<メッセージノート>

2015/10/4 (ルカによる福音書 13:22-35) 

狭い戸口から入る

池田真理


A. 主を知っている者が気を付けるべきこと (22-30)


22 イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。23 すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同に言われた。24 「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。25 家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。26 そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。27 しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。28 あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。29 そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。30 そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」

1) 形だけになっていないか




2) 先の者が後になるかもしれない


B. 主を手本に生きる (31-35)

31 ちょうどそのとき、ファリサイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに言った。「ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています。」32 イエスは言われた。「行って、あの狐に、『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える』とわたしが言ったと伝えなさい。33 だが、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ。

1) 私たちにはどのような品性が求められているのか? (8-12)




2) 救いとは何か? (15)


32 イエスは言われた。「行って、あの狐に、『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える』とわたしが言ったと伝えなさい。33 だが、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ。


3) 救いとは何か? (15)


34 エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。35 見よ、お前たちの家は見捨てられる。言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時が来るまで、決してわたしを見ることがない。


メッセージのポイント
主に従って生きるということは、毎日の挑戦です。イエス様が神様の計画に従って、私たちを愛するあまり命をささげられたように、私たちも命をかけて愛する挑戦を日々しています。それは広く平坦な道のりではありません。狭い戸口から入る努力が必要なのです。

話し合いのために
1) 救われる者は少ないのでしょうか?(23節)
2) 狭い戸口から入るために私たちがすべきことはなんでしょうか?

子供達のために
イエス様に従うということは、ただ教会に通うとか、寝る前にお祈りをするとか、親や先生の前でいい子にするということではありません。大切なのは心の向きです。教会に通っていてもいなくても、いい子でも悪い子でも、心がイエス様の方を向いているかどうか(イエス様を好きかどうか)が一番大切です。それは他の人にほめられるよりも、ずっと大変なことです。神様はみんなの心を見ています。*ルカのこの箇所が難しければ、マタイ7:21-23を読んでもいいと思います。

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<メッセージ全文>

2015/10/4 (ルカによる福音書 13:22-35) 

狭い戸口から入る

池田真理


 今日はルカによる福音書の13:22-35を読んでいきます。前半で22-30節、後半で31-35節を読みます。前半は、もうイエス様と出会っている人、イエス様を信じている人に向けた警告です。こうならないように気をつけなさい、という警告です。ですから、まだイエス様が自分にとってどういう方なのか分からない人は、前半の警告はあまり気にしないでください。ただ、イエス様を信じて従うということはどこかの時点で決心することだけれど、その一度きりで終わりではなく、その後一生をかけて毎日問われる決心だと知ってください。後半の31-35節は、ではイエス様を信じて従うために、私たちは具体的にどうすればよいのかという勧めです。では前半から読んでいきましょう。

A. 主を知っている者が気を付けるべきこと (22-30)

22 イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。23 すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同に言われた。24 「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。25 家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。26 そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。27 しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。28 あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。29 そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。30 そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」

1) 形だけになっていないか


 ここで問題になっているのは、「入ろうとしても入れない人が多い」ということです。中にいる主人を呼んで「一緒に食べたり飲んだりしましたし、私たちに色々教えてくださったじゃないですか」と言っても、主人は冷たく答えます。「お前たちのことは知らない。」この人たちは主人を知っているつもりになっていました。でも、主人からすれば、彼らは自分とは関係のない人たちにしか思えなかったということです。なぜなら、彼らは「不義を行う者」だったからです。主人が喜ぶことをせず、むしろ主人が嫌われることをしていたということです。そして、彼らは主人の家に入れてもらえず、外に投げ出されて、そこで泣きわめいて歯ぎしりすることになると言われています。これが私たちと神様の関係だとしたらどうでしょうか。こんなふうにはなりたくないですよね。でも、間違った恐怖は持たないでください。もう少し丁寧に、ここでイエス様は何を言われているのか考えてみましょう。
 イエス様を自分の主と呼ぶことは、誰にでもできます。口でイエス様を信じているということも、イエス様を愛しているということも、誰にでもできます。でも、本当にその人がイエス様を信じているかどうか、愛しているかどうかは、究極のところイエス様にしか分からないのです。イエス様は、私たちの口先の言葉や見せかけの行いではなく、私たちの心を見通される方です。何をしているかしてないかではなく、それをしている私たちの心、それをしていない私たちの心を見られるのです。だから、教会にどれだけ熱心に通うか、毎日どれだけ祈りに時間を費やすか、というようなことは、私たちが第一に心配することではありません。そういうことはイエス様を信じて従うという中に含まれる大切なことではあります。でも、もっと大切なのは、心がイエス様の方を向いていることです。自分の連なる教会を持ち、そこでお互いのことを知って助け合うということは、必要不可欠なことですが、色々な理由で一時的にそれができなくても、自分を責める必要はないということです。反対に、毎週欠かさず教会に行っていても、それだけで安心して週の6日間は神様のことなんて何も考えてませんとなれば、やはり問題です。祈りについても同じです。淀みなく立派な言葉で祈りながら、心は神様に集中していないなら、虚しい祈りになってしまいます。反対に、他人が聞いていて何を言っているのか分からないくらいポツポツと途切れて、拙い言葉だとしても、心が神様に向いていれば、神様は喜んで聞いてくださるでしょう。
 だから私たちは、心がイエス様の方に向いているかどうかだけを気にしていればいいのです。でも、それが実際はなんと簡単に忘れられてしまうことでしょう。クリスチャンらしさ、教会らしさ、信仰深さ。みんな人間が勝手に作り上げた、うわべだけの形式です。そして、いつのまにか「お前たちのことは全然知らない」と神様に言われてしまうまでに、中身のない形だけの信仰になってしまいます。だから、いつも心をイエス様に向けているということは、単順なことですが、努力が必要なのです。そして、その努力によって、後の者が先になり、先の者が後になるということが起こります。



