<メッセージノート>
神様は忍耐強く待っておられる 池田真理
A. 私たちが滅びないために (1-5)
1 ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。2 イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。3 決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。4 また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。5 決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」
1) 私たちは皆等しく罪深い
2) 神様は様々な出来事を通して呼びかけている
B. 私たちが実を実らせるために (6-9)
6 そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。7 そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』8 園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。9 そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」
1) 神様の忍耐と憐れみ
2) イエス様にとどまる (ヨハネ 15:1-9)
(ヨハネ15章)1 わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。2 わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。3 わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。4 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。6 わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。…9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。
メッセージのポイント
神様の前に私たちは等しく罪深く、悔い改めが必要な存在です。神様は一人でも多くの人が悔い改めることを忍耐強く待っておられます。それによって私たちが神様の愛にとどまり、実り豊かな人生を歩むためです。
話し合いのために
1) イエス様の言う「滅びる」とは?
2) 私たちが実をつけるとは?どうやって実をつけるのですか?
子供達のために
神様は私たちみんなを愛しています。特別かわいがったり、特別嫌ったりすることは決してありません。みんなの目にどんなに悪いと思われる人だとしても、神様はみんなを愛するのと同じように、その人のことも愛しています。私たちが悪いことをするのを神様は悲しまれますが、みんなが自分でそれに気が付くまで辛抱強く待っています。(聖書を読むとしたら、6-9節を読んで、神様の忍耐強さを教えてください。)
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<メッセージ全文>
神様は忍耐強く待っておられる 池田真理
A. 私たちが滅びないために (1-5)
1 ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。2 イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。3 決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。4 また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。5 決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」
今日のこの箇所はルカにしかない箇所です。おそらくこの時に人々の間で話題になっていたニュースが二つ取り上げられています。「ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた」という事件と、「シロアムの塔が倒れて18人の人が死んだ」事件です。私たちには何のことやらよく分かりません。私も参考書を調べてみましたが、この事件について記録しているのはルカだけで、聖書以外の他の文献にもほとんど載っていないので、詳しいことは分からないというのが学者たちの見解のようです。でも反対に言えば、歴史に残るような大事件ではなくても、日常の中で私たちが耳にする大小の事件の中にも、私たちはイエス様の語りかけを聞くことができるということでもあります。私たちの場合で言えば、例えば最近起こった中国での大爆発や、住宅街に小型飛行機が墜落したニュースなどを思い浮かべてもいいと思います。被害にあった人たちにとっては人生を大きく変えてしまう悲劇ですが、多くの人たちにとっては数あるニュースの中の一つであり、好奇心の的でしかありません。情報があふれる現代社会では、特にこの傾向が強いと思います。悲しい事件が多すぎて、一つ一つに同情していたら身が持たないので、無意識に避けていることもあると思います。でも、イエス様は一人一人の人生に関わる方です。事件をただの情報・物事として片付けるのではなく、そこに関わる一人一人の思いを知っておられる方です。私たちも、人間として限界はありますが、イエス様に従おうとするならば、イエス様に倣って、様々な出来事や情報に向き合うことができるはずです。それは神様がこの世界をどう見ておられるのか、神様の視点で見るということでもあります。そのためにはまず、私たちの間違った視点を取り除かなければいけません。
