<メッセージノート>

2015/8/23 ルカによる福音書12:49-59 
イエス様がもたらした分裂 池田真理


A. イエス様が投じた火

49 「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。50 しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。51 あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。52 今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。53 父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、対立して分かれる。」

1) イエス様の苦しみによる (49-50)



2) 私たちに分裂をもたらす (51-53)


B. 私たちは自分で判断しなければいけない


1) イエス様を知ることによって (54-57)

54 イエスはまた群衆にも言われた。「あなたがたは、雲が西に出るのを見るとすぐに、『にわか雨になる』と言う。実際そのとおりになる。55 また、南風が吹いているのを見ると、『暑くなる』と言う。事実そうなる。56 偽善者よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか。」57 「あなたがたは、何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか。


2) 本当の平和のために (58-59)

58 あなたを訴える人と一緒に役人のところに行くときには、途中でその人と仲直りするように努めなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官のもとに連れて行き、裁判官は看守に引き渡し、看守は牢に投げ込む。59 言っておくが、最後の一レプトンを返すまで、決してそこから出ることはできない。」



メッセージのポイント
イエス様の教えは、何でも平穏無事にすめばいいという事無かれ主義ではありません。正しいことを見極め、過ちを過ちとして認めることを要求します。私たちの最大の過ちは、神様を神様としないことです。私たちは、神様と和解し、神様の目に何が正しいのかを判断しなければいけません。でも、そのためにこそ、イエス様は来て下さいました。

話し合いのために
1) イエス様を知る事によって何が正しいのか判断するとはどういうことですか? 2) 本当の平和とは何ですか?どのようにもたらすことができますか?

子供達のために
難しい箇所なので、49-53節の内容を子供達に分かるように伝えてください。神様はこの世界が平和であることを誰よりも望んでいます。みんながみんなと仲良くしていることを望んでいます。そのために一番大切なのは、神様が喜ばれることを行い、悲しむことはやめることです。誰かを喜ばせたとしても、神様を悲しませていたら、結局いいことにはなりません。反対に誰かをその時は悲しませても、神様が望むことならしなければいけない時もあります。そうすることは勇気がいることですが、イエス様は必ず一緒にいて導いてくださいます。困ったらイエス様に祈ってください。

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<メッセージ全文>

2015/8/23 ルカによる福音書12:49-59 
イエス様がもたらした分裂 池田真理


A. イエス様が投じた火

49 「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。50 しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。51 あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。52 今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。53 父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、対立して分かれる。」

1) イエス様の苦しみによる (49-50)


 理解するのが難しい言葉です。イエス様は平和を望んでいないのか?と不安になってしまいます。でもそういうわけではありません。前半と後半に分けて考えていきましょう。
 イエス様はまず「私は地上に火を投じるために来た」と言われています。それが後半では「平和ではなく分裂をもたらすために来た」と言い換えられています。イエス様の火は、平和ではなく分裂をもたらすということです。そして50節では「わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。I have a baptism to undergo, and what constraint I am under until it is completed! 」と言われています。私たちの間に分裂をもたらすために、イエス様自身が苦しまなければならないと予告しているということです。それはやはり十字架の苦しみを指しています。イエス様が十字架で苦しんだのは、私たちの罪を赦し、私たちが神様との関係を取り戻すためでした。イエス様の苦しみを知って、私たちは罪を知り、またその罪が赦されていることを知ります。ですから、イエス様が十字架によってもたらした火というのは、私たちを清める聖霊の火と言うことができます。ペンテコステの出来事の中で、聖霊は火のような姿をしていました。聖霊の助けによって、私たちは目が開かれ、神様との関係を取り戻すことができます。でも、その聖霊の火も、イエス様の十字架がなければ私たちに与えられることはありませんでした。イエス様が私たちの罪を十字架で背負ってくださったから、私たちに聖霊が与えられたのです。では、その聖霊の火が私たちに分裂をもたらすとはどういうことでしょうか?


