<メッセージノート>

2015/11/1 (ルカ14:25-35)
全てを捧げるに値するもの

池田真理


25 大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。26 「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。27 自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。

A. 腰をすえて考えてみよう (25-33)

28 あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。29 そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、30 『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。31 また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。32 もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。33 だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」

・私たちの人生に必要なもの



・人生全てを捧げるに値するもの (フィリピ 3:7-9)

フィリピ 3:7-9 しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。



B. 塩が塩であるために (34-35) (フィリピ 4:6-7)


34 「確かに塩は良いものだ。だが、塩も塩気がなくなれば、その塩は何によって味が付けられようか。35 畑にも肥料にも、役立たず、外に投げ捨てられるだけだ。聞く耳のある者は聞きなさい。」

フィリピ 4:6-7 どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。


メッセージのポイント
私たちは自分が頼りないことを知っています。他人にも限界があります。でも、イエス・キリストに従うなら、必要なものは全て与えられます。そう信じることが、イエス様に従うということです。自分の人生全てを捧げるに値するものはイエス様だけです。イエス様を信頼して生きるなら、イエス様の愛は私たちを通して他の人にも伝えられていきます。

話し合いのために
1) 26節にある、家族や自分の命を憎むとはどういうことですか?
2) あなたは自分の人生を通して、何を目指していますか?

子供達のために
25-27, 33節、フィリピ4:6-7を読んでみて下さい。イエス様に従うということは、ただ問題を解決してもらおうとしたり、自分の願い事を叶えてもらうことではありません。それより何よりも、イエス様はいつも裏切らず、応えてくださる方だと信頼することです。いつも神様に感謝して願いを打ち明けることを勧めてください。神様の答えは期待通りでないかもしれませんが、そうだとしたらそれが一番良いことです。

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<メッセージ全文>

2015/11/1 (ルカ14:25-35)
全てを捧げるに値するもの

池田真理


 先週、イエス様に従って歩むということは世捨て人になることではないと聞きました。悲しいことや面倒なことを避けて社会から離れて生きたいと願うことは、時に魅力的に感じるかもしれません。でも、それでも人と関わり、愛し続けることがイエス様の一番大切な教えです。では、今日の箇所はどうでしょうか?まず25-27節を読んでみましょう。

25 大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。26 「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。27 自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。

自分の家族も、自分の命さえも憎みなさいと言われています。こういう内容は新約聖書の中で繰り返し出てきます。ルカによる福音書でも、すでに9章で1回出てきました。その時もお話しして、先週のお話にもあった通り、このイエス様の言葉は、イエス様についていくために家族を捨てて隠遁生活をしなさいということではありません。ただ、どんなに愛して尊敬している親、配偶者、子供、兄弟だとしても、イエス様に並ぶものはいないということです。そして、自分の命でさえもイエス様のためになら捧げられると言えるほど、イエス様を深く愛するということが求められています。大勢の群衆がイエス様について行ったのは、決してそこまでイエス様を大事にしていたからではありませんでした。そのことをイエス様は見抜いていました。イエス様に問題の解決、病気の癒し、奇跡を見せてもらうことを求めることは当然のことですが、それ以上にイエス様がそこで何を望んでおられるかを求めることの方が大切です。それは、自分よりも、自分の愛する人たちよりも、まずイエス様を信頼するということです。今日これから読んでいくところでは、このことについて、イエス様が「腰をすえて考えてみなさい」と言われています。その勧めに従って、今日はちょっと立ち止まって、イエス様についていくこと、人生を生きていくことについて考えてみましょう。25-33節を読みましょう。

A. 腰をすえて考えてみよう (25-33)

28 あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。29 そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、30 『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。31 また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。32 もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。33 だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」

・私たちの人生に必要なもの


 このたとえ話は、分かりやすいようで、よく考えるとよく分からない不思議なたとえ話です。塔を建てるにしても戦争をするにしても、始める前に自分にそれができるかどうか考えなければならないというのは合理的です。何か大きなことを時間をかけてやろうとするなら、途中で資金不足にならないように、最初によく計画するのは当然です。でも、これはイエス様に従うということについてのたとえ話です。ということは、イエス様についていくのに、私たちは必要なものを全部持っているのかどうか、ついてくる前によく考えなさいと言われているということです。そうでないと途中で資金不足になって挫折してしまうからです。イエス様に従っていこうと思った時に、皆さんはそんな風によく考えて計画を立てましたか?そんな人はいないと思います。ではどういうことかというと、33節のイエス様の言葉に答えがあります。「自分の持ち物を一切捨てないならば」とイエス様は言っています。塔の建設と戦争の二つのたとえ話の中では、自分が何を持っているかが中心でした。でも、今度は何を持っていないかが中心なのです。それも、一切何も持っていないことが中心です。イエス様に従うのに必要なものは何もありません。イエス様に従う上で私たちが腰をすえて考えなければいけないのはこのことです。自分には何もないということです。さらに、自分には何もないけれど、イエス様以外には何も必要ないのだと知ることです。イエス様以上に頼れる人は自分はもちろん他の誰でもなく、頼りにできる財産も何もありません。そのことをあなたたちはよく考えているか、とイエス様は問われています。イエス様に従っていくという道のりの中で私たちが挫折するとしたら、私たちがイエス様への信頼を失う時です。または、イエス様以外のものに期待して、それが裏切られた時です。そのことを、時々立ち止まって考えてみてください。絶望する時、虚しいと感じる時、不安な時、その原因がどこにあるのか。「全てを捨てて私を信頼しなさい」というイエス様の言葉を聞いてください。イエス様についていくということは、良い時も悪い時も、誰を失っても、願いが叶わなくても、イエス様がいれば大丈夫と言えることです。


