<メッセージノート>
終末に起こること 永原アンディ
A. 終わりの時代に生きている (1, 2)
1 さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストが来られることと、そのみもとにわたしたちが集められることについてお願いしたい。
2 霊や言葉によって、あるいは、わたしたちから書き送られたという手紙によって、主の日は既に来てしまったかのように言う者がいても、すぐに動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたりしないでほしい。
1. すでに始まっている
2. 未だに完成していない
B. 不法の者 (3-12)
1. 不法の者は人々の背後で働いてきた (3-7)
3 だれがどのような手段を用いても、だまされてはいけません。なぜなら、まず、神に対する反逆が起こり、不法の者、つまり、滅びの子が出現しなければならないからです。
4 この者は、すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して、傲慢にふるまい、ついには、神殿に座り込み、自分こそは神であると宣言するのです。
5 まだわたしがあなたがたのもとにいたとき、これらのことを繰り返し語っていたのを思い出しませんか。
6 今、彼を抑えているものがあることは、あなたがたも知っているとおりです。それは、定められた時に彼が現れるためなのです。
7 不法の秘密の力は既に働いています。ただそれは、今のところ抑えている者が、取り除かれるまでのことです。
2. 不法の者を滅ぼすイエス (8-12)
8 その時が来ると、不法の者が現れますが、主イエスは彼を御自分の口から吐く息で殺し、来られるときの御姿の輝かしい光で滅ぼしてしまわれます。
9 不法の者は、サタンの働きによって現れ、あらゆる偽りの奇跡としるしと不思議な業とを行い、
10 そして、あらゆる不義を用いて、滅びていく人々を欺くのです。彼らが滅びるのは、自分たちの救いとなる真理を愛そうとしなかったからです。
11 それで、神は彼らに惑わす力を送られ、その人たちは偽りを信じるようになります。
12 こうして、真理を信じないで不義を喜んでいた者は皆、裁かれるのです。
メッセージのポイント
終末について考える時には、人間の視点ではなく神様の視点を想像しなければなりません。最も注意して避けなければならないのは、二つの視点を混ぜあわせて、神様からのものとは異なる自分勝手な終末論を作り上げることです。
話し合いのために
1) 終わりの日についてこの手紙から何を学びましたか?
2) 不法の者とは誰のことですか?
子供達のために
聖書を読むとしたら、9節から12節がいいでしょう。神様は、はじめから良い人と悪い人に分けて人を作ったのではありません。神様に従わない人の心にサタンがつけ込んで、酷いことをさせるようになるのです。私たちは、何も誰も怖がる必要はありません。世の中には怖いことがたくさん起こります。地震や事件や戦争。でも、イエス様を信じている人は安心していられます。先のことは誰にもわかりません。それでも私たちは安心していていいのです。それはイエス様が一緒にいて下さり、決して見放さないからです。何かを恐れないで、イエス様を信頼しようと伝えて下さい。
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<メッセージ全文>
終末に起こること 永原アンディ
A. 終わりの時代に生きている (1, 2)
1 さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストが来られることと、そのみもとにわたしたちが集められることについてお願いしたい。
2 霊や言葉によって、あるいは、わたしたちから書き送られたという手紙によって、主の日は既に来てしまったかのように言う者がいても、すぐに動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたりしないでほしい。
1. すでに始まっている
この手紙が書かれたのは今から二千年近く前です。イエスの十字架と復活の出来事からまだ数十年しか経っていない時期です。その頃から、人は終わりの時代に生きているという意識を持っていたということです。手紙を書いたパウロも、そう考えるように勧めていたのです。この意識を持っていることは私たちにとっても大切なことです。復活後、イエスの姿が見えなくなって以来、終わりの時代に突入し、まだその状態が続いているというのが、普通の教会の一般的な受け止め方です。
