<メッセージノート>
神の家 vs. 惑わす霊
永原アンディ
A. 神の家を堅固にする (3:14-16)
1) 教会生活 (14,15)
14 わたしは、間もなくあなたのところへ行きたいと思いながら、この手紙を書いています。
15 行くのが遅れる場合、神の家でどのように生活すべきかを知ってもらいたいのです。神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です。
2) 家の主人であるキリスト (16)
16 信心の秘められた真理は確かに偉大です。すなわち、キリストは肉において現れ、“霊”において義とされ、天使たちに見られ、異邦人の間で宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。
B. 教会として惑わす霊と戦う (4:1-5)
1) 教会に戦いを挑んでいる“惑わす霊” (1-3)
1 しかし、“霊”は次のように明確に告げておられます。終わりの時には、惑わす霊と、悪霊どもの教えとに心を奪われ、信仰から脱落する者がいます。
2 このことは、偽りを語る者たちの偽善によって引き起こされるのです。彼らは自分の良心に焼き印を押されており、
3 結婚を禁じたり、ある種の食物を断つことを命じたりします。しかし、この食物は、信仰を持ち、真理を認識した人たちが感謝して食べるようにと、神がお造りになったものです。
2) ただ神の言葉と祈りによって (4,5)
4 というのは、神がお造りになったものはすべて良いものであり、感謝して受ける ならば、何一つ捨てるものはないからです。
5 神の言葉と祈りとによって聖なるものとされるのです。
メッセージのポイント
神の家での生活とは教会生活です。それは神の家族との関係の中での生活であって、この建物の中の生活ということではありません。そこは天にあるのではなく、地上の生活の場ですから、いつも様々な問題に直面します。中には、あなたをキリストの愛から引き離そうとする悪霊の働きから起こることもあります。
話し合いのために
1) 神の家とは何でしょう?
2) なぜパウロは「神がお造りになったものはすべて良いものである」と言ったのですか?
子供達のために
子供たちにも教会とは何かを考えさせましょう。ただ大人のように、建物ではなく関係だと言ってもわかりにくいと思います。このユアチャーチの建物になぜ私たちは日曜日にやってきて礼拝を捧げるのか?なぜもっと他のところに行って遊んだり楽しんだりしないのか?私たちのような集まりの中に間違った教えをする人がやって来て、「結婚してはいけないとか、ある食べ物は食べるべきではない」と言い出すことを創造させてみましょう。そして神様が作ったものは、結婚であれ、食べ物であれとても良いものであることを確認しましょう。
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<メッセージ全文>
神の家 vs. 惑わす霊
永原アンディ
A. 神の家を堅固にする (3:14-16)
1) 教会生活 (14,15)
14 わたしは、間もなくあなたのところへ行きたいと思いながら、この手紙を書いています。
15 行くのが遅れる場合、神の家でどのように生活すべきかを知ってもらいたいのです。神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です。
先週、教会とは「行く」所ではなく、「出かけてゆき、帰ってくる」ところだとお話しました。さらに教会は建物ではなく人間関係だとお話しました。それはハウスとホームの違いです。もちろん目に見えるハウスも大切です。しかしハウスはお金を出せば手に入れることができますが、ホームはどうやって手に入れることができるのでしょうか? これからだんだん寒くなり「ホームレス」の人々には厳しい季節がやって来ます。ホームレスの問題は、住む家がないという点が強調されていますが、問題の本質はその名の通り、ホームつまり家族という人間関係を失ってしまったことにあります。私たちの周りには、立派なハウスに住んでいるのに、暖かいホームを持っていない人が多くいます。イエスにしたがって人生を歩む人には教会というホームがあります。このホームは実際の家族と切り離された別のものではなく、家族を含むものです。神様を信じてはいない家族のメンバーであっても神様の方は知っていて、あなたを通してその人にも祝福を与えて下さいます。
