<メッセージノート>

2015/7/12 メッセージノート (テサロニケの信徒への手紙 II 2:13-17)
しっかり立とう 永原アンディ


A. 神様はあなたを選んで招いた (13, 14)

1. 霊の力と信仰によって (13)

しかし、主に愛されている兄弟たち、あなたがたのことについて、わたしたちはいつも神に感謝せずにはいられません。なぜなら、あなたがたを聖なる者とする“霊”の力と、真理に対するあなたがたの信仰とによって、神はあなたがたを、救われるべき者の初穂としてお選びになったからです。


2. キリストの栄光にあずからせるために (14)

神は、このことのために、すなわち、わたしたちの主イエス・キリストの栄光にあずからせるために、わたしたちの福音を通して、あなたがたを招かれたのです。


B. 招きに応えて (15-17)

1. 教えを守ろう (15)

ですから、兄弟たち、しっかり立って、わたしたちが説教や手紙で伝えた教えを固く守り続けなさい。


2. 良い働きと良い言葉で生きよう (16, 17)

16 わたしたちの主イエス・キリスト御自身、ならびに、わたしたちを愛して、永遠の慰めと確かな希望とを恵みによって与えてくださる、わたしたちの父である神が、
17 どうか、あなたがたの心を励まし、また強め、いつも善い働きをし、善い言葉を語る者としてくださるように。


メッセージのポイント
神様の私達に対する根本的な恵みは選んで招いてくださったことです。それは私達自身のためにであるとともに、まだこの恵みを知らない人々が、この恵みを得るためでもあるのです。どの時代にも文化にも地域にも深刻な問題はあります。私たちが教えを守り、良い働きと良い言葉で生きるなら、私たちは希望を持つ持つ者であるばかりか、与える者になることが出来ます。

話し合いのために
1) しっかりと立つとはどのようなことを意味していますか?
2) 私たちはどのような良い働きをしているでしょうか?

子供達のために
イエス様がみんなのお父さんやお母さんを招いて下さり、お父さんお母さんがイエス様を信じて生きていこうと決心したので、私たちは今ここにいます。同じようにイエス様を信じているおともだちとともに、イエス様のお話を聞いたり、イエス様に祈ったりすることが出来るのです。それは、みんなもイエス様に招かれているということです。この招きを聞いて、喜んでイエス様について行く人になりましょう。良いことをし、良い言葉を使い、周りの人にも喜びと希望を分けてあげましょう。

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<メッセージ全文>

2015/7/12 メッセージノート (テサロニケの信徒への手紙 II 2:13-17)
しっかり立とう 永原アンディ

 あなたのこれまでの人生を振り返ってみてください。それを道に例えるなら、どのような道だったと言えますか?きれいに舗装された高速道路のようなと表現する人はまずいないでしょう。曲がりくねった道、頼りなく細い道、石ころだらけの道、雨が降ってぬかるんだ土の道、上り坂、下り坂。いずれにしても、何度も倒れたり、座り込んでしまったという経験が誰にでもあるものです。パウロは今日のテキストの中で、様々な問題や困難に直面しているテサロニケの人々を、確かな根拠をあげて励まし、「しっかり立ちなさい」と勧めています。どうしたら、しっかりと立って前に進んでゆくような人生を送れるのでしょうか?私たちにもしっかりと立って進んでゆける根拠があるのでしょうか?

A. 神様はあなたを選んで招いた (13, 14)

1. 霊の力と信仰によって (13)

しかし、主に愛されている兄弟たち、あなたがたのことについて、わたしたちはいつも神に感謝せずにはいられません。なぜなら、あなたがたを聖なる者とする“霊”の力と、真理に対するあなたがたの信仰とによって、神はあなたがたを、救われるべき者の初穂としてお選びになったからです。

