<メッセージノート>
福音と律法 永原アンディ
A. 「牧会の手紙」とテモテについて (1-7)
1) この手紙とテモテのこと (1, 2)
1 わたしたちの救い主である神とわたしたちの希望であるキリスト・イエスによって任命され、キリスト・イエスの使徒となったパウロから、2 信仰によるまことの子テモテへ。父である神とわたしたちの主キリスト・イエスからの恵み、憐れみ、そして平和があるように。
2) テモテに与えられた務め (3-7)
3 マケドニア州に出発するときに頼んでおいたように、あなたはエフェソにとどまって、ある人々に命じなさい。異なる教えを説いたり、4 作り話や切りのない系図に心を奪われたりしないようにと。このような作り話や系図は、信仰による神の救いの計画の実現よりも、むしろ無意味な詮索を引き起こします。5 わたしのこの命令は、清い心と正しい良心と純真な信仰とから生じる愛を目指すものです。6 ある人々はこれらのものからそれて、無益な議論の中に迷い込みました。7 彼らは、自分の言っていることも主張している事柄についても理解していないのに、律法の教師でありたいと思っています。
B. 律法は正しく用いるなら良いもの (8-11)
1) 旧約を正しく用いる原則 (8, マルコ 7:9-13)
8 しかし、わたしたちは、律法は正しく用いるならば良いものであることを知っています。
(マルコ 7:9-13) 更に、イエスは言われた。「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。うして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」
2) 福音と一致した律法の受け取り方 (9-11)
9 すなわち、次のことを知って用いれば良いものです。律法は、正しい者のために与えられているのではなく、不法な者や不従順な者、不信心な者や罪を犯す者、神を畏れぬ者や俗悪な者、父を殺す者や母を殺す者、人を殺す者10 みだらな行いをする者、男色をする者、誘拐する者、偽りを言う者、偽証する者のために与えられ、そのほか、健全な教えに反することがあれば、そのために与えられているのです。11 今述べたことは、祝福に満ちた神の栄光の福音に一致しており、わたしはその福音をゆだねられています。
メッセージのポイント
エフェソ教会の牧師、テモテはパウロが信頼する第二世代のリーダーとして実地訓練を受けながら成長しているところです。パウロがテモテに教えている旧約聖書の受け取り方に習って、私たちにとっては旧新約聖書の両方をそれぞれに正しく受け取って、自分がさらにイエスに似た者とされるように、人々がそのようになることを助けられるように私たちも成長してゆきましょう。
話し合いのために
1) エフェソの教会にはどのような問題があったのですか?
2) 律法を正しく用いるとは?
子供達のために
聖書はイエス・キリストを正しく知るための神様の言葉です。パウロがテモテやテトスを自分の子供のように愛して、神様のために良い働きをする人となるために彼らを訓練しているように、教会の大人たちは皆さんに聖書を読むことや、お祈りすることを教えるのです。なぜ教えられなければならないかといえば、聖書は自分勝手な読み方をするなら、人に役に立たないばかりか、人を傷つけて神様を悲しませることにもなりかねないからです。
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<メッセージ全文>
福音と律法 永原アンディ
A. 「牧会の手紙」とテモテについて (1-7)
1) この手紙とテモテのこと (1, 2)
1 わたしたちの救い主である神とわたしたちの希望であるキリスト・イエスによって任命され、キリスト・イエスの使徒となったパウロから、2 信仰によるまことの子テモテへ。父である神とわたしたちの主キリスト・イエスからの恵み、憐れみ、そして平和があるように。
テモテへの2通の手紙とテトスへの手紙は、内容と書かれた時期がとてもよく似ているので一つのグループとして「牧会の手紙」と呼ばれて来ました。牧会 (pastral care) とは「魂のために配慮する」という意味の言葉です。それは教会におけるリーダーチームの働きのことです。この手紙に書かれていることは、牧師テモテへのアドヴァイスであり「牧会者(牧師)への手紙」(the epistles for pastors) とも言えるでしょう。
テモテはギリシャ人の父とユダヤ人の母との間に産まれた人で、彼の家のあったリストラにパウロが二回目の旅行で立ち寄った時に出会い、それから旅行に同行するようになったパウロの協力者です。使徒言行録の16章でそのことが紹介されていました。
2) テモテに与えられた務め (3-7)