パウロはテモテに会いに行こうと考えていますが、すぐには行けないかもしれない事情があるようです。自分が行く前にわざわざこの手紙を誰かに託してテモテに伝えようとしているのは、一刻も早く伝えたい重要で緊急性のある内容がここで宣べられているからです。それは生活の基礎を教会に置きなさいという勧めです。私たちのホーム、神の家とは教会であり、それは真理の柱、土台なのだからそうしなさいと勧めています。パウロが信頼しリーダーとして任命したテモテ自身にとってそのことがあやふやであるはずはありません。ですからこのテモテに対する指示は、人々がそのように生活するように教えなさいということです。皆さんの人生の土台、柱は教会だと言えるでしょうか?私たちユアチャーチは建物ではなく家族です。だから問われているのは、沢山の集まりに出席しているとか、働きを担っているとか、どのくらいの献金をしているかということではないのです。あなたとイエスとの関係と同様に、家族を「信頼」しているか、ということが問われています。これは土台や柱であって目に見える外観ではありません。週報の終わりのページにある使徒信条には「教会を信じる」「交わりを信じる」とあります。使徒信条は聖書の一部ではありませんが、聖書の教えの核心を要約したものです。原型となるものは2世紀にはすでにあって洗礼を受ける際の基準とされていました。現在の形となったのは8世紀頃です。教会は神様同様に信じる対象なのです。キリストの体なのだから当然といえば当然です。人生の土台を教会に置くということは、いつでもどこでもキリストの体の一部として生きるということです。そこには得られる助けがあり、なすべき責任があります。人の体を考えてみてください。キリストが頭ですが、この頭に全ての細胞が直接つながっているわけではありません。細胞は自分の体の部分、たとえば手や足、内臓の一部として存在し、それぞれの部分が神経によって脳とつながっています。キリストと教会と個人の関係も同じです。仕事が忙しくて、あるいは体が不調でここにはなかなか来られなくても関係を築くこと保つことはできるのです。テクノロジーは物理的に同じ場所にいなくても、様々な方法で関係を保つ方法を提供していてくれます。キリストの体の一部であるユアチャーチに、私の魂はしっかりとつながっているだろうか?そこから必要な養分をいただき、自分がなすべき務めを果たしているだろうか?それが私たちに問われていることです。
2) 家の主人であるキリスト (16)
16 信心の秘められた真理は確かに偉大です。すなわち、キリストは肉において現れ、“霊”において義とされ、天使たちに見られ、異邦人の間で宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。
なぜ、この家族の一員であることが重要なのでしょうか?それはこの家族の主がイエス・キリストだからです。このイエスを主とする家族の中にいることが全てを作られた神様とつながるたった一つの道だと、イエスご自身が言われたのです。「私は道、真理、命です。誰も私を通らなければ父のもとに行くことはできません」(ヨハネ14:6) 私の願いは一つです。皆さんがイエスと共に歩む人となること、イエスと共に歩み続けること。私はこの事のためにここに立って話しています。私自身はおとなになるまで神の家族のことについて何も知りませんでした。実の両親は持っているものの全てを惜しまずに与えて育ててくれました。けれども、たったひとつだけ両親は私に「真理」を教えてはくれませんでした。彼らも知らなかったからです。イエスを信じた時、ジグソーパズルのいままで見つからなかった、最後のそして真ん中のワンピースを入れられたように感じました。私たちの周りを見れば、5000ピースくらいの豊かな生活をしているように見える人はいくらでもいます。けれどもどんなに多くのピースを持っていても、最後のピースが見つからないなら未完成なのです。世界は一見、主人のいない家のように混乱しています。実際はいないのではなく主人を知らない人が多いのです。知らない人に伝えるのが、先に知った者の務めです。パウロは言いました「主イエスを信じなさい、そうすればあなたも、あなたの家族も救われます」(使徒言行録16:31)。先に紹介した使徒信条には、この16節の内容も含まれています。「主は聖霊によってやどり、おとめマリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、よみにくだり、三日目に死人のうちからよみがえり、天にのぼられました。そして、全能の父である神の右に座しておられます。そこからこられて、生きている者と死んでいる者をさばかれます。」あなたの人生には信頼できる主人がいなかったのではなく、気が付かなかっただけなのです。イエスを主と受け入れましょう。イエスはあなたにとって最も重要な、誰も代わることのできない方です。
B. 教会として惑わす霊と戦う (4:1-5)
1) 教会に戦いを挑んでいる“惑わす霊” (1-3)
1 しかし、“霊”は次のように明確に告げておられます。終わりの時には、惑わす霊と、悪霊どもの教えとに心を奪われ、信仰から脱落する者がいます。
2 このことは、偽りを語る者たちの偽善によって引き起こされるのです。彼らは自分の良心に焼き印を押されており、
