<メッセージノート>

2015/07/05 メッセージノート (ルカ11:27-36)
神様の言葉によって輝く 池田 真理


A. 神様の言葉を聞くとは (27-28)

27 イエスがこれらのことを話しておられると、ある女が群衆の中から声高らかに言った。「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。」28 しかし、イエスは言われた。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」


1. 十字架を知ること (29-30)

29 群衆の数がますます増えてきたので、イエスは話し始められた。「今の時代の者たちはよこしまだ。しるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。30 つまり、ヨナがニネベの人々に対してしるしとなったように、人の子も今の時代の者たちに対してしるしとなる。


2. 悪魔に支配される危険 (24-26)

31 南の国の女王は、裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。ここに、ソロモンにまさるものがある。32 また、ニネベの人々は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある。」

B. 神様の言葉が私たちの光 (33-36)

33 「ともし火をともして、それを穴蔵の中や、升の下に置く者はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。34 あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。35 だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。36 あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなければ、ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らすときのように、全身は輝いている。」

1. 光は消えていないか?

2. 他人のために輝く


メッセージのポイント
神様の言葉を聞くということは、まず第一にイエス様は自分のために十字架で苦しまれたと知るということです。そして、神様の前に罪を悔い改め、神様が望んでおられることを追い求めるということです。十字架で示された神様の愛は私たちを導く光です。この光は私たちを照らし、輝かせてくれます。それは、神様の愛が私たちを通して他の人にも伝わるためです。

話し合いのために
1) 神様の言葉を聞くために、私たちは何ができるでしょうか?
2) あなたの中の光は輝いていますか?

子供達のために
33-36節に集中して、神様の愛をともし火に例えて話してみてください。神様に愛されているというともし火は、一人一人の中でどれくらい強く輝いているでしょうか?その理由は何でしょうか?話し合ってみてください。

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<メッセージ全文>

2015/07/05 メッセージノート (ルカ11:27-36)
神様の言葉によって輝く 池田 真理

 先週は、神様を求めなければ、私たちは簡単に悪魔の側にいってしまうということをお話ししました。それが私たちの罪の現実という悪いニュースです。今日は反対に良いニュースについてお話しします。まず、先週も読んだ11:27-28をもう一度読んでおきたいと思います。


A. 神様の言葉を聞くとは (27-28)

27 イエスがこれらのことを話しておられると、ある女が群衆の中から声高らかに言った。「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。」28 しかし、イエスは言われた。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」

 「神様の言葉を聞き、守る」とは具体的にどういうことでしょうか?聖書や十戒を読んで従うということを思い浮かべる方もいるかもしれません。それも大切ですが、一番重要なことではありません。私たちは日々、いろいろな声に囲まれています。優しい声、励ます声、慰める声ばかりではありません。怒る声、責める声、呪う声も聞きます。それは他の人たちからの場合も、自分の内から出てくる場合も両方あります。私たちはそれぞれの状況の中で、どれに従うべきなのか、どれが本当でどれが嘘なのか、判断しています。そしてその上でそれに従うかどうかも自分次第です。するべきと分かっていてもできない、反対にするべきでないと分かっていてもやってしまう、ということが起こります。元気な時にする判断と疲れている時の判断では違います。人間は複雑です。でも、「幸いなのは神様の言葉を聞き、それを守る人」です。たくさんの異なる声が溢れている中で、耳を澄まして神様の言葉を聞き分けること、それが私たちを幸せに導く唯一確実な方法です。どうやって聞き分けるのでしょうか?29節から読んでいきましょう。

1. 十字架を知ること (29-30)

29 群衆の数がますます増えてきたので、イエスは話し始められた。「今の時代の者たちはよこしまだ。しるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。30 つまり、ヨナがニネベの人々に対してしるしとなったように、人の子も今の時代の者たちに対してしるしとなる。

 ヨナは、ニネベの町の人々に神様の言葉を伝えた人物です。ニネベの人々はヨナの言葉を神様の言葉として信じ、悔い改めて神様の裁きを免れました。イエス様も人々に神様の言葉を伝えました。ただ、イエス様のしるしはまだこの時点で完成していませんでした。29-30節の動詞は未来形です。しるしはまだ与えられておらず、これから未来に起こるとされています。イエス様のしるしは、十字架と復活の出来事によって完成するからです。ヨナが三日間魚の腹の中にいて、また地上に戻されたように、イエス様は一度死なれましたが三日後によみがえられました。それが私たちに神様が与えている最大のしるしです。神様が今自分に何とおっしゃっているのか、知りたければイエス様の十字架に戻ってみてください。イエス様は、私たちが自分の過ちに気が付かず謝る必要すら感じる前に、私たちのために苦しむことを選んでくださった方です。神様の愛が自分に必要だと私たちが知る前から、一方的に愛してくださり、神様と共に生きる道を用意してくださったのがイエス様です。イエス様ご自身が、神様が私たちに与えてくださっている言葉です。聖書も十戒もその確信なしに読むならば、表面的に厳しい戒めで終わってしまうこともあります。でも、十字架を覚えているなら、何度読んだ聖書の箇所でも新しい力を与える神様の言葉を届けてくれます。色々な声が溢れているこの世界の中でも、神様の声が少しずつ聞こえてきます。その中で私たちは進むべき道を示されて、少しずつ神様に似たものとして造り変えられていきます。


2. 悪魔に支配される危険 (24-26)