・人生全てを捧げるに値するもの (フィリピ 3:7-9)


 次に、このたとえ話の別の捉え方をお話しします。別の捉え方といっても、これまでお話しした内容を別の方向からお話しするだけです。それは、このたとえ話は私たちの人生にもたとえられるということです。私たちは自分の人生にいろいろな願いや夢を持っていて、そのために今何をするべきか、いつまでに何を達成するべきか、いろいろ計画します。塔を建てるのに予算を立てて工事の計画を立てるのと同じです。戦いに勝つために自分と敵の兵力を比べて戦術を立てるのとも同じです。ただ、人生は自分の計画通りにいかないということは、私より人生経験のある皆さんの方がもっとよくご存知だと思います。だから私たちは計画を立てては立て直し、時には諦めたり方向修正をしたりします。でもそうやって苦労をして計画を立てて、最終的に手に入れようとしているものは何でしょうか?それは、一度きりの人生全てをかけるに値するものでしょうか?今日、立ち止まって考えたいもう一つのことはこのことです。自分の人生全てを捧げるに値するものは何かということです。イエス様を知っている皆さんは、イエス様がその答えだと思ったからイエス様を信じたのだと思います。イエス様をまだ知らない皆さんは、そういうものを求めて今このお話を聞いてくださっているのだと思います。イエス様は、私たちが自分の持ち物を一切捨てるに値する方です。それは一人一人がイエス様を知り、繰り返し確認することです。今はパウロの言葉を紹介しておきたいと思います。パウロはユダヤ教徒として知識も熱意も豊富で尊敬されていましたが、イエス様と出会ってその全てを覆されました。それまで彼を尊敬していた人たちからは裏切り者として恨まれるようになりました。でも彼はそれを全く苦にしませんでした。

フィリピ 3:7-9 しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。

 
イエス様を知るということは、人生の目標が定まるということです。それはそれまで人生の目標と思っていたものを諦めることを意味します。でも、それは泣く泣く諦めるのではなく、喜んで手放すと言った方が正しいでしょう。イエス様の中に、私たちは自分の生きる目的を発見することができます。それを知らないまま、自分の人生が何のためにあるのか、知らないまま生きている人が多いのは悲しいことです。イエス様を知っている皆さんは、そんなことはない、生きる目的はある、と伝え続けてください。そして今ここに自分は何のために生きているのだろうと迷っている方がいるなら、私はイエス様に代わって宣言します。あなたには生きる目的があり、価値があります。それは誰にも取り去られることのない、神様があなたに与えているものです。私がそう宣言できるのは、私があなたのことを知っているからではありません。イエス様があなたのことを知っていて、私はイエス様を信頼しているからです。

 では最後に、イエス様に従って歩む人生はどんな人生なのか、34-35節を読んで考えてみたいと思います。 


B. 塩が塩であるために (34-35) (フィリピ 4:6-7)


34 「確かに塩は良いものだ。だが、塩も塩気がなくなれば、その塩は何によって味が付けられようか。35 畑にも肥料にも、役立たず、外に投げ捨てられるだけだ。聞く耳のある者は聞きなさい。」

塩は野菜や肉の味を引き立たせておいしくします。味がないと思われるものに味を与えます。イエス様は私たちをこの世界に対する塩にしてくださいました。味がなくて乾いている世界に、イエス様はあなたを愛しているという塩をふりかけるためです。一粒の塩がふりかけられたところでジワ〜と周りに染み込んで味になるように、私たちがそれぞれ置かれたところで神様の愛はジワ〜と他の人に伝わっていきます。でもこの塩は私たち自身の内に元からあるのではありません。自分には何もなくても何を失ってもイエス様がいれば大丈夫という信頼から生まれるものです。この信頼が揺らぐとき、塩は塩気を失います。イエス様という塩を私たち自身が見失えば、私たちは塩でいることはできません。イエス様は私たちに一切の持ち物を捨てて従いなさいと言われたと同時に、自分の十字架を背負ってきなさいとも言われました。私たちの十字架とは、私たちの罪であり、そこから生じた様々なものです。人間関係の歪みや心の傷です。私たちはそれらをイエス様の前に差し出して、赦され、癒されることができます。それは時間のかかることです。それらのものに圧倒されて押しつぶされそうになるとき、今日お話ししたように、もう一度「腰をすえて考えて」みてください。希望はどこにあるのか、人生の中心は何か。イエス様がいれば大丈夫なんじゃなかったのか。パウロは言っています。

フィリピ 4:6-7 どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。

私たち一人ひとりの歩みを、今週も主イエスが導いてくださいますように。


メッセージのポイント
私たちは自分が頼りないことを知っています。他人にも限界があります。でも、イエス・キリストに従うなら、必要なものは全て与えられます。そう信じることが、イエス様に従うということです。自分の人生全てを捧げるに値するものはイエス様だけです。イエス様を信頼して生きるなら、イエス様の愛は私たちを通して他の人にも伝えられていきます。

話し合いのために
1) 26節にある、家族や自分の命を憎むとはどういうことですか?
2) あなたは自分の人生を通して、何を目指していますか?

子供達のために
25-27, 33節、フィリピ4:6-7を読んでみて下さい。イエス様に従うということは、ただ問題を解決してもらおうとしたり、自分の願い事を叶えてもらうことではありません。それより何よりも、イエス様はいつも裏切らず、応えてくださる方だと信頼することです。いつも神様に感謝して願いを打ち明けることを勧めてください。神様の答えは期待通りでないかもしれませんが、そうだとしたらそれが一番良いことです。