3 マケドニア州に出発するときに頼んでおいたように、あなたはエフェソにとどまって、ある人々に命じなさい。異なる教えを説いたり、4 作り話や切りのない系図に心を奪われたりしないようにと。このような作り話や系図は、信仰による神の救いの計画の実現よりも、むしろ無意味な詮索を引き起こします。5 わたしのこの命令は、清い心と正しい良心と純真な信仰とから生じる愛を目指すものです。6 ある人々はこれらのものからそれて、無益な議論の中に迷い込みました。7 彼らは、自分の言っていることも主張している事柄についても理解していないのに、律法の教師でありたいと思っています。
この手紙の状況では、パウロはテモテを旅行の同行者ではなく、エフェソの教会の指導者としての働きを求めています。エフェソの教会には問題がありました。異なる教え、作り話、系図に夢中になる人々がいたのです。それらのことは「清い心と正しい良心と純真な信仰とから生じる愛を目指す」ために、やめさせなければならないことでした。これらの無益な議論は人々の心を奪い、イエスに従う道から迷い出させてしまいます。テモテの任務はこの危機からエフェソの教会を救い出すことでした。このエフェソの教会に起こっていた問題は、様々に形を変えていつの時代にも、どの教会にも起こりうることです。だからこのことは現代の教会のリーダーにも与えられている責任の一つです。言い換えれば、教会の方向性をはっきりと示し、そこにいる人々が無益な議論で時間や労力を無駄にしないように守る事です。
B. 律法は正しく用いるなら良いもの (8-11)
1) 旧約を正しく用いる原則 (8, マルコ 7:9-13)
8 しかし、わたしたちは、律法は正しく用いるならば良いものであることを知っています。
エフェソの教会で問題を引き起こしている人たちの一つの特徴は、自分を「律法の教師」と考えていることでした。旧約聖書の「律法」とイエスの「福音」にはどういう関係があるのだろうか?イエスに従う者として、旧約の「律法」をどう受け取ったら良いのだろうか? このことは私たちの課題でもありますが、当時の人々にとっても重要な課題だったのです。パウロはここで「律法」は正しく用いれば役に立つと言っています。つまり、律法の用い方を間違っていたイエス以前の人々と同じように読むわけにはいかないということです。では、イエスが非難した人々や、今エフェソの教会を混乱させている人はどのような読み方をしていたので間違いだといえるのでしょうか?一言で言うなら、形式的に、表面的に、行動として守ろうとしていたということが決定的な間違いだったのです。律法の原点は神様がモーセを通して民に与えた十戒です。十戒以降に書かれている事細かな決まりはピンとこなくても、十戒の内容は現代の文化を超えた普遍的な倫理として受け取れるのではないでしょうか?十戒とそれ以降の律法との関係は、ちょうど日本の憲法と法律の関係のようなものでした。十戒の内容は根本的なものなので、律法の専門家たちは具体的にどう守ればいいのかという問いに答えて膨大な律法の体系を作り上げてゆきました。それは旧約聖書には収められていないタルムード(Talmud /tǽlmʊd)と呼ばれる口伝律法(Oral law)を加えて、旧約聖書の数倍の量になってしまいました。イエスがいい例を示して答えてくれています。マルコによる福音書の7章です。
(マルコ 7:9-13) 更に、イエスは言われた。「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。うして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」
この国に今起こっていることは、これと同じことです。憲法の精神を守るつもりはないのに、それを変えることを賛成してくれる人が少ないので、自分に都合の良い法律が作れない。そこで憲法についての解釈を変えて、憲法に合った法律だから賛成して下さいと政府は言っているわけです。十戒は「殺してはならない」と言っています。私たちが「戦争しません」と憲法で宣言していることは十戒にもかなっています。しかし今なされようとしていることは、同盟国を助けるための戦争は戦争ではない、とすることです。大切な友達に「一緒に人を殺そう」と誘われた場合には、そうしてしまっても殺人にはならないと考える人はいません。
