<メッセージノート>

2015/7/26 テサロニケの信徒への手紙 II 3 
イエスに従う者は・・・ 永原アンディ


1) 互いに祈りあう (1-5)

1 終わりに、兄弟たち、わたしたちのために祈ってください。主の言葉が、あなたがたのところでそうであったように、速やかに宣べ伝えられ、あがめられるように、
2 また、わたしたちが道に外れた悪人どもから逃れられるように、と祈ってください。すべての人に、信仰があるわけではないのです。
3 しかし、主は真実な方です。必ずあなたがたを強め、悪い者から守ってくださいます。
4 そして、わたしたちが命令することを、あなたがたは現に実行しており、また、これからもきっと実行してくれることと、主によって確信しています。
5 どうか、主が、あなたがたに神の愛とキリストの忍耐とを深く悟らせてくださるように。


2) 互いに勧めあう (6-12)

6 兄弟たち、わたしたちは、わたしたちの主イエス・キリストの名によって命じます。怠惰な生活をして、わたしたちから受けた教えに従わないでいるすべての兄弟を避けなさい。
7 あなたがた自身、わたしたちにどのように倣えばよいか、よく知っています。わたしたちは、そちらにいたとき、怠惰な生活をしませんでした。
8 また、だれからもパンをただでもらって食べたりはしませんでした。むしろ、だれにも負担をかけまいと、夜昼大変苦労して、働き続けたのです。
9 援助を受ける権利がわたしたちになかったからではなく、あなたがたがわたしたちに倣うように、身をもって模範を示すためでした。
10 実際、あなたがたのもとにいたとき、わたしたちは、「働きたくない者は、食べてはならない」と命じていました。
11 ところが、聞くところによると、あなたがたの中には怠惰な生活をし、少しも働かず、余計なことをしている者がいるということです。
12 そのような者たちに、わたしたちは主イエス・キリストに結ばれた者として命じ、勧めます。自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい。


3) 互いに気遣いあう (13-18)

13 そして、兄弟たち、あなたがたは、たゆまず善いことをしなさい。
14 もし、この手紙でわたしたちの言うことに従わない者がいれば、その者には特に気をつけて、かかわりを持たないようにしなさい。そうすれば、彼は恥じ入るでしょう。
15 しかし、その人を敵とは見なさず、兄弟として警告しなさい。
16 どうか、平和の主御自身が、いついかなる場合にも、あなたがたに平和をお与えくださるように。主があなたがた一同と共におられるように。
17 わたしパウロが、自分の手で挨拶を記します。これはどの手紙にも記す印です。わたしはこのように書きます。
18 わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがた一同と共にあるように。


メッセージのポイント
パウロはこの手紙を願いと勧めと祈りで締めくくりました。それぞれの内容は私たちが互いに持ち合う態度です。このような態度で結ばれる人間関係をパウロは兄弟(姉妹)と表現するのです。兄弟姉妹と言い合うことが重要なのではなく、実質的にそのような関係を保つことが大切です。

話し合いのために
1) 怠惰な人とはどのような人のことですか?
2) 兄弟として警告することと、敵とみなすこととはどう違いますか?

子供達のために
互いのために祈り合うこと、その場だけでなく一緒にいない時でも思いだして祈るべきことを上げてみましょう。子供たちは互いに勧めあうことも出来ます。した方がいいこと、しないほうがいいこと、どのような態度で勧めたら、気持よく聞いてもらえるか考えてみましょう。

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<メッセージ全文>

2015/7/26 テサロニケの信徒への手紙 II 3 
イエスに従う者は・・・ 永原アンディ

 あなたは、自分をイエスとの関係でどう表現しますか?一番多い答えは「クリスチャン」でしょう。イエス・キリストの名がパウロたちの働きによって小アジアで知られ始めた頃から(使徒言行録11章)周りの人々がそう呼び始めたのです。この言葉は聖書の中に3回しか出てきません。それは信じた人々が自分ではそう名乗っていなかったからです。それは当然で「キリストに夢中な変人」といったような悪口であり、自分たちでは使わなかったのです。でも後の世代になると印象が変わって、けっこうイケてるんじゃない?となり自分たちを指して使うようになったのです。しかし、2000年の長い歴史の中で教会が大きな組織となってゆくに連れて「クリスチャン」は「キリスト教」「キリスト教会」を連想させる言葉となり、最初の弟子たちのように単純に「イエスについて行く者」をイメージさせる言葉ではなくなってしまいました。イエスは「私がキリストだから、あなたたちは<キリストに夢中な者>とTシャツにプリントしてついてきなさい」とはいいませんでした。「来て、私に従いなさい」というのです。日本語だと「従いなさい」は「服従しなさい」という命令的な意味が感じられますが、イエスはむしろ「私についておいで」とあなたを招いているのです。日本では、人口の5%以上が自分をクリスチャンとみなしているという調査結果がありました。でも教会のメンバーとなっている人は1%以下です。その中に「キリストに夢中な変人」と呼ばれるくらい喜んでイエスに従って生活している人がどれくらいいるのでしょうか?それは、そんなにきびしい要求なのでしょうか?私たちは、クリスチャンの価値観とか道徳とか教会の良き伝統とか物事を複雑に考えすぎて元気がなくなっているように見えます。イエスは「ついておいで」というだけです。わたしは自分を、「ついておいで」というイエスの声にただ従っていく者でありたいと思います。ただ、この「イエスに従う者」という言葉も、内容が伴わなければ「クリスチャン」という言葉と同じになってしまいます。今日はイエスに従う者同士の人間関係について、3つのことをこのテキストから考えてゆきます。