2) 私たちに分裂をもたらす (51-53)


 53節は旧約聖書のミカ書(7:6)の言葉です。救い主が現れる時、この世界に終わりが来て、その時には家族同士が争うことになるという預言です。今の日本に住む私たちは、イエス様を信じることで家族と対立するということはあまりないと思います。だから、分裂をもたらすために来たというイエス様の言葉に不安を感じます。また、人間の歴史を振り返って、宗教対立が生み出してきた多くの戦争や悲劇のことを思うと、やはり宗教は嫌いだという人は私たちの周りにも多くいます。そんな人たちがこのイエス様の言葉を聞いたら、やっぱり宗教は平和よりも分裂をもたらすのだと思うでしょう。私たちはそんな訴えにどう答えればいいのでしょうか?その答えは、この聖書が書かれた時代の状況を思い起こすと分かります。
 このルカによる福音書を書いたルカは使徒言行録も書いたと言われています。(使徒言行録は、イエス様の死後の弟子たちと各地の教会の様子を記録しています。)ルカは、イエス様の死後、イエス様を信じる者たちが増える一方で、迫害も激しいことを知っていました。イエス様を信じることは神様への冒涜だと考える人たちが多かったのです。数年前、あるいは数十年前にこの地上を生き、私たちと同じ姿をしていた一人の人物が、なぜ神だと言えるのか。イエス様を十字架につけた人々の憎しみは、イエス様の死後、イエス様を信じる人々に向けられました。その時代には、「父は子と、母は娘と、しゅうとめは嫁と」対立し、血が流されることもありました。イエス様の最初の弟子たちの多くは迫害の末に殺されました。イエス様を信じることは命がけでした。だから、その時代の人々にとって「私は平和ではなく分裂をもたらすために来た」というイエス様の言葉は、とてもリアリティのあるものだったでしょう。不安よりも、自分たちの苦しみは正当なものなのだと安心を感じる言葉でもあったと思います。それは決して、イエス様を信じることを他人に強制したり、そのために暴力を振るったり、信じない人を殺していいという意味ではありません。彼らは社会の中でまだ少数派で弱い存在でしたが、イエス様の教えを忠実に守り、神様の愛を伝えるために立ち続けました。そのために肉親と対立することは大きな悲しみであったはずですが、それよりも神様の愛に生きることを選びました。
 現代でも、世界にはまだまだ、イエス様を信じることが誤った憎しみを買う地域もあります。昔の日本もそうでした。私たちが今イエス様を信じることができるのは、人々に憎まれて暴力を振るわれてもイエス様を愛し続けた多くの人々のおかげです。イエス様が投じた火は人々の中で燃え続け、人々の人生を変えてきました。罪を赦され、神様の愛に生きる新しい生き方です。ですから、イエス様がもたらした分裂というのは、異なる宗教間の分裂ではありあません。宗教戦争は、信仰を守るためと言いながら、結局は自分の正当性を証明するための暴力でしかありません。それは人間の罪の産物です。イエス様がもたらした分裂は、神様と罪の間の分裂です。神様の愛に生きる人と、罪の中に生き続ける人の間の分裂です。それは迫害のあった昔の話に留まりません。神様の愛に生きるのか、罪の中に戻るのか、私たちはいつも判断を迫られています。続きを読んでいきましょう。


B. 私たちは自分で判断しなければいけない


1) イエス様を知ることによって (54-57)

54 イエスはまた群衆にも言われた。「あなたがたは、雲が西に出るのを見るとすぐに、『にわか雨になる』と言う。実際そのとおりになる。55 また、南風が吹いているのを見ると、『暑くなる』と言う。事実そうなる。56 偽善者よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか。」57 「あなたがたは、何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか。
 

