<メッセージノート>
終わりの日 永原アンディ
A. 生きている間に終わりの日が来ると信じていた初代教会の人々 (4:13-18)
13 兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。14 イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。15 主の言葉に基づいて次のことを伝えます。主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません。16 すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、17 それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。18 ですから、今述べた言葉によって励まし合いなさい。
B. 心配せずに今を生きよう (5:1-11)
1) それがいつ来るかは知る必要がない (1-3)
1 兄弟たち、その時と時期についてあなたがたには書き記す必要はありません。2 盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。3 人々が「無事だ。安全だ」と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです。ちょうど妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそれから逃れられません。
2) 光の子として歩みましょう (4-11)
4 しかし、兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。ですから、主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです。5 あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。わたしたちは、夜にも暗闇にも属していません。6 従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。7 眠る者は夜眠り、酒に酔う者は夜酔います。8 しかし、わたしたちは昼に属していますから、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう。9 神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。10 主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。11 ですから、あなたがたは、現にそうしているように、励まし合い、お互いの向上に心がけなさい。
メッセージのポイント
世界には初めがあり終わりが来ると聖書ははっきりと告げています。しかし私たちはそれがいつになるかということを知る必要はありません。イエスと共に歩んでいるなら、何が起こっても心配ないと聖書は保証しています。終わりの日や天国の様子について詮索するのは時間の無駄です。わからないことについては神様を信頼していればよいのです。それよりも私たちにはするべき大切なことがあります。それは終わりの日が次の瞬間に来ても後悔のないように、あるいは何世代も後になったとしても良いように世代を超えて良いものを伝えてゆけるように歩むことです。
話し合いのために
1) なぜ終わりの日がいつ来るか知る必要がないのでしょう?
2) 終わりがいつかわからない中で、どのように日々を歩んだら良いのでしょうか?
子供達のために
5:2,3の扱い方によって、子供たちは、恐れる必要がないと言われても、恐ろしい印象を持ってしまうかもしれません。むしろ、イースターに復活したイエスは、天に帰り見えなくなったけれど、いつか来られること、それはいつかわからないので私たちができることは、一日一日を大切に、家族や友達や、それ以外のできるだけ多くの人とも平和に、仲良く助けあって生きることだと伝えて下さい。
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<メッセージ全文>
終わりの日 永原アンディ
A. 生きている間に終わりの日が来ると信じていた初代教会の人々 (4:13-18)
13 兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。14 イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。15 主の言葉に基づいて次のことを伝えます。主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません。16 すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、17 それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。18 ですから、今述べた言葉によって励まし合いなさい。
パウロも含め、この時期、人々は、自分たちが生きている間にイエスが再び来られると信じていました。イエスが再び来られるという事は、旧約聖書(例えばイザヤ書13章、マラキ書3章)もイエスご自身(マタイ24, マルコ13, ルカ21)も言い表してきましたが、実際にそこに描写されるようなことは2000年たっても起こってはいません。イエスの十字架、復活、ペンテコステと立て続けに想像を絶する出来事を目の当たりにしてきた人々にとっては、同じようなテンポで、世の終わりと、この世界ではないところで主イエスと生きる永遠の命の始まると思えたのも無理はありません。彼らの感覚ではイエスの十字架の出来事を幕開けに終末への序章が始まり、遅くとも数年の内には実現すると思われていたのです。テサロニケでは、そのような状態の中で、その日を待たずに亡くなった人がいて動揺が起こったのです。2000年たった今、多くの教会はそのような切迫感を持たないまま、終わりはいつまでもきそうにない、少なくとも自分が生きている間には来ることはないだろうと感じていますが、その一方で、ここ数年で起こると言い出す人々が毎年のように現れます。ある人は何らかのことが起こるかもしれないけれど、ここに書かれていることは全て象徴的に書かれているとし、ある人々は文字通りのことが起こるだろうと考えています。イエスを主と信じる人の中でも終末についての考えはバラバラです。私たちはどう考えたら良いのでしょうか?次の5章から学ぶことが出来ます。
B. 心配せずに今を生きよう (5:1-11)
1) それがいつ来るかは知る必要がない (1-3)
1 兄弟たち、その時と時期についてあなたがたには書き記す必要はありません。2 盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。3 人々が「無事だ。安全だ」と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです。ちょうど妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそれから逃れられません。