2) 先の者が後になるかもしれない

 後の者が先になり、先の者が後になるという言い方は、聖書独特の言い方で、分かりにくい表現です。先になるとどうなるのか、後になるとどうなるのか、具体的なことは私たちには分かりません。ただ、私たちの考える優劣と、神様の考える優劣は、必ずしも一致しないということは知っておくべきです。そして、だから私たちは尚一層、ただ自分の心の向きにだけ集中すべきです。たとえ「クリスチャンらしく」なくても、自分がイエス様の方を向いていて一生懸命なら、それで自信を持っていいのです。「教会らしい」ことをしていなくても、イエス様を第一にするという目的を見失っていなければ、それでいいのです。反対に、クリスチャンらしくないから、教会らしくないから、という見た目で良し悪しを判断するべきではありません。ただ、イエス様を第一にすること、それは先に言いましたが、単純ですが、努力が必要です。自分の勝手な価値観、人間の作り上げた形にとらわれない努力です。イエス様はこれを「狭い戸口から入るように努めなさい」という言葉で言っています。この「努めなさい」と訳されている言葉は、スポーツで競い合うという意味でも使われる言葉です。苦労をして闘いなさいstruggle to fightということです。狭い戸口というのは、神様がいじわるで狭くしているわけではありません。入ろうとして入れない者が多いから狭いということです。イエス様を信じて従うことは単純なはずなのに、人間は複雑にしたがります。矛盾するようですが、人間が複雑に作り上げた形式ばかりの信仰は、守ることが簡単です。形だけ守っていれば大丈夫という見せかけの安心を与えます。そして、心をイエス様に向けるという一番大切なところを見失ってしまいます。だから、私たちは、イエス様を信じることを複雑にしないように、闘わなければいけません。神様は、私たちが世界のどこにいても、よく闘っているか、見てくださっています。神様の国で宴会が開かれる時、東からも西からも、南からも北からも、単純なことを単純に守り続けた人たちが集められます。

 では、単純なことを単純に守るのに、なぜ努力がいるのでしょうか?心をイエス様にだけ向けることが、なぜ闘いなのでしょうか?それは、イエス様を信じて従うということは、イエス様にならって生きることだからです。イエス様が生きたように生きるということです。それが具体的に何を意味するのか、続きを読んでいきましょう。


B. 主を手本に生きる (31-35)

31 ちょうどそのとき、ファリサイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに言った。「ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています。」32 イエスは言われた。「行って、あの狐に、『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える』とわたしが言ったと伝えなさい。33 だが、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ。

