<メッセージノート>
「思い悩むな」の意味 池田真理
A. 命は神様からのあずかりもの (13-21)
13 群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」14 イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」15 そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」16 それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。17 金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、18 やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、19 こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』20 しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。21 自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」
B. 私たちに何が必要か、決めるのは神様 (22-30)
22 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。23 命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ。24 烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか。25 あなたがたのうちのだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。26 こんなごく小さな事さえできないのに、なぜ、ほかの事まで思い悩むのか。27 野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった28 今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことである。信仰の薄い者たちよ。29 あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。30 それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。
C. 神様は喜んで神の国を与えてくださる (31-34)
31 ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。32 小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。33 自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。34 あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」
メッセージのポイント
私たちは生きている限り、日々思い悩むことがあります。でも、悩みに支配されるかどうかは自分で決めることができます。神様を信頼することによって、悩みの中でも希望と喜びを絶やさずにいることができます。神様は私たちに何が必要か知っていて、私たちに喜んでご自分の国を与えてくださいます。神様の愛が生きているところに、恐れはなく、尽きることのない安心があります。
話し合いのために
1) 思い悩んでいることは何ですか?
2) 神の国を求めなさいとはどういうことですか?
子供達のために
最近、お父さん、お母さんに「これほしい」と言って、「ダメ」と言われたものはあったでしょうか?なぜダメだったのでしょうか?親は子供に何が必要か、子供にとって何が良いか考えているので、子供の要求通りに何でも与えることはしません。子供たちに、神様も同じだと伝えてください。神様はみんながほしいものをよく知っていますが、みんなにとって悪いものは与えません。今は分からなくても、後で必ず分かるようになります。
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<メッセージ全文>
「思い悩むな」の意味 池田真理
皆さん、心配事はありますか?何もない人はいないと思います。小さな悩みから大きな悩みまで、生きていれば私たちは常に何かしら心配していることがあります。聖書は繰り返し私たちに「思い悩むな」と教えていますが、「それでも心配しちゃうし、悩んじゃう」というのが私たちの正直な心ではないでしょうか。心配は放っておけば恐怖となり、無気力、絶望にもなります。それは神様が私たちに望んでいる生き方ではありません。神様と共にいて、悩みの中でも安心して希望を保つことができるように、私たちが覚えておくべきことを、今日は3つに分けてお話しします。一つ目は、命は神様からのあずかりものだということです。聖書を読んでいきましょう。
A. 命は神様からのあずかりもの (13-21)
13 群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」14 イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」15 そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」16 それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。17 金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、18 やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、19 こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』20 しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。21 自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」