パウロは4章でイエスに従う者の身の安全が確保されていることを保証した上で、その日は突然やってくると書いています。私たちは、その日がいつ来るかとかどのようにかを詮索することを考えないほうがいいのです。いつかは来るし、それは突然なのだから避けようがないということです。けれど、どんな形にせよ、神様はあなたを見捨てないということです。そのことを覚えていればいいのです。自然科学は世界を宇宙と言い換えますが、宇宙には初めがあり終わりが来ることを認めています。しかしそれ以前に様々なリスクによる環境変化で人が生きられなくなるという方が確率は高いでしょう。しかしそれは、今まで病気や事故で失われてきた肉体の終わりと同じことが最終的に起こるというだけのことです。皆さんに約束されている永遠の命は、肉体を持っていようといまいと関係ないのです。それなのに終末を心配して、本当にするべきこと、考えるべきことが手に付かないとしたら、神様は残念に思われるでしょう。喜ぶのはサタンだけです。そこで、今与えられている時を、神様に喜ばれて歩む具体的なアドヴァイスを残りの部分から受け取って下さい。
2) 光の子として歩みましょう (4-11)
4 しかし、兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。ですから、主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです。5 あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。わたしたちは、夜にも暗闇にも属していません。6 従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。7 眠る者は夜眠り、酒に酔う者は夜酔います。8 しかし、わたしたちは昼に属していますから、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう。9 神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。10 主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。11 ですから、あなたがたは、現にそうしているように、励まし合い、お互いの向上に心がけなさい。
いつ来るかと怯えていることも、自分の生きる時代に来るわけがないと思い込んでいることも間違いであることがわかります。光の子として目を覚ましていなさいと勧められています。目を覚ましているのは終わりの日を待ち構えているためではありません。待ち構えていたところで何が出来るわけでもありません。私たちはこの世界で、天国が向こうからやってくるのをまどろんで待っているのではなく、神の国を作り上げてゆく者として働いているのです。私達はキリストの体の一部ではあっても頭ではありませんから、残念なことに神様の計画のこれからのプロセスは簡単にしか知らされてはいません。特にいつ完成するかについては、知る必要がないとはっきりと言われているわけです。そこで人々は自分の感覚を頼りに、数年のうちにはその時が来ると感じる人もいれば、自分が死んでからずっと後になると思う人もいるわけです。 8節を見て下さい。神様を信頼している、互いに愛しあい、また見返りを求めず愛しているということが、災から、攻撃から身を守るのです。そしてそのような生き方は、救いの希望、つまり今も後もいつまでもイエスと共にいるという確信から来るものなのです。一番大切なのは、9,10節に書かれていることです。「主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。ですから、あなたがたは、現にそうしているように、励まし合い、お互いの向上に心がけなさい。」 あの十字架の出来事が、私たちを主イエスとともに永遠に生きる者としたのです。終末がいつであろうと、私たちの身体がこの世界に住めなくなる時はやって来ます。その日がいつであるか私たちにはわかりません。自分が天に移される時と終わりの日は本質的には同じことです。私たちが心配すべきことは、その日までどう生きるかということです。終わりの日について書かれていることをどう解釈するかということは重要な事ではないのです。地震や津波の到来のための備えのように備えることは出来ないのです。私たちは、今イエスと共に歩んでいます。その喜びの片隅に、終わりの日という未知の出来事に対する不安があり、情報を求めたくなる気持ちは誰にでもあるのです。だからパウロはこう励ましているのです。私たちは互いに励まし合うことが出来ます。落ち込む時があってもいいということです。自分には祈ることさえ出来ない時でも、あなたのために祈る人がいるのです。また、お互いの向上に努めなさいと勧められています。もう終わりの日は目前だと考えていたパウロですが、「終わりの日は近い静かに待っていなさい」とは言いません。互いに支えあって、前進しなさい、成長しなさいと言うのです。光の子は、終わりの日が次の瞬間に来ても後悔しません。反対に、何世代も後になったとしても良いように次世代を育てます。私たちは次世代に良いものを伝える義務があります。生態系や社会環境、教育もそうですが、もっと根本的なことを伝えたいのです。それはあらゆる良いこと、良い物の出発点です。聖書はそれを福音(良い知らせ)と呼びます。それは「あなたもイエスと共に生きることが出来る」というニュースなのです。イエスと共に生きるとは、イエスに従って生きる、イエスのように生きると言い換えてもいいのですが「愛」に生きるということにほかなりません。聖書は「愛には恐れがありません。完全な愛は恐れを締め出します。」(1ヨハ 4:18) 私たちの愛は脆く、移ろいやすいものですが、神様が与えてくださる愛はいつまでも変わりません。本当に愛する人として歩みたいなら、イエスと共に歩むことがたった一つの道なのです。
メッセージのポイント
世界には初めがあり終わりが来ると聖書ははっきりと告げています。しかし私たちはそれがいつになるかということを知る必要はありません。イエスと共に歩んでいるなら、何が起こっても心配ないと聖書は保証しています。終わりの日や天国の様子について詮索するのは時間の無駄です。わからないことについては神様を信頼していればよいのです。それよりも私たちにはするべき大切なことがあります。それは終わりの日が次の瞬間に来ても後悔のないように、あるいは何世代も後になったとしても良いように世代を超えて良いものを伝えてゆけるように歩むことです。
話し合いのために
1) なぜ終わりの日がいつ来るか知る必要がないのでしょう?
2) 終わりがいつかわからない中で、どのように日々を歩んだら良いのでしょうか?
子供達のために
5:2,3の扱い方によって、子供たちは、恐れる必要がないと言われても、恐ろしい印象を持ってしまうかもしれません。むしろ、イースターに復活したイエスは、天に帰り見えなくなったけれど、いつか来られること、それはいつかわからないので私たちができることは、一日一日を大切に、家族や友達や、それ以外のできるだけ多くの人とも平和に、仲良く助けあって生きることだと伝えて下さい。