この国の政治から、律法を正しく用いるためにどんなことを注意するかを教えてもらえるとは思いませんでしたが、そろそろ本題に戻りましょう。私たちは「神の言葉」を無にしないために、神イエス・キリストが律法についてどのような態度を取られたかを理解しなければなりません。神様の戒めを守っていると言いながら実は背を向けているばかりか、他人にもそれを強いるような宗教家たちをイエスは厳しく非難しています。そんな宗教家たちに苦しめられていた人々、罪人とか汚れている人とかのレッテルを貼られていた人々、すっかり洗脳されてしまったような人々を解放するために、イエスは来られ、十字架に架かり、死んで、自身を囚われていた私たちの身代金としたのです。これが良い知らせ、「福音」です。律法はこのイエスの良い知らせで再解釈して初めて役に立つのです。
2) 福音と一致した律法の受け取り方 (9-11)
そこで、残りの9-11節からイエスの教えと一致した律法の受け取り方を検討してみましょう。
9 すなわち、次のことを知って用いれば良いものです。律法は、正しい者のために与えられているのではなく、不法な者や不従順な者、不信心な者や罪を犯す者、神を畏れぬ者や俗悪な者、父を殺す者や母を殺す者、人を殺す者10 みだらな行いをする者、男色をする者、誘拐する者、偽りを言う者、偽証する者のために与えられ、そのほか、健全な教えに反することがあれば、そのために与えられているのです。11 今述べたことは、祝福に満ちた神の栄光の福音に一致しており、わたしはその福音をゆだねられています。
ここでパウロが言っていることは、十戒とほぼパラレルになっていることに、気づかれたでしょうか、週報の4ページの十戒を見て下さい。パウロもイエスの考えを引き継いて、十戒に記されているような、神様への信仰と人々に対する愛こそが律法の真髄であったはずなのだと考えています。ですからこの箇所は厳密な禁止リストのような物ではありません。様々な訳の間でもかなり違いがあります。日本語「みだらな者(promiscuous)」 がNIVはadulterers (姦淫)「男色(pederast)」はNIVでは 「perverts (堕落した者)」と訳されています。残念ながら、実際にどのような行為を指していたのかは分からないのです。またパウロは「罪を犯す者」と言ったあとで「誘拐をする者(NIVなら奴隷商人)」など具体的であったりします。パウロが具体的な問題に直面している教会の牧師に向かって書いているからこのような言い方になるのです。そこで、私たちがしてはいけないことは、これをリストとみなして一部を文脈から拾い上げ、自分の生きている文脈に放り込んで人を裁くことです。十戒では「姦淫してはいけない」とあります。これは自分のパートナーではない人との関係を言っています。欲望をパートナー以外の人に向けてはいけないということです。パウロは、そこを「淫らな行いをする者(adulterers)」というだけでは言い足らずに男色する者 (perverts)を付け加えています。私の想像では、当時のギリシャ語圏では男性が自分の欲望のために少年を相手とした援助交際(compensated dating)がなされていて、そのような習慣を非難しての言葉だったのだと思います。ここを抜き出して「神は同性愛を禁じている」と考えるのは誤りだということです。また、恥ずかしいことにキリスト教は長い間、性同一性障害者に対して「心の性」にあわせて「体の性を」変えるべきではなく、神に与えられた「体の性」にあわせて「心」を入れ替えるべきだと主張してきました。神様は身体だけでなく、心を下さったのではありませんか?私たちは言葉の表面や人の外見にこだわるパリサイ人の弟子なのでしょうか?それとも、言葉の本質や人の心を大切にされるイエスの弟子なのでしょうか? 私はイエスに従う者でいたいと思います。イエスに従う道が宗教になれば、そこには必ず律法主義が忍び込みます。律法主義は私たちの罪の性質が生むものだからです。イエスから目を離し、自分たちの価値観で人を裁くことになるからです。どうか皆さんも、イエスの言葉で、イエスに従って歩む者として成長して下さい。
メッセージのポイント
エフェソ教会の牧師、テモテはパウロが信頼する第二世代のリーダーとして実地訓練を受けながら成長しているところです。パウロがテモテに教えている旧約聖書の受け取り方に習って、私たちにとっては旧新約聖書の両方をそれぞれに正しく受け取って、自分がさらにイエスに似た者とされるように、人々がそのようになることを助けられるように私たちも成長してゆきましょう。
話し合いのために
1) エフェソの教会にはどのような問題があったのですか?
2) 律法を正しく用いるとは?
子供達のために
聖書はイエス・キリストを正しく知るための神様の言葉です。パウロがテモテやテトスを自分の子供のように愛して、神様のために良い働きをする人となるために彼らを訓練しているように、教会の大人たちは皆さんに聖書を読むことや、お祈りすることを教えるのです。なぜ教えられなければならないかといえば、聖書は自分勝手な読み方をするなら、人に役に立たないばかりか、人を傷つけて神様を悲しませることにもなりかねないからです。