なおいっそう兄弟愛を追求する (9, 10)
9 兄弟愛については、あなたがたに書く必要はありません。あなたがた自身、互いに愛し合うように、神から教えられているからです。
10 現にあなたがたは、マケドニア州全土に住むすべての兄弟に、それを実行しています。しかし、兄弟たち、なおいっそう励むように勧めます。
前半には離れるべきことが書かれていましたが、後半はするべきことが書かれています。互いにキリストの体の一部として愛しあうということが、まず第一のことです。私たちはどうでしょうか?ユアチャーチの中で、誰が何を困っているのか、何が必要なのか知っていますか?これはカヴェナントメンバーの責任です。そのためにハドルがありミニチャーチがあるのです。ユアチャーチのリーダーたちは、イエスに従ってゆくとは、目に見えるキリストの体、つまり教会のメンバーになることだと信じています。もちろん、どの教会に連なるかということを決めかねている人もいると思います。慎重に考えるべき大切なことです。しかし誰もがいつか、ユアチャーチではなくても良いのですが、喜んで体の一部としての責任を果たしたいと思える教会につながることが、神様に喜ばれる生活を送る上で欠かせないことであることを知って下さい。ユアチャーチには様々な国から仕事や学びのために来られた人々が集っています。数ヶ月から数年という期限でも、その人がユアチャーチというキリストの体の一部となって責任を果たしたいと思うなら、喜んでカヴェナントメンバーにお迎えします。
2) 地に足の着いた落ち着いた生活 (11, 12)
11 そして、わたしたちが命じておいたように、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい。
12 そうすれば、外部の人々に対して品位をもって歩み、だれにも迷惑をかけないで済むでしょう
落ち着いた生活とはどのような生活なのでしょうか?元の言葉は平和な、平穏なとも訳せる言葉です。永くユアチャーチに集っている方たちは、もうよくご存知だと思いますが、私たちはイエスを誰かに紹介するための特別なイヴェントやキャンペーンもしない教会です。また大きな伝道大会のようなものに教会として関わることもしません。それはイエスを紹介するのは、私たちにとってもっと日常的なことだからです。音楽や芸術や講演などで興味深いプログラムに誘って、そこで牧師か高名な伝道者のお話を聞いて信じてもらうようなことではないと考えているからです。イエスは私たちに、身近な人々に生活の中で自然な形で紹介されたいと願っていると思うのです。あなたが普通の生活の中で、イエスの親友として振舞っているなら、人はあなたを通してイエスに出会います。あなたがどれほどイエスに信頼を寄せて歩んでいるのかを見れば、人はイエスを知りたいと思うのです。そのためにも私たちは落ち着いた生活をしているべきです。普通の生活と言ってもいいと思います。イヴェントやその準備のために、いつも疲れていたり、ゆっくり話ができなかったり、人々のことを思いやることができないとしたら、それは落ち着いた生活ではありません。多くのイエスを知らない人々の方をではなく、教会のだけを見つめていたら、そこはいつの間にか常識を欠いた、品位を感じさせない、迷惑とさえなる存在となってしまいます。
神様が喜ばれるのは、華々しい活躍ではありません。地に足の着いた、地道に愛し続けるという日々の歩みなのです。
メッセージのポイント
夫婦は社会の最小単位です。しかし私たちの生まれながらの性質は、神様の助けを得て努力しなければ、この関係を悪化させてしまいます。神さまに喜ばれる人生を送りたいなら、まず神さまが与えたパートナー、そして周りの人に喜ばれる者となることです。神さまは礼拝の中で、私たちにそのために必要な愛と知恵と意志を豊かに与えてくださいます。
話し合いのために
1) 聖なる者とはどのような人ですか?
2) 神さまに喜ばれる生活とは?
子供達のために
イエス様は生きておられるということを中心に話し合ってみてください。それぞれの生活の中でイエス様が助けてくださったことや、お父さんやお母さんから聞いた話でもいいと思います。イエス様が十字架で死なれたままではなく復活されたということは、それからずっとイエス様は生きておられるということです。今は目には見えなくても、確かに私たちの中で生きておられるということを覚えてほしいと思います。スタッフの皆さんの体験をお話しするのもいいと思います。