 イエス様は56節で「どうして今の時を見分けられないのか」と言っています。「今の時」とは、イエス様がこの地上に来られた時のことです。その時を見分けるというのは、イエス様がこの地上に来られた意味を知るということです。57節でも同じことが繰り返されています。「あなたがたは、何が正しいかをどうして自分で判断しないのか。」2000年前にイエス・キリストという人物が十字架で死なれたということが、私たちに与えられている事実です。それが自分にとって何の意味があるのかは、一人一人が判断しなければいけません。もしまだ判断しかねているなら、どうぞ聖書を読んだり私たちに聞いたりして、もっとイエス様について調べてみてください。
 最初にお話ししたように、イエス様の苦しみが私たちに聖霊の火を投じました。聖霊によって、私たちは自分の罪に目が開かれ、イエス様の苦しみが自分のためであったと知ります。そして、イエス様が自分のことをどれほど愛してくださっているか、また同じように他の人々のことを深く愛しておられるということを知ります。それは私たちの人生の歩み方を大きく転換させます。それまで見過ごしていた人間の過ちや問題に気が付くからです。何にも問題はないと思っていた自分の家族の中にも、深い傷があることに気がつくかもしれません。自分には関係ないと思っていた社会問題でも、その中で苦しむ人たちの痛みに気がつくかもしれません。イエス様の愛に触れたなら、自分の過ちを過ちと認めず、見て見ぬ振りをする偽善者でいることはできません。神様の愛に反対するものにははっきりと「ノー」と言わなければなりません。何が神様の愛に反対するのか、その判断は私たちが神様の愛に生きているかどうかにかかっています。それは、繰り返し聖霊の火によって罪から清められなければできないことです。そして聖霊の火は、私たちが「イエス様は私たちのために死なれた」と知ることで燃え立つのです。だから、何が正しいのか判断に困ったら、イエス様に戻ってきてください。それも、イエス様の死と苦しみに戻ってきてください。そうすれば、もう一度自分の罪に死に、神様の愛に生きることが、与えられた状況の中で具体的に何を意味するのか、見えてくるはずです。
 では今日の最後の部分を読みましょう。



2) 本当の平和のために (58-59)

58 あなたを訴える人と一緒に役人のところに行くときには、途中でその人と仲直りするように努めなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官のもとに連れて行き、裁判官は看守に引き渡し、看守は牢に投げ込む。59 言っておくが、最後の一レプトンを返すまで、決してそこから出ることはできない。」

 この最後の部分は恐ろしい響きがあります。最後の一レプトン、最後の1円を返すまで牢から出ることはできないと言われています。さらに恐ろしいのは、この裁判で訴えられている人は、最初から有罪が決まっている点です。一体どういう裁判なのかと思いますが、これが神様と私たちの関係を表しています。私たちは全て、神様の前に有罪です。そしてそのままの状態でいれば、世界の終わりが来たとき、罰は免れません。そうならないように、イエス様は「途中で仲直りするように努めなさい」と言われています。実はこれが新約聖書全体が教えていることのまとめです。世界の終わりが来る前に神様と和解しなさい、です。どうやって神様と和解するのかは、今日ずっとお話ししてきたことです。イエス様の苦しみによってです。そして、神様と和解することで私たちが得られる新しい生き方についても、お話ししてきた通りです。罪を赦されて、神様の愛に生きる生き方です。この生き方は、表面上の平穏無事だけを優先して、問題を無視する事無かれ主義ではありません。正しいことを見極め、過ちを過ちとして認める生き方です。そして、神様の愛に基づいた、本当の意味の平和を他の人々との間に実現する生き方です。
 イエス様は私のために死なれた、ということを深く受け止めてください。イエス様が投じた聖霊の火は、私たちを必ず導き、清め、神様の愛の中に生かしてくださいます。


メッセージのポイント
イエス様の教えは、何でも平穏無事にすめばいいという事無かれ主義ではありません。正しいことを見極め、過ちを過ちとして認めることを要求します。私たちの最大の過ちは、神様を神様としないことです。私たちは、神様と和解し、神様の目に何が正しいのかを判断しなければいけません。でも、そのためにこそ、イエス様は来て下さいました。

話し合いのために
1) イエス様を知る事によって何が正しいのか判断するとはどういうことですか? 2) 本当の平和とは何ですか?どのようにもたらすことができますか?

子供達のために
難しい箇所なので、49-53節の内容を子供達に分かるように伝えてください。神様はこの世界が平和であることを誰よりも望んでいます。みんながみんなと仲良くしていることを望んでいます。そのために一番大切なのは、神様が喜ばれることを行い、悲しむことはやめることです。誰かを喜ばせたとしても、神様を悲しませていたら、結局いいことにはなりません。反対に誰かをその時は悲しませても、神様が望むことならしなければいけない時もあります。そうすることは勇気がいることですが、イエス様は必ず一緒にいて導いてくださいます。困ったらイエス様に祈ってください。