<メッセージノート>

2015/6/7 ルカによる福音書 11:1-13
大胆に忍耐強く求めよう 池田真理


A. 主の祈り=私たちの姿勢の基本(1-4, 11-13)

1 イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。2 そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。3 わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。4 わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」

1. 神様はお父さん (11-13)

11 あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。12 また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。13 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」


2. 中心は自分ではなく神様


3. 自分の罪と必要を知る


B. 大胆に忍耐強く求める

1. 大胆に、忍耐強く (5-8)

5 また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。6 旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』7 すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』8 しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。



2. 本当に満足するまで求める (9-10)

9 そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。10 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。


メッセージのポイント
神様は私たち全てのお父さんです。私たちは神様をお父さんと呼んで、信頼して願いを何でも打ち明け、求めることが許されています。神様は私たちの祈りに対して、必ず私たちにとって一番良い形で答えてくださいます。願いがあるのなら中途半端にあきらめないで、大胆に求めましょう。すぐに答えが与えられない時は、神様を信頼して忍耐強く待ちましょう。期待通りの答えが得られない時は、神様は私たちの期待する以上の素晴らしいことをしてくださると楽しみにしましょう。

話し合いのために
1) 「主の祈り」をどう思いますか?あなたの普段の祈りと比べて何か違いますか?
2) 大胆に忍耐強く求める上で一番大切なことは何ですか?

子供達のために
5節から10節に注目してみてください。真夜中にしつこく友達に頼み事をしたという出来事を一緒に想像してみてください。注意していただきたいのは、神様は、私たちの祈りの熱心さによって、私たちの願いを叶えるかどうか決めるような方ではないということです。私たちが祈るのは、その祈りによって神様を動かし、「頼み倒す」ためではありません。ただ、このたとえ話が教えてくれるのは、大胆に(真夜中でも)、忍耐強く(しつように頼み、食い下がる)、神様に願うべきだということです。神様はお父さんとして、私たちのどんな願いでも聞いていてくれ、私たちが辛抱強く希望を持って待つことを喜ばれます。

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<メッセージ全文>

2015/6/7 ルカによる福音書 11:1-13
大胆に忍耐強く求めよう 池田真理

この教会には、まだ教会も聖書も神様も初めてという方も、最近イエス様を信じるようになった方も、逆にもう何十年も教会に親しんでいる方もいます。ですから、今日はお祈りについてお話ししますが、祈るということについての経験も、皆さんそれぞれだと思います。私は通った幼稚園が偶然カトリックの幼稚園だったので、小さい頃にシスターに「主の祈り」を教えられました。それは「テンニマシマスワレラノチチヨ」から始まり、意味は全くわからないけれど、毎日唱える呪文のようでした。シスターには「神様は心に語りかけてくださるから、いつか聞こえるようになるよ」と言われましたが、その時は全然聞こえないなぁと思った覚えがあります。幼稚園児にとっては、聞こえると言ったら、本当に誰かと話すように耳に聞こえるとしか思いません。でも今は、祈りを通して、私たちは神様の語りかけを心で聞き、私たちの話を神様が聞いてくださっていると実感することができるんだと知っています。シスターは正しかったということです!


A. 主の祈り=私たちの姿勢の基本(1-4, 11-13)

1 イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。2 そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。3 わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。4 わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」

イエス様を信じる人たちの群れは、このイエス様が教えてくださった祈りを「主の祈り」として大切にしてきました。このルカの記録しているバージョンとマタイの6章のバージョンを合わせて作られています。週報の裏表紙にも載っています。ユアチャーチではしませんが、この主の祈りを礼拝中に皆で声を合わせて唱える教会は多くあります。私が通った幼稚園のように、キリスト教主義の学校などでも生徒に覚えさせているところは多いと思います。それは、この主の祈りは私たちの祈りの基本だからです。主の祈りの一つ一つの言葉を噛み締めることで、色々なことが見えてきます。まず、最初の一言「父よ」はどうでしょうか。


1. 神様はお父さん (11-13)

