<メッセージノート>

2015/6/14 テサロニケの信徒への手紙2 1:1-12
苦難が意味を持つ 永原アンディ


A. 意味のある苦しみと無意味な苦しみ

1. 神の国を目指す者の苦しみ (1-5)

1 パウロ、シルワノ、テモテから、わたしたちの父である神と主イエス・キリストに結ばれているテサロニケの教会へ。
2 わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。
3 兄弟たち、あなたがたのことをいつも神に感謝せずにはいられません。また、そうするのが当然です。あなたがたの信仰が大いに成長し、お互いに対する一人一人の愛が、あなたがたすべての間で豊かになっているからです。
4 それで、わたしたち自身、あなたがたが今、受けているありとあらゆる迫害と苦難の中で、忍耐と信仰を示していることを、神の諸教会の間で誇りに思っています。
5 これは、あなたがたを神の国にふさわしい者とする、神の判定が正しいという証拠です。あなたがたも、神の国のために苦しみを受けているのです。


2. 背いて生きる者の苦しみ (6-9)

6 神は正しいことを行われます。あなたがたを苦しめている者には、苦しみをもって報い、
7 また、苦しみを受けているあなたがたには、わたしたちと共に休息をもって報いてくださるのです。主イエスが力強い天使たちを率いて天から来られるとき、神はこの報いを実現なさいます。
8 主イエスは、燃え盛る火の中を来られます。そして神を認めない者や、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者に、罰をお与えになります。
9 彼らは、主の面前から退けられ、その栄光に輝く力から切り離されて、永遠の破滅という刑罰を受けるでしょう。


B. 神の国を目指す者への報い (10-12)

10 かの日、主が来られるとき、主は御自分の聖なる者たちの間であがめられ、また、すべて信じる者たちの間でほめたたえられるのです。それは、あなたがたがわたしたちのもたらした証しを信じたからです。
11 このことのためにも、いつもあなたがたのために祈っています。どうか、わたしたちの神が、あなたがたを招きにふさわしいものとしてくださり、また、その御力で、善を求めるあらゆる願いと信仰の働きを成就させてくださるように。
12 それは、わたしたちの神と主イエス・キリストの恵みによって、わたしたちの主イエスの名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主によって誉れを受けるようになるためです。


メッセージのポイント
イエスに従って歩むことは、決して平坦な道ではありません。迫害、妨害は最後まで続きます。この世での成功、自己実現を求める者たちにとって、イエスに従う者の存在は目障りなのです。イエスに従う者は、この世界での富や名声を手に入れることが出来ないかもしれません。それらは私達が求める報いではありません。私たちが求めるのは、神の招きに相応しい者と変えられることです。それに近づくために神様は私たちの内に善を求めるあらゆる願いと信仰の働きを成就させてくださいます。

話し合いのために
1) なぜイエスに従う者は迫害、苦難を受けるのでしょうか?
2) 神様はどのような報いを用意していてくださるのでしょうか?

子供達のために
年齢に合わせて、イエスに従う者が迫害を受けてきたことを教えてください。
低学年、学齢前の子供たちには、今は苦しいことや辛いことがあっても、イエスを信じている人々と助けあい、慰め励まし合うことができること。信仰は成長し、お互いに対する一人一人の愛が、私たちの中で豊かになっていくということ。そしてイエスは(いつかは誰にもわからないけれど)再び来られて神の国が完成することを伝えて下さい。

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<メッセージ全文>

2015/6/14 テサロニケの信徒への手紙2 1:1-12
苦難が意味を持つ 永原アンディ


A. 意味のある苦しみと無意味な苦しみ

1. 神の国を目指す者の苦しみ (1-5)

1 パウロ、シルワノ、テモテから、わたしたちの父である神と主イエス・キリストに結ばれているテサロニケの教会へ。
2 わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。
3 兄弟たち、あなたがたのことをいつも神に感謝せずにはいられません。また、そうするのが当然です。あなたがたの信仰が大いに成長し、お互いに対する一人一人の愛が、あなたがたすべての間で豊かになっているからです。
4 それで、わたしたち自身、あなたがたが今、受けているありとあらゆる迫害と苦難の中で、忍耐と信仰を示していることを、神の諸教会の間で誇りに思っています。
5 これは、あなたがたを神の国にふさわしい者とする、神の判定が正しいという証拠です。あなたがたも、神の国のために苦しみを受けているのです。