3 結婚を禁じたり、ある種の食物を断つことを命じたりします。しかし、この食物は、信仰を持ち、真理を認識した人たちが感謝して食べるようにと、神がお造りになったものです。
エフェソの教会は混乱していました。イエスの教えとは異なる教えをする者が影響を与えていました。それは結婚を禁じたり、ある種の食物を断つことを命じたりする者たちでした。彼らは、霊は聖いもので体は汚れていると考え、体の再生産を意味する結婚を拒否するように命じたのです。また自分勝手な理由を作り出して食物規定を押し付けようとしました。彼らは、生きていればいろいろなやっかいなこともある人間の日常生活に我慢できなかったのです。世界から身を引くような生き方が、聖い生き方だと考え、教えたのです。それは私たちの陥りやすい間違いです。世界の中で、人々との関係の中で生きていれば様々な問題が起こり続ける、それなら人とではなく神様だけにつながっていればいいのではないか?確かに人との関わりがなければ傷つけることも傷つけられることもなく、問題は起こらないかもしれません。世の終わりが近いと感じているならなおさら、そのほうが理にかなっていると思えます。だからエフェソの人々は彼らの教えに魅力を感じたのでしょう。しかし、世界から身を引けば、イエスが命じた、あの、何よりも大事なことができなくなってしまいます。そう、愛するということです。だからパウロやテモテは、自分たちが生きている間にそれが起こるくらいに終末は近いと感じてはいましたが、だからといって日常的なことを疎かにしていいとは思いませんでした。何か具体的なことを禁じるというのは、およそイエスの教えにはありえないことです。「聞いて悟りなさい、口に入るものは人を汚さず、口から出てくるものが人を汚すのである」(マタイ15:11) というのが、イエスの考えです。
愛そうとすれば傷つくリスクがあるのです。イエスは世界を愛されました。だから十字架に付けられると知りながら私たちの世界に来てくださったのです。確かに世界には醜い部分が沢山あります。見たくも聞きたくもない事が毎日のように起こります。それでも世界から目をそらせてはいけません。それは、そのような世界にあって、あなたから神様の愛を受け取ろうとしている人々を見捨てることになります。だから愛し続けましょう。私たちは愛の神様の家族なのです。
2) ただ神の言葉と祈りによって (4,5)
4 というのは、神がお造りになったものはすべて良いものであり、感謝して受ける ならば、何一つ捨てるものはないからです。
5 神の言葉と祈りとによって聖なるものとさ れるのです。
それにしても辛い事や悲しいことの起こる日常の中で、どうしたらあきらめずに愛し続けることが出来るのでしょうか?それはあなただけの悩みではありません。2000年近く前のイエスをその目で見た人々も、私たちも同じ悩みを持っているのです。それほどまでに、今も昔も世の罪は大きく強いのです。そして、それに対抗できる力は私たちの内にはありません。だから、神様との親密な関係が欠かせないのです。それは神様への信頼に基いています。神様が作られたものに悪いものはない、という信頼です。しかし、私たちの信頼はすぐに揺らぐのです。神様が許したとは思えないほど受け入れられないことが起こるからです。しかし、だからこそ、今日の最後の節にこうあるのです。それらは「神の言葉と祈りとによって聖なるものとされるのです。」聖書に書かれている神様の言葉に、普段から親しんでいましょう。祈りによって神様とそしてキリストの体である家族=教会につながっていましょう。それが苦難の日にどれほど大きな助けになるか、ここにはそれを知っている人が大勢います。もし疑問に思えるならこの人たちに聞いてみてください。
メッセージのポイント
神の家での生活とは教会生活です。それは神の家族との関係の中での生活であって、この建物の中の生活ということではありません。そこは天にあるのではなく、地上の生活の場ですから、いつも様々な問題に直面します。中には、あなたをキリストの愛から引き離そうとする悪霊の働きから起こることもあります。
話し合いのために
1) 神の家とは何でしょう?
2) なぜパウロは「神がお造りになったものはすべて良いものである」と言ったのですか?
子供達のために
子供たちにも教会とは何かを考えさせましょう。ただ大人のように、建物ではなく関係だと言ってもわかりにくいと思います。このユアチャーチの建物になぜ私たちは日曜日にやってきて礼拝を捧げるのか?なぜもっと他のところに行って遊んだり楽しんだりしないのか?私たちのような集まりの中に間違った教えをする人がやって来て、「結婚してはいけないとか、ある食べ物は食べるべきではない」と言い出すことを創造させてみましょう。そして神様が作ったものは、結婚であれ、食べ物であれとても良いものであることを確認しましょう。