1) 私たちは皆等しく罪深い
もう一度イエス様の言葉に注意してみましょう。イエス様は、ピラトに殺されたガリラヤ人たちにしても、事故に巻き込まれて死んだ人たちにしても、彼らが特別罪深かったからそんな目にあったのではないと言われています。当時の人たちは、不幸の原因は罪にあると考えていました。人には知られていなくても、何か隠れたところで大きな罪を犯していたから、神様からの罰として悲惨な目に遭うのだと考えていました。ですから、悲劇に遭うこと自体が罪深い証拠だとすら思われました。イエス様はそんな考え方をきっぱり否定しています。目に見えるこの世界で起こってくる様々な不幸を、そのまま神様の裁きとしてとらえることは間違いです。私たちの罪と神様の裁き(罰)の関係は、そんな単純に私たちの目に見えて分かるものではありません。それでも私たちが間違えてしまうのは、神様と自分の関係に集中しないで、自分と他人を比べるからです。神様という永遠に生きておられる方を遠くに見なければ、私たちは自分のすぐ近くを見渡して、他人と自分を刹那的に比べて生きるしかありません。そして自分には甘く、他人の不幸に鈍感になってしまいます。ですから、私たちが神様が見るようにこの世界を見るために必要なのは、まず自分が神様に見られていることを知ることです。言い換えれば、自分も神様の裁きの対象であると知ることです。神様の前に、私たちは皆等しく罪深く、皆悔い改めなければいけない存在です。
2) 神様は様々な出来事を通して呼びかけている
でも、ではなぜ突然不幸に見舞われる人とそんなことは一生経験しない人がいるのでしょうか?皆同じように罪深いなら、なぜ不公平が生まれるのでしょうか?それは矛盾しているように思えますが、やはり私たちが罪深いからなのです。そして様々な出来事を通して、神様は私たちが悔い改めるように呼びかけています。神様は、私たちを強制的に悔い改めさせることはありません。それは本当の意味の悔い改めではないからです。でも、そのために私たちの罪は野放し状態にもあります。そして人を傷つけ、社会を歪ませ、神様の願いとは程遠い現実を作り上げています。そして必要のない苦しみをお互いに負わせることになります。この状態を神様はずっと忍耐しています。私たちが悔い改めることを待っておられるからです。だから、私たちが日常で耳にする、自分とは関係のない大小の事件にも、私たちは悔い改めの呼びかけを聞かなければいけません。それは、先に「滅びた」人を見て、自分もそうならないように悔い改めなさいという脅しではありません。私たちの罪深い現実を誰よりも悲しみ、それでも忍耐強く待っておられる神様の憐れみに気が付きなさいという呼びかけです。私たちが滅びることを誰よりも食い止めようとしているのは神様ご自身です。一人でも多くの人が滅びないように、神様は忍耐強く待っています。続きを読んでいきましょう。
B. 私たちが実を実らせるために (6-9)
6 そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。7 そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』8 園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。9 そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」
1) 神様の忍耐と憐れみ
ぶどう園にいちじくの木を植えるということはよくあったようですが、いちじくの木は、ぶどうの木よりも高く大きくなります。それが実をつけなければ、他のぶどうの成長の邪魔になりかねません。実をつけないのに、土の中の養分を横取りし、大きく成長して太陽の光を独り占めするかもしれません。だから、実をつけなければ、早めに切り倒してしまった方が他のぶどうの木のためにはいいはずです。でも、神様はそんな木でも実がなるかもしれないから、と待つ方です。他のぶどうの木にしてみれば迷惑なこのいちじくの木でも、神様にとっては実がなることを期待して植えた大切な木に変わりありません。だから、簡単にはあきらめず、肥料をやって手入れをしようとされます。神様は私たち一人一人に対して、そのように忍耐強く、憐れみ深く成長を待って下さる方です。ただ、この神様の忍耐と憐れみは、いちじくの木にとってはありがたいですが、他のぶどうの木にとっては時に迷惑に感じるものです。邪魔な木はさっさと切り倒してもらった方が、周りのぶどうの木にとっては助かります。