<メッセージノート>

2015/8/16 ルカによる福音書12:35-48 
主の家に住む 池田真理


A. 主の家に住む (35-40)

35 「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。36 主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。37 主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。38 主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。39 このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。40 あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」

1) 大前提:主の家に招かれている



2) 主は今留守だが、やがて帰ってくる



3) 目を覚まして待っているように言われている



B. 主の家を管理する(教会のリーダーとは)(41-48)

41 そこでペトロが、「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」と言うと、42 主は言われた。「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。43 主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。44 確かに言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。45 しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば、46 その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる。47 主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。48 しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」


1) 主に仕え、人々に仕えたいという願いを持つ


2) 主に忠実であり続ける



3) 恵みであり責任でもある


メッセージのポイント
主は私たちをご自分の家に住むように招いてくださいました。イエス様が天に帰られて2000年、主は私たちの目に見える形ではおられません。でも、イエス様は必ずまた地上に来られると約束されました。それまでの間、私たちは目に見えない主に仕えています。主の家に憩いながら、主の思いを果たすために生きています。

話し合いのために
1) 主の家に住むとはどういうことですか?
2) 「主に仕える」ということは、あなたにとって喜びでしょうか、それとも重いことでしょうか?それはなぜでしょうか?

子供達のために
主人の帰りを待つ召使いたちという捉え方を、そのまま伝えてみてください。主人の帰りを忠実に待つ良い召使いたちと、主人の帰りは遅いと思って好き勝手に振舞っていた悪い召使いたちの違いは何か、話し合ってみてください。それは主人を慕っているかどうかの違いです。主人の帰りを忠実に待つということは、決して主人に怒られるのが怖いから言いつけを守るということではありません。主人を慕って、主人が喜ぶことを自ら進んで行おうとする態度です。神様が好きなら、神様の喜ばれることは何かを自分で考えて行動するように励ましてください。

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<メッセージ全文>

2015/8/16 ルカによる福音書12:35-48 
主の家に住む 池田真理


A. 主の家に住む (35-40)

35 「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。36 主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。37 主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。38 主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。39 このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。40 あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」

1) 大前提:主の家に招かれている


 主人の帰りを待っている僕たちの話です。そして、主人がいつ帰ってきてもいいようにいつも準備していることが大切だと言われています。このたとえ話が何を伝えようとしているのかについては、この後2と3でお話ししたいと思います。今日は最初に、このたとえ話の大前提になっていることをお話ししておきたいと思います。それは前提なので、たとえ話の中では直接触れられていません。でも、このことを抜きにして今日の箇所は理解することはできない大切なことです。それは、私たちは皆、この家に住むように招かれているということです。イエス様は、すでにこの家の僕になっている人たちに対して語っているので、その僕たちがどこから来たのかについては語っていません。でも、この僕たちは、主人に招かれて、主人の家に住んで、主人のものとされた人たちです。主人の家で休み、食べ、働いています。そして主人がどういう方であるかを知っています。主人がどういう方であるか、それは37節を読めば、私たちも知ることができます。「主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。主人でありながら、自ら僕の身分になって僕を労わる方です。それは、神でありながら人間となり、人間のために自ら苦しむことを選ばれたイエス様以外にいません。私たちはこのイエス様と共に生きる中に、休息を与えられ、生きる栄養を与えられ、生きる目的を与えられました。まだそれを味わっていないならば、あなたもそこに招かれています。今日これからお話ししていく中で、どうぞこのことを皆さん覚えていてください。私たちが主の僕だと言う時、それは私たちが主の家に住み、そこで休み、食べていること、主と共に生きていることが大前提なのです。
 では、たとえ話の中身に入っていきましょう。


2) 主は今留守だが、やがて帰ってくる


 まず、主人は今留守にしているけれども、やがて帰ってくるということについてです。これは私たちが今置かれている状況です。イエス様は今私たちの目に見える形では一緒におられません。十字架の復活の後、天に昇られて2000年間、この状況は変わっていません。でも、イエス様は必ずまたこの地上に戻ってくると約束されました。そしてその時には、神様が直接この世界を支配し、全ての人をその行いに応じて裁かれます。それが聖書が教える世界の終末です。この終末に関することは、聖書の一番最後に入っているヨハネの黙示録に詳しく書いてあります。もし読んだことがなければぜひ読んでみてください。でも、読んでも、多分楽しい気分にはならないと思います。私が聖書を読み始めた頃、ヨハネの黙示録を読んで「これ大丈夫か?」と不安になりました。(頭がいくつもある竜が出てきたりします。)それでも、この世界にはやがてそのような形で終わりが来ると言われたのはイエス様で、私たちはそれを信じています。大切なのは、私たちはまだその時を迎えていない中間地点にいると覚えていることです。私たちは、今直接神様に支配されているわけではありません。言ってしまえば、何をしていようと、どう生きていようと、自由です。主の家に住み、そこで主がくださる食べ物を食べるように、私たちは皆招かれていますが、その招きに応じないこともできます。一度招きに応じても、また家を飛び出すこともできます。それは主の忍耐強さと憐れみによるものですが、今、イエス様の「目を覚まして待っていなさい」という言葉によく聞きましょう。