 パウロはこの手紙を第一の手紙の数ヶ月後に同じ人々に向けて書き送りました。迫害や困難の中でも、喜びと希望を持ち、イエスを紹介することを忍耐強く進めている人々に対して、もう一度励ます必要を感じたのでしょう。テサロニケの人々の困難は、外からの迫害と内部に起こった異端的な教えによる混乱の両面からくるものでした。テサロニケに限らず、教会は迫害や、困難のもとに置かれる時があります。それは時として忠実にイエスに従おうという心の願いを曇らせてしまいます。第二次世界大戦の時には、ドイツでも日本でも、多くの教会がイエスにではなく権力者に従う道を選んでしまいました。今は目に見える迫害が起きているわけではありません。私たちが今、心に留めておきたいことは二つあります。ひとつは迫害の時代が来るかもしれないということです。そしてその時、イエスに従おうとするなら迫害を受けることになりますが、その時に正しいことを正しいといい、間違っていることを間違いだといえるような者となれるように祈り続ける必要があるでしょう。もう一つは、今このとき、多くの国で、イエスに従うもの者であるという理由で迫害を受けている人々がいるということです。アフリカで、アジアで迫害を受けている人々のためにも祈り続けましょう。

 内部に起こる異端的な教えによる混乱は、今でも起こっている私たちの苦しみです。イエスの教えとは異なる教えを教会に持ち込もうとする人々はいつの時代にも現れます。 一番新しい例を紹介します。先日起こった神社やお寺に油のようなものがかけられたという事件の容疑者がキリスト教系の団体の幹部と聞いて、がっかりした人もいると思います。二年ほど前から活動し始めた新しい団体ですが、この人のメッセージを聞くとイエスの教えとはかけ離れた奇妙なものであることが誰にでもわかります。ところが残念なことに、最近までいくつかの教会が、この人を招いてメッセージをさせていたのです。これでは、彼はキリスト教会とは関係ないと否定することは出来ません。彼は、汚れている神社仏閣を油で清めて日本人を呪いから解放していたと主張しているようですが、イエスは、他宗教の施設を清めて民を解放しなさいとはおっしゃいませんでした。彼は形式的な偶像礼拝と神様が嫌われる偶像礼拝の真意を取り違え、神社仏閣を悪霊の棲むところのように考え、霊の戦いを挑んだというのです。さすがに油をかけるまではしなくても、霊の戦いと称して、神社仏閣に出向いて、悪霊出て行けと命じたりする人々は他にも存在します。このような人々には近づいてはいけません。彼らは、偶像礼拝の意味も、霊の戦いの意味も分かっていません。風車を怪物と間違えて攻撃を仕掛けたドンキホーテのように愚かですが、そのような人を見抜けないキリスト教会にも責任があります。私たちもその体の一部なのです。他人ごとではなく私たちの苦難なのです。教会は常に、イエスから人を引き離そうとする人々からの巧妙な攻撃にさらされています。身を守るためにはイエスとその言葉にもっと寄り添うこと、人々にもそれを勧めること以外にはありません。イエスに従って歩むことは、決して平坦な道ではありません。迫害、妨害は最後まで続きます。この世での成功、自己実現を求める者たちにとって、イエスに従う者の存在は目障りなのです。これに耐えてもイエスに従って歩むなら、神様にしか与えることの出来ない報いを得ることができます。だから今の苦難には意味があるのです。どのような報いなのかということについては最後の部分でお話します。


2. 背いて生きる者の苦しみ (6-9)

6 神は正しいことを行われます。あなたがたを苦しめている者には、苦しみをもって報い、
7 また、苦しみを受けているあなたがたには、わたしたちと共に休息をもって報いてくださるのです。主イエスが力強い天使たちを率いて天から来られるとき、神はこの報いを実現なさいます。
8 主イエスは、燃え盛る火の中を来られます。そして神を認めない者や、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者に、罰をお与えになります。
9 彼らは、主の面前から退けられ、その栄光に輝く力から切り離されて、永遠の破滅という刑罰を受けるでしょう。