 今日のテキストからその答えを発見したいと思います。始めに13節を読みます。 ここにはイエスを信じ従い始めた人もいれば、まだそれに躊躇して踏み出していない人もいると思います。そんな皆さんに最初に残念なお知らせをしておきます。歩けば躓く石ころだらけの道、晴れれば砂埃が立ち、雨が降れば池ができる凸凹の土の道が、イエスを信じた途端にハイウェイになるようなことは決してありません。辛いなあ、嫌だなあ、苦しいなあということはイエスを信じていても起こります。それでも、信じた私たちは、その道がイエスに出会う前と後とは確実に変わったと思っています。それは自分が勝手に自分の信じる神様をイエスと決めたのではなく、イエスが招いてくださったという、ここに書かれている真実を知ったからなのです。
 私たちは自分の感覚としては、「イエスを選んで従っている」と感じています。他の神を信じていたけれどイエスを信じた。神などいないと思っていたけれど、イエスを知って考えを変えた。しかし実はそうではなく、神様が私たちを選んだのだと聖書は言うのです。イエス自身も「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るように」(ヨハネ 15:16a) と言っています。だから感謝なのです。物事がうまく運ばないとき、選んであげたという思いがあるなら、「それなのにどうして良くしてくれないの?」という気持ちが出てきます。これではイエスを信頼して歩くことなど出来ません。ただ、私たちは選ばれて自分の選択なしに無理やりここに置かれているのではありません。「あなたを選んだよ、ついてきなさい」という招きに応じて、それを信頼してついて行く決心をしたのは私たちです。神様の霊が私たちに臨み、心の目が開かれ、イエスが信頼できる方だと知りついて行くのです。ですから、私たちは歩む道がどんなであっても構いません。人と比べる必要もありません。あるのは信頼だけなのです。しかしこれこそ、イエスを信じて従っていく者の強みなのです。私たちは、飛行機のようなスピードが出るけれど、きれいに整備されたサーキットしか走れないF-1レーサーではなく、様々な路面をタフに走りぬくラリードライバーのような者なのです。ラリードライバーは孤独ではありません。隣にはいつもナビゲーターがいて、的確なアドヴァイスをしてくれるのです。イエスという最高のナビゲーターのほうからドライバーであるあなたを選んで、人生というレースを始めようと招いているのです。


2. キリストの栄光にあずからせるために (14)

神は、このことのために、すなわち、わたしたちの主イエス・キリストの栄光にあずからせるために、わたしたちの福音を通して、あなたがたを招かれたのです。

 あなたはイエスに招かれています。それに応えて従い始めた人も、まだ決心がつかない人も招かれてここにいるのです。今ここにいて共に聖書の言葉を聞いていることを偶然と思わないで下さい。あなたは数十年の人生のすべてを偶然の塊とは思いたくないでしょう。しっかりとした足取りで人生を歩もうと思うなら、「偶然」を信じてはいけません。偶然を信じないということは神様を信じるということです。神様は私たち一人一人の人生の歩みを通して、ご自身の恵みや憐れみ(栄光)を表されます。あなたがイエスに助けられて、道は険しく荒れていたとしても、喜んで進んでゆけます。それが栄光の道です。そして、そのあなたを見て周りの人も励まされるのです。

 さて、もう一度13節に目を向けて下さい。日本語には「神はあなたがたを、救われるべき者の初穂としてお選びになった (God chose you as the firstfruits to be saved -ESV)」とありますが、わたしたちの英語聖書NIVでは「救われる者として初めからお選びになった (from the beginning God chose you to be saved)」とあります。今、私たちが手にしている聖書は、パウロが書いたオリジナルを翻訳しているわけではなく、何回かのコピーを経た物からまとめられました。これを写本と言います。コピーと言っても手で書き写されたものですから、いくつかの有力な写本が現存しますが、一致しない箇所があるのです。ここもそういう箇所なので、聖書の種類によってどちらを採用するか意見が分かれているということです。手紙を書き写してゆく際にどちらかが言葉を変えたことになります。オリジナルがどちらであったかは誰にもわかりません。天国に帰った時にパウロに聞いてみてください。聖書には完全な原典というものはありません。言い伝えられてきたことがまとめられ成立したものだからです。言い伝え、書き写しには多くの人々によってなされ、ようやく66巻にまとめられたのです。


B. 招きに応えて (15-17)

1. 教えを守ろう (15)