1) 互いに祈りあう (1-5)

1 終わりに、兄弟たち、わたしたちのために祈ってください。主の言葉が、あなたがたのところでそうであったように、速やかに宣べ伝えられ、あがめられるように、
2 また、わたしたちが道に外れた悪人どもから逃れられるように、と祈ってください。すべての人に、信仰があるわけではないのです。
3 しかし、主は真実な方です。必ずあなたがたを強め、悪い者から守ってくださいます。
4 そして、わたしたちが命令することを、あなたがたは現に実行しており、また、これからもきっと実行してくれることと、主によって確信しています。
5 どうか、主が、あなたがたに神の愛とキリストの忍耐とを深く悟らせてくださるように。


 パウロは手紙を読んでいるテサロニケの人々にとって、指導者であり、命じられれば従うべき立場の人です。ところがそのパウロが、私のために祈ってくださいと彼らに頼んでいます。ここに私たち、イエスに従う者の人間関係の特色があります。牧師であれ、リーダーであれ、長老、執事、どのような名前で呼ぶにせよ、それは身分の違いではありません。役割の違いにすぎないのです。皆、同じ弱さを持った「赦された罪人」に過ぎません。私たちの持つ罪の性質の一つに、階級や差別を作ってしまう傾向があります。政治でも、宗教でも、学問の世界でもそれが起こります。ある人を神様のようにあがめると政治なら独裁の始まりです。宗教ならカルトの始まりです。これは偶像礼拝の一つの形態です。私たちは、相手がどのような者であれ互いに祈り合うのです。
 誰かの為に祈ることは出来ても、私のために祈ってくださいというのは、なかなか出来ないことです。これも私たちの習性なのですが、自分の弱みを見せることに恐れがあるのです。嫌われるかも知れない、がっかりさせるかもしれない、という恐れです。同じ神様を信じている人に対しても私たちは、同じ恐れを抱きます。しかし、あなたはイエスを信頼しているでしょう?教会はイエスを頭とするキリストの体であり大きな家族です。知りあえば知り合うほど、祈ること祈ってもらうこと喜びとなってきます。
 さて、パウロの祈りのリクエストは様々な危険からその身が守られ、イエスのことを自分に与えられた限られた時間のうちに、できるだけ多くの人に伝えられるように祈っていて下さいとのことでした。そして人々のためにも悪から守られるようにと祈っています。5節に注目して下さい。日本語では意訳していますが、英語は「主があなたがたの心を、神様の愛とキリストの忍耐に向けてくださるように」と直訳していて、そのほうがパウロの考えが正確に伝わっています。神様の愛とキリストの忍耐についてどれほど「深く悟った(学んだ、知った)」かではなく、「心の向き」が大切なのです。今自分がどういう状態かが問題なのではなく、どんなスピードで成長しているかでもなく、心がどこに向いているかが大切です。そしてその向きはイエスが直してくれることなのです。ですからこのことについて私たちがすることは、互いのために神様に祈ることなのです。互いに祈り合うこと、それはイエスに従う者の人間関係の基本中の基本です。


2) 互いに勧めあう (6-12)

6 兄弟たち、わたしたちは、わたしたちの主イエス・キリストの名によって命じます。怠惰な生活をして、わたしたちから受けた教えに従わないでいるすべての兄弟を避けなさい。
7 あなたがた自身、わたしたちにどのように倣えばよいか、よく知っています。わたしたちは、そちらにいたとき、怠惰な生活をしませんでした。
8 また、だれからもパンをただでもらって食べたりはしませんでした。むしろ、だれにも負担をかけまいと、夜昼大変苦労して、働き続けたのです。
9 援助を受ける権利がわたしたちになかったからではなく、あなたがたがわたしたちに倣うように、身をもって模範を示すためでした。
10 実際、あなたがたのもとにいたとき、わたしたちは、「働きたくない者は、食べてはならない」と命じていました。
11 ところが、聞くところによると、あなたがたの中には怠惰な生活をし、少しも働かず、余計なことをしている者がいるということです。
12 そのような者たちに、わたしたちは主イエス・キリストに結ばれた者として命じ、勧めます。自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい。