テサロニケでは、このことについて一つの混乱が起こっていました。「主の日はすでに来てしまった」と言いふらす者が起こったのです。それを肯定する偽の「パウロからの手紙」も誰かの手によって書かれていました。 終わりが来てしまったのに気づかなかったとしたら、それは取り残されてしまって、地獄の苦しみが始まるということになります。それで人々は動揺したようです。パウロは「まだイエスは来ていません。騙されてはいけません」と言っています。おどろくべきことにこの「終末詐欺」は2000年の間、いろいろな人々によって繰り返されてきています。そのたびに、動揺して分別を無くしたり、慌てふためく人が出るのです。皆さんもどうか終末の日時を予言するような偽預言者に惑わされないで下さい。
しかし逆に、終わりなんか来るわけはないと思っていてはいけません。終わりの時は始まっているのです。人には永遠のように思われる2000年も神様の目から見れば一瞬でしょう。私たちとしては、世の終わりが明日であっても、自分が生きている間ではなくてもどちらでも後悔しないように生きるしかありません。今するべきことにも、100年計画にも手を抜かないということです。
2. 未だに完成していない
思えば私たちは、今日を生きるという事には熱心であっても、次世代に委ねるような計画を教会として立ててきたことがありませんでした。長くても10年か20年計画がせいぜいです。これが教会が時代から取り残されてしまう原因の一つだと私は考えます。季節が変われば服を変えるように、時代が変われば、キリストの体の装いも変わらなければなりません。中身、本質を変えるのではないのです。教会史は教会が装いを変えることに消極的だったために、見た目は同じでも変質してしまった教会の例を沢山教えてくれます。むしろ中身が変わらないためには、装いを変えなければならないのです。10年20年の計画では、神様の目から見れば無計画に近いのではないでしょうか?私たちはもっと先のヴィジョンを見るべきではないでしょうか?皆さんの子供や孫や曾孫にどのような教会の一部となってもらいたいですか?どのようにイエスに従う者となってもらいたいですか?今から考えたほうがいいことです。70年前、戦争が終わるとそれまでの価値観が崩れ、イエスの福音に心を開く人が大勢現れました。子供たちは大人以上に教会に集まりました。今では考えられないことです。教会の本質が変わってしまったからではありません。社会構造が変わったのです。そして教会はそれに対応することが出来なかったのです。私たちは、明日終わりが来ても後悔しない教会であると同時に、それが何世紀先になっても対応できるように。知恵を出し合って、新しい装いを考えてゆきましょう。中身は、イエスと彼に従ってゆく者達の集まりです。よりイエスと近くなり、イエスの手足となって、50年先、100年先でも中身は変わらない教会を夢見ましょう。
B. 不法の者 (3-12)
1. 不法の者は人々の背後で働いてきた (3-7)
3 だれがどのような手段を用いても、だまされてはいけません。なぜなら、まず、神に対する反逆が起こり、不法の者、つまり、滅びの子が出現しなければならないからです。
4 この者は、すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して、傲慢にふるまい、ついには、神殿に座り込み、自分こそは神であると宣言するのです。
5 まだわたしがあなたがたのもとにいたとき、これらのことを繰り返し語っていたのを思い出しませんか。
6 今、彼を抑えているものがあることは、あなたがたも知っているとおりです。それは、定められた時に彼が現れるためなのです。
7 不法の秘密の力は既に働いています。ただそれは、今のところ抑えている者が、取り除かれるまでのことです。