遺産を相続したいのに、兄弟が分けてくれない、とこの人は嘆いています。この悩みはイエス様からすると的外れな悩みです。この人もイエス様の噂を聞きつけて集まった群衆の一人でした。イエス様の周りに集まった人々は、多かれ少なかれ、イエス様なら自分の悩みを解決してくれるかもしれないと期待していたでしょう。この人もそうでした。私たちもそうです。自分の悩みを解決してくれる人、ものを求めています。こうして教会に集まっているのも、聖書の話を聞きたいと思うのも、何かしら求めているものがあるからだと思います。でも、今読んだ聖書から今日最初にお話ししたいのは、神様は私たちの悩みが本当に悩むべき悩みかどうか問いかけているということです。私たちの悩みには、本当に切実に神様に「どうしてですか」と叫ぶしかないものがたくさんあります。でも同時に、的外れな悩みもあります。生きていく上で必要なものは揃っているのに、他人と比べて自分に足りない財産があると不安になり、不満を感じます。他の兄弟には遺産が入ったのに、私には入らない、私にも同じ権利があるのに不公平だと感じて悩みます。遺産だけでなく、収入、財産、家、住んでいる地域、家電製品から車や洋服、旅行先、何でも、それを持っていないことや他人のものと比べて質が劣ることが悩みの原因になります。そして、神様にその解決を求めます。そんな人たちに神様は、「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのかと言われています。生きていく上で必要なだけの財産も求めてはいけないということではありません。必要は満たされているのに、貪欲にそれ以上を求めること、それがないと悩むことが間違っているということです。私たちの命は私たちのものではありません。私たちは皆、選んで生まれてきたのでもなく、いつか必ずこの世界を去らなければいけません。神様から見れば、ほんの一瞬の時をこの世界で過ごしているに過ぎません。自分の命が自分のものではなく、神様から一時的にあずかっているものだということを私たちは覚えていなければいけません。神様は何のために私たちにこの命をあずけているのでしょうか?一人一人が向き合わなければいけない問題です。この問題に向き合わないままで他の問題で悩んでいるのは、愚かなのです。
私たちが明るく人生を歩むために覚えておくべき二つ目のことは、私たちに何が必要か、決めるのは神様だということです。22-30節を読みます。
B. 私たちに何が必要か、決めるのは神様 (22-30)
22 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。23 命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ。24 烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか。25 あなたがたのうちのだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。26 こんなごく小さな事さえできないのに、なぜ、ほかの事まで思い悩むのか。27 野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった28 今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことである。信仰の薄い者たちよ。29 あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。30 それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。
私は今までこの箇所を読んでも、正直あまり納得できませんでした。23節なんて、あまり論理的とは思えません。「命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ。 でも、食べなければ命を保てないし、着るものもなければ困ります。烏が畑を耕したり、花が糸を紡ぎ始めたら怖いです。神様は彼らをそういう風に造らなかったのだから当然です。私たちが寿命を延ばせないのは、それは神様が決められることだからです。私としては、神様がそれぞれの生き物をそういうふうに造ったのだから、それと比べて安心しなさいと言われても困ります、とイエス様に言いたくなりました。でも今回メッセージを準備している中で、27節と28節に目が留まりました。神様は、咲いては枯れる花でも、実に多くの数え切れない種類を造られていますよね。たまに花屋や園芸屋に行くと、私は花に詳しくないので、知っている花よりも知らない花の方が多くあります。花が生きていく上で、あれほど豊富な色や形や匂いを持つ必要はあるのでしょうか。生物学的に言えば、それぞれの環境に合わせ、好みの違う虫や動物と共に進化したからだと言えるかもしれません。それにしても、これほどの種類の花がこの世界に存在するということは、やはり神様の神秘だと思います。私たちからすれば、花の種類がそんなになくても生きる上で困ることはありません。でも、神様からすれば、この世界にはこれほどの種類の花が必要だったということです。そんなことを思って今の聖書の箇所を読み返すと、今までとは違う読み方ができました。世界に何が必要か、それぞれの生物に何が必要か、決めるのは神様です。だから、私たちに必要なものを決めるのも神様なんだということです。