このルカの記録では短く「父よ」だけですが、マタイが記録しているバージョンでは「天におられる私たちの父よ」となっています。私たちが主の祈りとして知っている祈りも、このマタイの方を採用しています。ただ、どれにしても「父よ」というのは堅苦しい表現です。イエス様が弟子たちに教えた原語では、もっと親密な呼びかけで「お父さん」と訳した方がいい、くだけた表現です。ですから、私たちが祈る時にまずするのは、神様に向かって「私たちのお父さん」と呼びかけることです。私の神学校の先生の中には「お父ちゃんでいい」と言う先生もいました。少し前のメッセージで、私たちは神様の前には何歳になっても子供だとお話ししましたが、ここでも同じです。神様は私たちのお父さんで、私たちを子供として愛してくださっています。このことをもっと詳しくイエス様は教えてくださっています。少し先の11-13節を先に読みましょう。

11 あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。12 また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。13 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」

私たちの人間のお父さんには限界はあり、間違いもありますが、それでも自分の子供には良いものを与えようとするのが良い父親だということは誰もが知っています。子供を愛しているなら、子供の欲しがるものが子供にとって良いものであるならば、与えようとするのが普通です。そうでない父親もこの世界に多くいることは悲しい現実です。でも良い父親は、子供にとって栄養になる魚や卵の代わりに、子供に害を及ぼす蛇やさそりを与えたりはしません。子供に何が良いか、何が必要か、反対に何が悪いか、よく知っています。子供が欲しがる甘いお菓子でも、体に悪いと分かっていたら与えません。子供が道路に飛び出そうとしたら、怖い声を出して乱暴にでも捕まえて止めます。それは全部子供を守り、成長させるためです。私たちは神様がそういう良い父親であるということを信じているでしょうか?神様の声を聞きたいなら、そう信じて信頼して、「神様!お父さん!」と呼ぶことが出発点です。では主の祈りの前半を見ていきましょう。


2. 中心は自分ではなく神様


「あなたの名が崇められますように。あなたの国が来ますように」です。これにマタイでは「あなたの意志が天で行われるように地でも行われますように」というのが加えられています。私たちが神様に呼びかける時、油断すると私たちは自分の願いばかりを並べてしまって、神様が何とおっしゃるのか聞こうとしていない時があります。物事がうまくいっていない時に、自分の悩みを脇に置いて「あなたの名が崇められますように」と祈るのは難しい時もあります。でも、病気や人間関係の破綻や、どんなに自分にはどうしもない問題に直面していたとしても、それでも神様は良い方で、必ず全てをよい方向に導いてくださると信じることができたなら、どんな問題でも乗り越えていけます。今自分にはこんな問題がある、それでもこの全てにおいて「あなたの名が崇められますように、あなたの国が来ますように」と祈ることが、私たちを導き慰める希望でもあります。それが私たちの生きる目的でもあり、生きることができる理由でもあります。だから、イエス様がこれを祈りの前半に置いたのは自然なことです。では後半に入っていきましょう。


3. 自分の罪と必要を知る


「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。」イエス様の十字架の苦しみによって、私たちの罪は赦されました。それでもイエス様はここで私たちに、「罪を赦してください」と祈るように言われています。それは、私たちは赦されただけであって、私たちの罪を犯す性質は変わっていないからです。神様を礼拝し、神様の意志がなりますようにと願いながら、いつの間にか自分が一番になり、自分中心な生き方に引き戻されるのが私たちの現実です。生きている限りこの性質は変わりません。だから私たちはいつも神様に「罪を赦してください」と祈る必要があります。「私たちに必要な糧を毎日与えてください」というのは、文字通りその日の食べるものを与えてください、そのための仕事と住む場所を与えてくださいという意味でもあります。でも同時に、後半全体でとらえるならば、毎日、今日一日、神様を信頼して生きることができるように、必要なものを与えてくださいという意味でもあります。大きな出来事があった時にだけ助けを求めるのではなく、繰り返し、毎日、私たちは神様の助けが必要だと知っていることが大切です。


B. 大胆に忍耐強く求める

1. 大胆に、忍耐強く (5-8)

5 また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。6 旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』7 すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』8 しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。