ですから、兄弟たち、しっかり立って、わたしたちが説教や手紙で伝えた教えを固く守り続けなさい。

 しっかり立って歩んでゆくために一番大切なことは、神様の言葉に聞き従うことです。当時の人々は、まだ福音書も出来ていませんでしたから、イエスの言葉はパウロの説教や手紙を通してのみ知ることが出来たのです。今私達はそれぞれが聖書を持っていますから、そこから聞くことが出来ます。ところで、教えを堅く守り続けるということは、聖書のあらゆる記述を、言葉通りに守らなければいけないということではありません。一つの理由はさっきお話ししたように、聖書間でも違いがあるからです。また、それは特定の次代の地域、文化の影響下で書かれたものだからでもあります。パウロが彼の手紙で命じていることで、守る必要がないと私たちが考えていることは沢山あります。パウロは女性はショートカットにしてはいけないし、祈るときには被り物をしなければいけないと思っていました。女性は教会では黙っていなさいとも言っています。そこで「当然女性は牧師になるべきではない」教える教会は今でも多くあるのです。皆さんはどう思いますか? 私たちはパウロの言ったことを守らないことが神様の意思に反することだとは思っていません。パウロは真理を伝えてくれますが、彼もまた文化と時代の制限の元にあるということを知っているからです。先にお話したように、聖書は突然天から降ってきたわけでも、地中から完全な形で掘り出されてわけでもなく、多くの人々の口と手を経てまとめられたものだと知っているからです。そこで私たちは聖書の言葉を正しく解釈しようと誠実に聖書に向き合うのです。その中には読み替えるべき言葉もあるでしょう。しかし自分勝手に読み替えれば、同じ聖書を使ってもイエス不在のキリスト教会を作ることになってしまうのです。旧約聖書は聖書の一部ですが、私たちはそのすべてを自分が守るべき戒律とは考えていません。パウロの言葉や旧約の言葉によって人を裁くことが出来るのは、自分自身がその全てを守っている人だけです。そしてそのような人は一人もいません。
 正しい解釈を求めるには、かつてイエスがどう言われたのか、どう行動されたかをよく学んだ上でイエスならどうなさるかを考えることが必要です。イエスの言葉を観察して分かることは、ほぼ同じ時代に生きたパウロや弟子たちとは異なりその時代特有の価値観に全くとらわれていないことです。イエスは女性や、子供にも近づき、気さくに話しかけられました。また、敬虔なユダヤ人なら、近づいてはいけないとされていた「罪人」(律法を守れない人々)にためらいもなく近づき、食事を共にしたりします。それは現代ならどのような人々に当てはまるのでしょうか?例えば、性別、身分、民族、性指向性に対する偏見により差別され、その人権を抑圧されている人々です。イエスなら彼らに寄り添われるでしょう。それまでの宗教家は、偏見を持ち裁く側に立っていましたが、イエスは彼らを律法主義と非難されたました。


2. 良い働きと良い言葉で生きよう (16, 17)

16 わたしたちの主イエス・キリスト御自身、ならびに、わたしたちを愛して、永遠の慰めと確かな希望とを恵みによって与えてくださる、わたしたちの父である神が、
17 どうか、あなたがたの心を励まし、また強め、いつも善い働きをし、善い言葉を語る者としてくださるように。

 教えを守るという事は、消極的に聖書に書かれている「何々をしてはならない」という言葉に表面的に従うことではないということを学んできました。それはでは私たちはイエスの招きに応えてどのように生きればよいのでしょうか?求められているのは、ここに書かれている、「善い働きをし、善い言葉を語る者」として生きるという事です。イエスの思いを知り実行するということですが、私たちにとってそれは非常に困難なことです。自分の努力だけでできるものではありません。日々の祈りなしには成り立たないことなのです。自分が祈っているということだけではなく、人々に祈られていることが絶対条件です。先々週マーティンが「あなたの牧師のために祈ろう」という文をFBでシェアしてくれました。本当に牧師はみんなの祈りなしに、しっかり立って生きてゆくことは出来ません。しかしそれは牧師だけではありません。皆さん一人一人も同じです。だから私たちには互いに祈り合うものとしての教会を与えられているのです。ミニチャーチはそのような人間関係を作り上げるものです。日曜日に共に礼拝を捧げるだけでは関係は成長しません。だからいつもミニチャーチを宣伝するのです。なぜユアチャーチには、週日の祈り会や聖書研究会がないのですかと言われることがあります。なぜ超教派の大きな大会に参加しないのかという質問の答えと同じです。それは簡単で、それらよりもっと大切なことに時間と労力を使ってもらいたいからです。その一つがミニチャーチです。またイエスを知らない友達や家族と過ごす時間も教会の集会以上に大切です。“教会に来る、教会に連れてくる”という考え方をやめましょう。それより、あなた自身がいつでもどこでも「教会=キリストの体=イエスに従って生きる者」なのだと考えて下さい。


メッセージのポイント
神様の私達に対する根本的な恵みは選んで招いてくださったことです。それは私達自身のためにであるとともに、まだこの恵みを知らない人々が、この恵みを得るためでもあるのです。どの時代にも文化にも地域にも深刻な問題はあります。私たちが教えを守り、良い働きと良い言葉で生きるなら、私たちは希望を持つ持つ者であるばかりか、与える者になることが出来ます。

話し合いのために
1) しっかりと立つとはどのようなことを意味していますか?
2) 私たちはどのような良い働きをしているでしょうか?

子供達のために
イエス様がみんなのお父さんやお母さんを招いて下さり、お父さんお母さんがイエス様を信じて生きていこうと決心したので、私たちは今ここにいます。同じようにイエス様を信じているおともだちとともに、イエス様のお話を聞いたり、イエス様に祈ったりすることが出来るのです。それは、みんなもイエス様に招かれているということです。この招きを聞いて、喜んでイエス様について行く人になりましょう。良いことをし、良い言葉を使い、周りの人にも喜びと希望を分けてあげましょう。