私たちの多くは、最初に読んだたとえ話の大金持ちのように、一生働く必要がないほどの財産を持っているわけではありません。毎日の生活をしていくために忙しく働き、生きていくというだけで大変なことです。その中で神様に願い求めることは多くあります。自分の病、家族や友人の病が癒されることを願います。そのために経済的必要が満たされることも必要です。あまりに忙しくて単純に休みがほしいけれども、家計のために休むわけにはいかないということもあると思います。家族を失って、一人で一体どうやって生活していけばいいのか、分からなくなる時もあるかもしれません。「神様、私の必要を知っていますよね?」と叫ぶ時もあると思います。神様はその叫びをしっかり聞いて下さっていて、私たちは叫び続けることが許されています。それでも、私たちに必要なものが何か、決めるのは私たちではなく神様です。願っているものは何でも神様に打ち明けて良いのですが、それが願い通りに満たされることが最終目標ではないということです。どんなに切実に願っているものでも、「それでも私の願いではなく、あなたの意志が行われますように」と言える勇気が必要だということです。それは、ただ神様への信頼と聖霊様の力によって可能になります。神様はどんな時でも私の必要を誰より知っていて、その時その時一番良いものを間違いなく遅れることなく与えてくださる良い方だと信じることが、私たちを不安から解放します。それは願いが切実であればあるほど難しいですが、同時にそれでも神様を信頼することができれば、これほどの解放はありません。そうできるように、もっともっと神様を信頼できるように求めましょう。それは自分自身の経験と同時に、この神様の家族に確かに神様が生きて働いておられるということを経験することでできるようになります。
今日三番目にお話ししたいことは、今お話ししてきた二番目とよくリンクしています。自分よりも神様を信頼することは、神様が良い方だと知る経験をたくさんすることで強められていきます。残りの31−34節を読みましょう。
C. 神様は喜んで神の国を与えてくださる (31-34)
31 ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。32 小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。33 自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。34 あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」
神の国は、いつもお話ししているように、空高くにある抽象的なものではありません。私たちの間にあって、神様の意志が支配しているところ、神様の愛が実現しているところです。それは私たちの心の向きとも言えます。私たちの心が内向きに自分に向いているのではなく、まず神様に、そして人々に向いている時、神の国はそこにあります。自分にないものを嘆くのではなく、自分に与えられているものがわずかでも、喜んで他の人と分け合う時、神の国はそこにあります。もっと単純に言えば、神様の愛によって私たちが互いに愛し合う時、そこに神の国はあるということです。先週、イエス様に従う者は、互いに祈りあい、勧めあい、気遣いあうということを聞きました。私たちはイエス様に従う者として、お互いのことを知り、祈りによって励まし合い、できることなら具体的な必要を満たします。それは悩みを共有して一緒に苦しむことを意味します。でも同時に、苦しみの中でも神様には希望があることを一緒に信じて、お互いの中にある恐れや不安に勝つことができます。そして、主は共にいてくださるということを繰り返し経験し、共に神様をたたえることができます。神様は喜んで私たちの間に来てくださいます。イエス様が言っている通りです。「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。私たちがこの神様の愛を信頼する時、私たちが予想もしなかったような不思議な方法で私たちの具体的な生活の必要も満たされます。そしてそれは更に私たちの神様への信頼を強めます。だから、神様の愛が私たちの「擦り切れることのない財布 」であり、「尽きることのない富」なのです。この神様の愛に留まるなら、私たちの内にはいつも安心があります。悩みの中でも、神様をたたえる仲間と喜びあうことができます。苦しい状況に置かれても、神様がして下さることに自分を委ね、希望を保つことができます。
「あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。どこにあなたの富をつぎ込みますか?そこは絶対に安心を与えてくれるという保証があるでしょうか?どうか主が私たち一人一人に神様の愛をもっと深く教えて、信頼を強めて下さいますように。
メッセージのポイント
私たちは生きている限り、日々思い悩むことがあります。でも、悩みに支配されるかどうかは自分で決めることができます。神様を信頼することによって、悩みの中でも希望と喜びを絶やさずにいることができます。神様は私たちに何が必要か知っていて、私たちに喜んでご自分の国を与えてくださいます。神様の愛が生きているところに、恐れはなく、尽きることのない安心があります。
話し合いのために
1) 思い悩んでいることは何ですか?
2) 神の国を求めなさいとはどういうことですか?皆さん、心配事はありますか?
子供達のために
最近、お父さん、お母さんに「これほしい」と言って、「ダメ」と言われたものはあったでしょうか?なぜダメだったのでしょうか?親は子供に何が必要か、子供にとって何が良いか考えているので、子供の要求通りに何でも与えることはしません。子供たちに、神様も同じだと伝えてください。神様はみんながほしいものをよく知っていますが、みんなにとって悪いものは与えません。今は分からなくても、後で必ず分かるようになります。