注目していただきたいのは8節です。友達だからということでは動いてくれなくても、しつこく頼めば何でもしてくれるだろうという言葉です。イエス様は、私たちがしつこく神様に願えばしぶしぶでも動いてくれるから、しつこくしなさいと言っているのでしょうか?もしそうだとしたら、私たちの願いが叶うかどうかは、全て私たちの祈りの熱心さ、しつこさにかかっているということになってしまいます。イエス様が言おうとしているのはそういうことではありません。先が見えなくても、すぐに答えが与えられなくても、あきらめないで求め続けなければならないということです。このたとえ話に出てくる人は、子供たちは寝静まった真夜中に、ドンドン扉を叩き、友人の名前を呼んで起こしました。私たちもそれくらい大胆に神様に求めていいということです。非常識と思われても、自分には必要なんだと確信を持っているなら神様に大胆に求めてください。ただし、主の祈りで確認した基本姿勢は忘れないでください。神様は良いお父さんであること、私たちは自分が罪深いことを知っていて、ただ神様中心の人生を送ろうとしているということです。その姿勢から外れていないなら、自分の願うものを、それがどんなに無謀と思われても願い続けてください。そして、すぐに与えられないことにがっかりしないで、忍耐強く神様を信頼して求め続けてください。神様は、必ず私たちにわかる方法で、最善の答えを与えてくださいます。願い通りのものが得られるとは限りません。タイミングも期待より大幅に遅いかもしれません。それでも、求め続けていれば、一番良い時に一番良いものを神様は必ず与えてくださると知ることができます。途中で焦って妥協したり、あきらめてしまったら、せっかくもっと良いものが用意されているのに、それを放棄してしまうことになります。私たちの方が遅いと思っても、忍耐強く待ち続けていれば、後になってやはりそれが一番良かったのだと分かるはずです。残りの部分を読みます。


2. 本当に満足するまで求める (9-10)

9 そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。10 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。

付け加えることは何もないような、シンプルで強力な言葉だと思います。ただこの言葉を反対に言ってみたいと思います。「求めなければ与えられない」のです。探さなければ見つけられません。門をたたかなければ、開かれることはありません。子供は好奇心のかたまりで、若い人は夢にあふれていますが、大人になるとどうも適当なところであきらめる癖がつくように思います。最近は若い人でもそうかもしれません。また特に日本では「出る杭は打たれる」というように、平凡がいいという風潮が昔からあります。人生なんてこんなもん、人間なんてこんなもん、私なんてこんなもん、とあきらめているなら、どうかあきらめないでほしいと心から願います。私たちの究極の良い父親である神様をもっと知ってほしいと思います。今日の箇所の最後の11節から13節はもう最初に読んでしまいましたが、もう一度そこを読んでみてください。神様は私たちに何が必要か知っていて、必ずそれを与えてくださいます。そして何より、13節にあるように、神様は私たちにご自分の霊、聖霊を与えて、私たちの考えと歩みをいつでも導いてくださいます。神様を見失うことがないように、そして幸せな人生を歩むことができるように、聖霊は助けてくださいます。豊かで、実りある人生です。それが神様が私たちに与えてくださる最終的なプレゼントだとも言えるでしょう。だから、どうか今ある問題に目を曇らされないで、中途半端にあきらめないで、神様の愛と人々の愛に満ち足りた人生を求め続けてください。


メッセージのポイント
神様は私たち全てのお父さんです。私たちは神様をお父さんと呼んで、信頼して願いを何でも打ち明け、求めることが許されています。神様は私たちの祈りに対して、必ず私たちにとって一番良い形で答えてくださいます。願いがあるのなら中途半端にあきらめないで、大胆に求めましょう。すぐに答えが与えられない時は、神様を信頼して忍耐強く待ちましょう。期待通りの答えが得られない時は、神様は私たちの期待する以上の素晴らしいことをしてくださると楽しみにしましょう。

話し合いのために
1) 「主の祈り」をどう思いますか?あなたの普段の祈りと比べて何か違いますか?
2) 大胆に忍耐強く求める上で一番大切なことは何ですか?

子供達のために
5節から10節に注目してみてください。真夜中にしつこく友達に頼み事をしたという出来事を一緒に想像してみてください。注意していただきたいのは、神様は、私たちの祈りの熱心さによって、私たちの願いを叶えるかどうか決めるような方ではないということです。私たちが祈るのは、その祈りによって神様を動かし、「頼み倒す」ためではありません。ただ、このたとえ話が教えてくれるのは、大胆に(真夜中でも)、忍耐強く(しつように頼み、食い下がる)、神様に願うべきだということです。神様はお父さんとして、私たちのどんな願いでも聞いていてくれ、私たちが辛抱強く希望を持って待つことを喜ばれます。