3) 目を覚まして待っているように言われている


 「目を覚ましている」と日本語で訳されていますが、英語で「準備している」「気をつけている」と訳されている通り、いつも気を付けて準備をしているということです。主人が帰ってきた時に、すぐに扉を開けようと待っている召使いは、どんな気持ちだと思いますか?主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰ってもいいように準備しておくのはなぜでしょうか?可能性のある答えは二つです。一つは、主人が恐ろしいから。もう一つは、主人が大好きだから。私たちをご自分の家に招き、そこに住まわせて下さっているのは主です。それは、私たちが他では得ることのできない安心と喜びのうちに生きるために他なりません。ですから、目を覚まして主人を待っているというのは、主人の家に住むことを喜び、主人が喜ぶことが何かを考えて、主人の帰りを楽しみにしているということです。このことは、これから読む47節にも別の言い方がされている通りです。「主人の思いを知る、主人の思い通りにする 」ということです。主のことが大好きでなければ、これはとても義務的で、束縛されるように感じるでしょう。だから最初にお話しした通り、まず、主がどんな方かを知り、主の家に住む安らぎと喜びを味わってください。主は私たちと共に生きることを望まれています。その主の帰りを目を覚まして待っていなさいということは、主の家に住み、主に仕えて生きることを喜んでいなさいということです。主と共に生きることを喜んでいなさい、ということです。
 さて、後半に入っていきたいと思いますが、後半はペトロが口を挟むところから始まります。41節から読んでいきましょう。


B. 主の家を管理する(教会のリーダーとは)(41-48)

41 そこでペトロが、「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」と言うと、42 主は言われた。「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。43 主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。44 確かに言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。45 しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば、46 その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる。47 主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。48 しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」

  
  ペトロがイエス様に質問しています。「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか。」ペトロが「私たち」と形容したのは弟子たち、つまり教会のリーダーたち、「みんな」と言ったのはリーダーも含めてイエス様に従う全ての人たちを指していると考えられます。イエス様はこの質問に対して、はっきりイエス・ノーで答えず、たとえ話を続けています。でも、そこには前半に登場しなかった、召使いたちの上に立つ管理人が登場しています。でも、管理人という呼び方は1回しか登場せず、その管理人もすぐに「僕」と呼び換えられています。ここから想像できるのは、主の家には確かに管理人の役割が与えられている人たちがいるけれども、彼らも僕であることには変わりないということです。だから、たとえ話の前半は、もちろん管理人たちにもあてはまることです。ただ、管理人には、主に仕える他の人々に対する責任があり、その責任は重いということを、イエス様はこの後半で強調しています。ここで言われている管理人は、今の時代にあてはめるなら牧師と言えると思います。ですから、この後半では、牧師であるとはどういうことなのか、三つに分けてお話ししていきます。自分は牧師になろうと思っていないから関係ないとは思わないで下さい。主の家の管理人が何をすべきなのかすべきでないのか、皆さんが知らなければ、管理人が間違っていても指摘してくれる人がいないことになってしまいます。また、もっと大切なのは、皆さんの中にはもう神様から牧師になるように言われている人がいるかもしれません。今はまだでも将来そうなるかもしれません。だから、主の家の管理人であることがどういうことか、皆さんに知っていただきたいと思います。