 パウロはテサロニケの教会の状態を心配していました。終末が近いという感覚によって、労働している暇はない宣教活動に集中するという名目で実は怠惰な生活をしている者がいたのです。そのような者、団体は今でも存在します。単に生活態度がゆるいということを非難しているわけではありません。終わりの日をどのように考え、日々を過ごすかということについて、皆さんはもう十分に理解していると思います。確かめてみたい方は6/21のお話の前半をウエッブサイトのアーカイヴで読んでみてください。私たちに求められているのは、それが明日であっても数千年先であっても後悔しない着実な生活です。教会にはいろいろな考えが集う人々によってもたらされます。それは、そのことを知らなかった人を成長させてくれます。しかし中には全く別のコンテキストで語られたことや人間の考えが、普遍的な神様の真理として伝えられるようなことが起こります。仕事についての考え方だけではなく、直面する様々な課題についての考え方は同じキリスト教といっても教派によって相当の幅があります。それは言わばそれぞれの教会の文化のレベルの問題であることがほとんどです。ですからその考え自体を否定することには慎重でなければなりませんが、ここで培われてきた文化も大切にしていきたいのです。それぞれの家庭に個性があるように、一つ一つの教会にも個性があるのです。その中で勧め合うということが出てきます。「そうした方がいいよ」「そうしないほうがいいよ」ということです。牧師やリーダーにも意見していいのです。私は「それは違う」と言うかもしれませんが、その理由もできるだけ丁寧にお話します。互いに勧め合うことの出来ない雰囲気なら、そこにはイエスに従う者同士の人間関係はない事になります。


3) 互いに気遣いあう (13-18)

13 そして、兄弟たち、あなたがたは、たゆまず善いことをしなさい。
14 もし、この手紙でわたしたちの言うことに従わない者がいれば、その者には特に気をつけて、かかわりを持たないようにしなさい。そうすれば、彼は恥じ入るでしょう。
15 しかし、その人を敵とは見なさず、兄弟として警告しなさい。
16 どうか、平和の主御自身が、いついかなる場合にも、あなたがたに平和をお与えくださるように。主があなたがた一同と共におられるように。
17 わたしパウロが、自分の手で挨拶を記します。これはどの手紙にも記す印です。わたしはこのように書きます。
18 わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがた一同と共にあるように。

 たゆまず良いことをしなさい、しかしそうしない者でも敵としてではなく兄弟として警告しなさい、と書かれています。先にパウロが怠惰な者として非難したような人でさえ家族の一員であることは否定されていません。関わりを持たないようにとは、その人を無視しなさいということではありません。「あなたは同調しないようにしなさい。そして機会があれば心を込めて勧めなさい」ということです。今日は最初に祈り合うことを基本としてお話ししましたが、互いに対する気遣いがなければ、何を祈ったらいいのかもわかりません。自分の前にいるこの人は、今、キリストの平和、キリストの恵みを実感できているだろうか?そうでないとしたら何が障害となっているのだろうか?そのことについて私は祈る以外に何ができるだろうか?それが私たちの気遣いです。そして実際にできることは祈ることだけということもあるのです。祈りを軽く見てはいけません。小さな祈りから大きな変化が始まるということが起こるのです。しかし、できることが祈りだけではないなら、それをすることをイエスは応援してくださいます。イエスはその人が自分を信じようと信じまいと、その必要を満たされました。多くの者に食べ物を与え、友のない者の友となり、苦しむ者を癒やしました。そして私たちにはこう言われました。

「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。 互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」 (ヨハネによる福音書 13:34, 35)


 今日お話した3つのことは、すべて互いに愛し合うことの一部です。これらのことがユアチャーチで見られるなら、ここに来た人は私達が本当に「イエスに従っている者」だと知るでしょう。


メッセージのポイント
パウロはこの手紙を願いと勧めと祈りで締めくくりました。それぞれの内容は私たちが互いに持ち合う態度です。このような態度で結ばれる人間関係をパウロは兄弟(姉妹)と表現するのです。兄弟姉妹と言い合うことが重要なのではなく、実質的にそのような関係を保つことが大切です。

話し合いのために
1) 怠惰な人とはどのような人のことですか?
2) 兄弟として警告することと、敵とみなすこととはどう違いますか?

子供達のために
互いのために祈り合うこと、その場だけでなく一緒にいない時でも思いだして祈るべきことを上げてみましょう。子供たちは互いに勧めあうことも出来ます。した方がいいこと、しないほうがいいこと、どのような態度で勧めたら、気持よく聞いてもらえるか考えてみましょう。