31 南の国の女王は、裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。ここに、ソロモンにまさるものがある。32 また、ニネベの人々は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある。」

 これを聞いた人たちはまたさぞ驚いたことでしょう。ソロモンよりも南の国の女王、ヨナよりもニネベの人々の方が優れているというのは、脇役を主役に押し上げているのと同じです。でも、神様の言葉を聞いて従うとは、それほど極端な方向転換を伴っても大切なことだと伝えるために、イエス様は躊躇しませんでした。南の国のシェバの女王は、神様がソロモンに与えたという知恵がどれほど素晴らしいものか、自分で彼を試すまでは信じていませんでした。でもそれが噂以上だということを知って、正直に自分が間違っていたと認め、ソロモンに知恵を与えた神様をたたえました。女王は、噂を確かめるために、多くのお供を引き連れて贈り物と共に遠路はるばる旅をするという労を厭いませんでした。ヨナの言葉を聞いたニネベの人たちは、自分たちが誤った行いをしていることを認め、行いを改めました。神様の言葉は、私たちの誤りを明らかにし、私たちの行動を修正します。それを宗教的な言葉で言うと「悔い改める」ということになります。悔い改めるというのは、後悔すること、反省することとは少し違います。後ろを振り返るだけでなく、前に進む方向を変えるところまでが悔い改めるということです。シェバの女王もニネベの人たちも、自分の間違いを認め、神様を讃えて、新たな一歩を踏み出しました。神様の言葉を聞くとは、彼らのように自分の間違いを認めるという痛みを伴いながら、神様に方向修正をしていただくことです。

続く内容は、イエス様が突然話題を変えたように思えますが、しっかりつながっています。十字架の愛を知った私たちは、どんなに暗い暗闇を歩いても、光を失うことはありません。それどころか、私たち自身が他の人のために光となることすらできるようになります。33-36節を読んでいきましょう。


B. 神様の言葉が私たちの光 (33-36)

33 「ともし火をともして、それを穴蔵の中や、升の下に置く者はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。34 あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。35 だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。36 あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなければ、ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らすときのように、全身は輝いている。」

1. 光は消えていないか?


 自分の信念や情熱を炎に例えることはよくあります。それが生きるための燃料で、それを燃やして生きていけというような勧めをよく聞きます。でも、同時に燃え尽き症候群という言葉もあります。エンジンフル回転で頑張りすぎて、燃料がなくなってしまった状態です。それか、目的が達成されてしまって、燃える意味がなくなってしまい無気力になってしまう状態です。そこまでいかなくても、思いがけない障害によって水をかけられて、炎が消されてしまうこともあると思います。イエス様が話しているのは、そういう炎のことではありません。イエス様が話しているのは、たとえ私たちが自分の信念が何か分からなくなり、それまで情熱を燃やしていたものを失ったとしても、私たちを外から照らし続ける光のことです。神様の言葉という光です。この光は、私たちを照らして導くだけでなく、私たちの内に霊の火をともします。私たちの目はこの光を見ているでしょうか?イエス様の十字架の光、私たちを決して見離すことのない愛の光です。そして同時に、私たちの中にある闇を照らし出し、明るく変える光です。この光が見えなくなる時、私たちの中の霊の火も消えてしまいます。反対に、私たちの霊の火が弱まれば、目は濁り、光が見えなくなります。だからどんな時でも、神様の言葉を求め、神様の霊を求めましょう。私たちの内に光はありません。でも聖霊によって、光を光として感じることはできます。そして、自分に光はなくとも、神様の光を写して輝くことができます。最後にこのことについてお話ししたいと思います。


2. 他人のために輝く

光は何のために輝くのかといったら、周りを照らすためです。ともし火は、燭台の上に置かれて、部屋全体を照らします。部屋の電気は部屋の隅につけたりしないで、天井とか壁の高い方につけます。私たちも、神様の光によって輝くのは、自分のためではなく、他の人のためです。かと言って、頑張って輝く必要はありません。私たちは自分から輝くことはできず、ただ神様の光を映すことだけです。自分が輝いているかどうかもあまり心配する必要はありません。神様の光が私たちを通して輝いているかどうかは、私たちがめざましい働きをしているかどうかによって決まるのではありません。私たちが苦しみの中にいて何もできなくても、神様への信頼がそこにあるならば、私たちは輝いています。神様に自分の中の闇を隠すことなく、神様の光のもとに自分の全てを委ねるなら、私たちは何ができてもできなくても、自分で分からなくても輝いています。

先週と今週は、連続して「神様の言葉を聞く」ということについてお話ししてきました。「幸いなのは、神様の言葉を聞き、それを守る人」です。幸いなのは、十字架の愛を信頼し、悔い改める人です。幸いなのは、神様の言葉によって輝いている人です。


メッセージのポイント
神様の言葉を聞くということは、まず第一にイエス様は自分のために十字架で苦しまれたと知るということです。そして、神様の前に罪を悔い改め、神様が望んでおられることを追い求めるということです。十字架で示された神様の愛は私たちを導く光です。この光は私たちを照らし、輝かせてくれます。それは、神様の愛が私たちを通して他の人にも伝わるためです。

話し合いのために
1) 神様の言葉を聞くために、私たちは何ができるでしょうか?
2) あなたの中の光は輝いていますか?

子供達のために
33-36節に集中して、神様の愛をともし火に例えて話してみてください。神様に愛されているというともし火は、一人一人の中でどれくらい強く輝いているでしょうか?その理由は何でしょうか?話し合ってみてください。