でも神様はなかなかそうしません。これが今の世界の状況です。早く実をつける木もあれば、なかなか実がならない木、色々な木が混在している状態です。神様は、1本でも多くの木がちゃんと実をつけられるように、根気強く待っています。切り倒されて焼かれてしまう木が少なくなるように、今は実をつけていなくても待っています。その結果、一見神様が人間の罪を放ったらかしにして、それによって苦しむ人が増えても無関心でいるように見えます。なぜ神様は早くどうにしかしてくれないんだろうという切実な問題が、個人の生活の中にも世界の中にもあります。自分のことを愛してくださっている神様は、私たちを苦しめる人たちのことも同じように愛しているという事実は、簡単に受け入れられることではありません。でも、神様はその人たちのことを放っておいているのではありません。あなたを通して、他の人を通して、様々な出来事を通して、手入れをし、肥料をやり、実がなるように、滅びることがないように待っています。そして、私たち一人一人に求められているのは、他の木が最終的にどうなるかを見届けることではありません。それは神様に任せていいことです。私たちは、自分自身が、悔い改めて実を結びなさいという神様の呼びかけに応えられるように集中するだけです。
では、私たちが実を結ぶとはどういうことなのか、最後にヨハネによる福音書15章から考えたいと思います。
2) イエス様にとどまる (ヨハネ 15:1-9)
(ヨハネ15章)1 わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。2 わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。3 わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。4 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。6 わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。…9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。
私たちがイエス様につながることによって豊かに実を結ぶこと、それが神様が忍耐強く待っておられる目的です。私たちは自分ではただ周りに迷惑をかけることしかできないかもしれません。でも、イエス様につながり、イエス様の愛に生かされることで、私たちも他の人を愛することができます。私たちが罪によって互いを傷つけ合うのではなく、互いに赦し合い、自分のことだけではなく他人のことを気遣って生きることが、神様が望まれる本来の私たちの生き方です。そんな生き方ができるのか疑わしく思われてしまうほど、この世界は私たちの罪によって歪んでいます。私たちの目も罪によって曇っています。中国の大爆発でも、小型機墜落の事故でも、自分の経済的利益を追求しようとした人間の罪が透けて見えます。その罪を、自分も同じように持っているものだと私たちは言うことができるでしょうか?また、犠牲になった人たちの悲しみを、自分の罪がもたらし得るものだと想像することができるでしょうか?それでもイエス様は「私の愛にとどまりなさい」と言ってくださっています。それはただただ憐れみであり、恵みです。私たちが罪の中に生きている時から、イエス様は私たちを先に愛してくださいました。だから、罪の中からでもイエス様に助けを求めることができます。「私につながっていなさい」というイエス様の呼びかけは、誰に対してもどんな状況にあっても向けられています。この呼びかけに応えてイエス様にとどまるなら、私たちは愛するという実を結ぶことができます。イエス様が私たちのために流された血は、私たちも他の人のために血を流すことを可能にします。イエス様の体が裂かれたから、私たちも自分の身が裂かれても愛し続けることができます。それは本当に驚くべきことですが、イエス様にとどまるなら、私たちはそのように実を結ぶように手入れをされるのです。そして「いよいよ豊かに実を結ぶ」ことになります。私たちの愛は乏しくても、神様の愛は忍耐強く憐れみ深いものです。「私の愛にとどまりなさい」というイエス様の言葉が、私たちの今週の歩みを照らしてくださいますように。
メッセージのポイント
神様の前に私たちは等しく罪深く、悔い改めが必要な存在です。神様は一人でも多くの人が悔い改めることを忍耐強く待っておられます。それによって私たちが神様の愛にとどまり、実り豊かな人生を歩むためです。
話し合いのために
1) イエス様の言う「滅びる」とは?
2) 私たちが実をつけるとは?どうやって実をつけるのですか?
子供達のために
神様は私たちみんなを愛しています。特別かわいがったり、特別嫌ったりすることは決してありません。みんなの目にどんなに悪いと思われる人だとしても、神様はみんなを愛するのと同じように、その人のことも愛しています。私たちが悪いことをするのを神様は悲しまれますが、みんなが自分でそれに気が付くまで辛抱強く待っています。(聖書を読むとしたら、6-9節を読んで、神様の忍耐強さを教えてください。)