 私たちを苦しめる者は、本当に相応しい罰を受けるのだろうか?ダビデもこのことを疑い、悩んでいたことが詩編を読むとわかります。今も世界では、人々を苦しめ自分の益を貪欲に求める者が悩むこともなく生き延びて、虐げられた者たちの命が奪われていくように見えます。なんとかして苦しむ者の力になりたいという者はいても大きな力とはなっていないように思えます。迫害する者の心はいつも満たされていません。それだから貪欲であり続けるのですが、いつまでも心が満たされることはありません。一方、私たちの心は神様の愛で満たされています。この大きな違いを忘れてはいけません。この愛で、苦しめられているだけでなく神様の恵みを知らない人々を助けることが出来ます。裁きが完成するのは終わりの日です。それまで世界は不完全なままです。そこで苦しみながら、悲しみながらこの世の命を終える人は数え切れないほど存在しました。この世界で人々に苦しみを与えながら、罰から逃れたようにみえる人々にとっては、その死が刑罰の始まりで、それは永遠の破滅だというのです。私たちにはそれ以上に具体的なことは教えられてはいませんがそれで満足することにしたいと思います。それより自分たちにどのような報いが与えられるかということに注目しましょう。


B. 神の国を目指す者への報い (10-12)

10 かの日、主が来られるとき、主は御自分の聖なる者たちの間であがめられ、また、すべて信じる者たちの間でほめたたえられるのです。それは、あなたがたがわたしたちのもたらした証しを信じたからです。
11 このことのためにも、いつもあなたがたのために祈っています。どうか、わたしたちの神が、あなたがたを招きにふさわしいものとしてくださり、また、その御力で、善を求めるあらゆる願いと信仰の働きを成就させてくださるように。
12 それは、わたしたちの神と主イエス・キリストの恵みによって、わたしたちの主イエスの名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主によって誉れを受けるようになるためです。

  主が来られる時、それは私たちには見当がつきません。つかなくてもいいのです。終わりは近いと思われるような材料はどの時代にもあったのです。大きな戦争や伝染病、中東の戦乱、地震、噴火。私たちの記憶のシステムは、時間が近ければ近いほど印象を強く受けるので、いろいろな人々の宣伝に惑わされて、今年に違いないなどと思ってしまいます。しかし、私たちが受ける報いは、その時がいつになろうと変わらないものです。それは富や健康といった目に見える世界に限られるものではないのです。また終わりの日に突然与えられるものでもありません。実は私たちはもうすでに少しづつ与えられつつあるのです。11節を見てください。それはパウロが神様にテサロニケの人々のために祈り求めているものです。パウロは彼らが、神の招きに相応しい者となり、神様の力によって善を求めるあらゆる願いと信仰の働きが成就するように祈っています。イエスに従う歩みを進めていけば、日々新たに、主に似た新しい人と変えられてゆきます(コロサイ3:10)。これが私たちへの報いです。私たちのうちにイエスの名があがめ続けられるような歩みを続けている限り、終わりの日がいつであろうと何も心配することはありません。その日私たちは主によって誉れを受けるのです。


メッセージのポイント
イエスに従って歩むことは、決して平坦な道ではありません。迫害、妨害は最後まで続きます。この世での成功、自己実現を求める者たちにとって、イエスに従う者の存在は目障りなのです。イエスに従う者は、この世界での富や名声を手に入れることが出来ないかもしれません。それらは私達が求める報いではありません。私たちが求めるのは、神の招きに相応しい者と変えられることです。それに近づくために神様は私たちの内に善を求めるあらゆる願いと信仰の働きを成就させてくださいます。

話し合いのために
1) なぜイエスに従う者は迫害、苦難を受けるのでしょうか?
2) 神様はどのような報いを用意していてくださるのでしょうか?

子供達のために
年齢に合わせて、イエスに従う者が迫害を受けてきたことを教えてください。
低学年、学齢前の子供たちには、今は苦しいことや辛いことがあっても、イエスを信じている人々と助けあい、慰め励まし合うことができること。信仰は成長し、お互いに対する一人一人の愛が、私たちの中で豊かになっていくということ。そしてイエスは(いつかは誰にもわからないけれど)再び来られて神の国が完成することを伝えて下さい。