1) 主に仕え、人々に仕えたいという願いを持つ

 
 ではまず一つ目ですが、牧師は、主に仕え、人々に仕えたいという願いを持つということです。42節でイエス様は、「主人が召使いの上に立てた管理人」という言い方をしています。重要なのは主語です。「主人が」立てた管理人です。牧師は、自分でその素質があると思うからなるものではありません。自己実現のためになるのでもありません。ただ、主の呼びかけに応じて、なるものです。でも、それは突然天からの声が聞こえるというようなことではありません。神様は私たちの心に願いを起こしてくださいます。それは一人一人が神様と向き合う中で発見する願いです。主の家に住み、主に仕える中で、主にもっと仕えたい、人々にもっと仕えたいという願いです。それは自分にできるかできないかよりも、やりたいか興味ないかの問いの方が大切です。なぜなら、そういう願いは神様にしか起こせないもので、神様がそうさせようとしているなら、必要なものは全て与えられるからです。
 私は今皆さんにこのことを話しながら、自分でも聞いています。私の中には、もっと多くの人に神様の愛を知ってほしい、それによって生きる力を得てほしいという願いがあります。でも、そのために自分に何ができるのかと問うと、できないことはたくさんあっても、できることは本当にわずかだと感じます。神様の愛を伝えたくても、自分は神様が愛するようには愛せないことが分かっています。それでもこの道を歩んでいるのは、ただ神様の憐れみと皆さんの忍耐によります。でも教会のリーダーはそういうものなのだとも思っています。人間的にふさわしいかどうかではなく、ただなぜか神様に呼ばれたから、それに従おうと努力しているだけです。主と共に生きる喜びを知っている皆さんの中にも、もっとその喜びを他の人に伝えたいという願いを持っている方は多いと思います。もしそれが自分の生涯をかけて優先したい願いなら、自分にできないことにとらわれず、自分で道を閉ざさないで、神様に聞き続けてください。



2) 主に忠実であり続ける


 2番目のことは、牧師は主に忠実であり続けなければいけないということです。主の家の管理人が管理するのは、全て主のものです。管理人のものはひとつもありません。当然のことのようですが、悲しいことに、このことを忘れてしまう牧師は少なくありません。そして「下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことに」なってしまいます。管理人が主の家を自分の家にしてしまい、好き勝手にふるまっているということです。教会は神様のものです。牧師が教会を自分の城のように勘違いし始めたら、そこから教会は崩れていくでしょう。ユアチャーチをマイチャーチやアワチャーチにしてはいけないということは、牧師が一番気を付けなければいけないことです。主が喜ばれることよりも牧師が喜ぶことが優先されるようなことになったら、どうぞ皆さん止めてください


3) 恵みであり責任でもある


  最後に、牧師という役割は、恵みであり責任でもあるということをお話ししたいと思います。牧師は、主の家の管理人の役割を担う中で、主の働きをより近くでより多く見る恵みが与えられています。主によって主の家に招かれた人が、主の家で休み、食べて、力を得る過程をそばで見守ることができるからです。全ての僕が主と共に生きることを喜んでいなさいと言われていますが、管理人はその喜びをさらに多く経験することができます。でも、その恵みの多さと共に、責任も多くなります。2でお話ししたように、主に忠実である責任です。管理人が主に忠実でなくなれば、その影響は本人にとどまらず、主の家全体に及びます。主の愛する人々を傷つける結果を招きます。以前お話ししたことがありますが、人間の感覚では、特別な責任を与えられる人は特別な能力を持ち、それに見合った権力が与えられるのが普通です。でも、神様の選びと神様に与えられる責任はそうではありません。私やAndyさんが牧師になったのは、私たちが神様の目に優れていたからではありません。なぜ神様が私たちに呼びかけたのか、理由は神様にしか分かりません。ただそれは私たちが神様にいただいた恵みです。だから48節には「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される」とあります。牧師が自分に与えられた主の家の管理人の役割を、恐れつつ喜んで果たしていくことができるように、どうぞ牧師のために祈っていてください。
 
 今日は、主の家に住むということについて、前半は全ての僕たちについて、後半は管理人についてお話ししました。主の家に招かれ、主と共に生きる喜びを、一人一人がもっともっと味わうことができるように願います。


メッセージのポイント
主は私たちをご自分の家に住むように招いてくださいました。イエス様が天に帰られて2000年、主は私たちの目に見える形ではおられません。でも、イエス様は必ずまた地上に来られると約束されました。それまでの間、私たちは目に見えない主に仕えています。主の家に憩いながら、主の思いを果たすために生きています。

話し合いのために
1) 主の家に住むとはどういうことですか?
2) 「主に仕える」ということは、あなたにとって喜びでしょうか、それとも重いことでしょうか?それはなぜでしょうか?

子供達のために
主人の帰りを待つ召使いたちという捉え方を、そのまま伝えてみてください。主人の帰りを忠実に待つ良い召使いたちと、主人の帰りは遅いと思って好き勝手に振舞っていた悪い召使いたちの違いは何か、話し合ってみてください。それは主人を慕っているかどうかの違いです。主人の帰りを忠実に待つということは、決して主人に怒られるのが怖いから言いつけを守るということではありません。主人を慕って、主人が喜ぶことを自ら進んで行おうとする態度です。神様が好きなら、神様の喜ばれることは何かを自分で考えて行動するように励ましてください。