ここで不法の者とパウロが呼んでいるのは、普通の人間のことではありません。人間を背後から操る人格的な存在です。不法な者はまだその力を完全に発揮しているわけではありませんが、歴史上の様々な王、独裁者たちの背後の働いてきたので、私たちはその存在を知っているのです。キリスト教を国教とする前のローマ皇帝、ヒトラーなどの独裁者たち日本の天皇は、権力を握ったり、自分は神だと宣言したいはしませんでしたが、周りの者達にそのように仕立てあげられて、本人の意志にかかわらず、そのような役割を担わされました。不法の者の働きは当時の日本の権力集団を操ったのです。しかし今までに起こってきたことは、最後の戦いの前兆にすぎないとパウロは教えてくれています。今までとはケタ違いの力を発揮するために不法の者が正体を表すというのです。そしてその時に至って、イエスは再登場なさるのです。
2. 不法の者を滅ぼすイエス (8-12)
8 その時が来ると、不法の者が現れますが、主イエスは彼を御自分の口から吐く息で殺し、来られるときの御姿の輝かしい光で滅ぼしてしまわれます。
9 不法の者は、サタンの働きによって現れ、あらゆる偽りの奇跡としるしと不思議な業とを行い、
10 そして、あらゆる不義を用いて、滅びていく人々を欺くのです。彼らが滅びるのは、自分たちの救いとなる真理を愛そうとしなかったからです。
11 それで、神は彼らに惑わす力を送られ、その人たちは偽りを信じるようになります。
12 こうして、真理を信じないで不義を喜んでいた者は皆、裁かれるのです。
不法の者の働きの前兆はすでに起こっているとお話しました。ここを読むと政治的な力をふるうだけではなく、サタンに操られて偽りの奇跡としるしと不思議な業を行い、滅びてゆく人々を欺くという活動を行うことがわかります。わざわざ「偽りの」と言っているのは、その前提に、聖霊によって主に従う者が、真の奇跡としるしと不思議な業を行うということがあるからです。
不法の者の前兆は、奇跡としるしと不思議な業を者としても現れているということです。どうしたら本当に神から来る、奇跡としるしと不思議な業と、偽りの奇跡としるしと不思議な業を区別することが出来るのでしょうか?それは彼ら自身の生活の中で、また彼らの働きの中で聖霊の実を実らせているかどうかで判断できます。先月も紹介しましたから覚えているかもしれませんが、聖霊の実とはガラテアの信徒への手紙 5:22,23にある「愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」です。
本当の預言者は、自分を預言者と呼んだり、自分は日本に対する使徒だと自称したりはしません。これらの人は自己顕示欲にコントロールされている偽物です。奇跡が起こる、不思議が起こるが判断の基準ではないのです。基準はその人に現れる聖霊の実です。このような人々に惑わされる人は、パウロによれば滅びてゆく人々です。
「偉大な伝道者、預言者、使徒がわざわざニッポンに来てくれる、大きな催し物をして歓迎しよう」 日本では容易にそんな雰囲気で燃え上がります。しかし、大会が終わってみれば、何も変わってはいない、そういうことを何度も繰り返してきました。日本の教会はナイーブ過ぎたといわなければなりません。どんなに素晴らしいメッセージをするかではなく、どんな奇跡・しるし・不思議が起こったかではなく、その人がどのような社会、つまり隣人に対する態度で生きてきたかを問うべきです。情報が足りなければ、言っていることを鵜呑みにするのではなく客観的な態度で望むべきです。そうでないと、さらに巧妙で手強い不法の者自身が登場した時、私たちは簡単に騙されてしまうおそれがあるのです。間違って不義を喜ぶことがないように、真理を信じて歩み続けることが出来るように、自分のためにも、人々のためにも祈りましょう。
メッセージのポイント
終末について考える時には、人間の視点ではなく神様の視点を想像しなければなりません。最も注意して避けなければならないのは、二つの視点を混ぜあわせて、神様からのものとは異なる自分勝手な終末論を作り上げることです。
話し合いのために
1) 終わりの日についてこの手紙から何を学びましたか?
2) 不法の者とは誰のことですか?
子供達のために
聖書を読むとしたら、9節から12節がいいでしょう。神様は、はじめから良い人と悪い人に分けて人を作ったのではありません。神様に従わない人の心にサタンがつけ込んで、酷いことをさせるようになるのです。私たちは、何も誰も怖がる必要はありません。世の中には怖いことがたくさん起こります。地震や事件や戦争。でも、イエス様を信じている人は安心していられます。先のことは誰にもわかりません。それでも私たちは安心していていいのです。それはイエス様が一緒にいて下さり、決して見放さないからです。何かを恐れないで、イエス様を信頼しようと伝えて下さい。