1) 自分を犠牲にして愛する


 ヘロデというのは当時のユダヤを治めていた領主です。イエス様を政治的に危険な人物としてマークしていました。イエス様は、活動を始めた最初から色々な人に憎まれていました。イエス様を殺したいと願うのはヘロデだけでなく、多くいました。でも、イエス様はそんな人たちから隠れようとはしませんでした。なぜなら、自分には神様から与えられた役割があると知っていたからです。そして、それを果たすことが何よりも大切だったからです。それをすることによって、自分が殺されることも分かっていました。分かっていたというより、殺されることがイエス様の役割だったと言えます。エルサレムで十字架に架けられて死ぬこと、それが、イエス様の役割です。それは全部、神様が私たちを愛しているから計画してくださったことです。だから、イエス様にとって神様の計画に従うということは、自分にとっては苦しみしか意味しませんでした。でも、私たちを愛しているから、その計画に従って殺される運命を引き受けました。
 私たちがイエス様を第一にして生きるなら、このイエス様の運命を共にするということでもあります。誰かを愛するために、自分が犠牲を払うという運命です。本当は、愛するということ自体に自分の犠牲を払うということが含まれていますが、私たちは相手に見返りを求めがちです。イエス様は私たちに何の見返りも期待しませんでした。というか、私たちにイエス様にお返しできるものは感謝以外にありません。私たちも、相手に何も見返りを求めず、自分の時間や労力をその人のために使うことができるでしょうか?さらに言えば、見返りどころか、拒絶されるという痛みも味わうかもしれません。それでもイエス様にならって愛し続けることができるでしょうか?それは簡単ではありません。イエス様を信じて、喜んで従おうと思っていても、すぐにできることではありません。イエス様を知る努力と訓練が必要です。私もまだそのスタートラインに立ったに過ぎません。ゴールは途方もなく遠くに思えますが、それでもするべきことは毎日を生きることだけです。それもイエス様と同じです。イエス様も、十字架に至るまでの一日一日を使って、弟子たちに教え、人々を癒しました。



2) 今日も明日も次の日も進み続ける


32 イエスは言われた。「行って、あの狐に、『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える』とわたしが言ったと伝えなさい。33 だが、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ。

 今日も明日もその次の日も、私たちも進み続けなければいけません。神様は私たちそれぞれにそれぞれの役割を与えています。役割のない人はいません。自分にできることはわずかだと思えても、そのわずかを積み重ねることしか私たちにはできません。それも、狭い戸口から入るための闘いと言えます。根気強く、焦らず、愛し続けること。不思議なのは、神様に信頼するなら、それが喜びになっていくことです。私たちはイエス様をお手本にして、イエス様にならいますが、イエス様にはなれません。神様はそんなことは百も承知です。それでも、あえて小さな私たちを用いられます。最後にそのことを確認して終わりにしたいと思います。


3) 神様に愛されていることを忘れない


34 エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。35 見よ、お前たちの家は見捨てられる。言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時が来るまで、決してわたしを見ることがない。

 エルサレムはダビデの時代から神様に特別に選ばれた町でした。でも、人々は神様を次第に忘れて、形だけの礼拝をするようになっていました。心から神様を求めることなく、儀式や規則が中心になってしまっていました。だから「お前たちの家は見捨てられる」と言われてしまっています。これは、ちょうど今日前半で読んだように、主人を知っているつもりでも、主人には「お前たちのことは知らない」と言われてしまうような状態です。そんな状態を終わらせるために、旧約聖書の時代から、神様はたくさんの預言者たちを送ってきました。イエス様は、その預言者たちのうちの最後の預言者でもあります。でもエルサレムの人々の多くは、イエス様の言葉にも耳を傾けませんでした。そして、イエス様を信じる人たちを迫害しました。だから、イエス様の死後、弟子たちはエルサレムの外へ、ユダヤ人だけでなく異邦人にも、イエス様のことを伝えました。そして各地で多くの異邦人がイエス様のことを信じました。それはまさに、「後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある」ということでした。
 神様の愛は、それに最もふさわしくない人たちの中で最も強くなります。自分が神様の愛にふさわしくないと思うなら、それは間違っていません。それでも愛してくださっている神様の愛の大きさを受け取ってください。どんな状況でも、神様は私を愛し、この世界を愛しておられるという単純な事実を思い出してください。それは一生続く、毎日の挑戦です。根気強く、焦らず、一日一日をイエス様が生きたように生きましょう。


メッセージのポイント
主に従って生きるということは、毎日の挑戦です。イエス様が神様の計画に従って、私たちを愛するあまり命をささげられたように、私たちも命をかけて愛する挑戦を日々しています。それは広く平坦な道のりではありません。狭い戸口から入る努力が必要なのです。

話し合いのために
1) 救われる者は少ないのでしょうか?(23節)
2) 狭い戸口から入るために私たちがすべきことはなんでしょうか?

子供達のために
イエス様に従うということは、ただ教会に通うとか、寝る前にお祈りをするとか、親や先生の前でいい子にするということではありません。大切なのは心の向きです。教会に通っていてもいなくても、いい子でも悪い子でも、心がイエス様の方を向いているかどうか(イエス様を好きかどうか)が一番大切です。それは他の人にほめられるよりも、ずっと大変なことです。神様はみんなの心を見ています。*ルカのこの箇所が難しければ、マタイ7:21-23を読んでもいいと思います。