<メッセージノート>

2015/11/29 アドヴェント第一日曜日 ハバクク書より
希望の誕生を待ち望む
永原アンディ


A. 絶望の中で希望を待ち望む

1) 何世代にもわたって待ち望んだ人々(1:1-4, 13)

預言者ハバククが、幻で示された託宣。主よ、わたしが助けを求めて叫んでいるのにいつまで、あなたは聞いてくださらないのか。わたしが、あなたに「不法」と訴えているのにあなたは助けてくださらない。どうして、あなたはわたしに災いを見させ労苦に目を留めさせられるのか。暴虐と不法がわたしの前にあり争いが起こり、いさかいが持ち上がっている。律法は無力となり正義はいつまでも示されない。神に逆らう者が正しい人を取り囲む。たとえ、正義が示されても曲げられてしまう。 (1:1-4)

あなたの目は悪を見るにはあまりに清い。人の労苦に目を留めながら捨てて置かれることはない。それなのになぜ、欺く者に目を留めながら黙っておられるのですか神に逆らう者が、自分より正しい者を呑み込んでいるのに。 (1:13)


2) 人の本質は変わらない (11,15,16, 2:18, 19)

彼らは風のように来て、過ぎ去る。しかし、彼らは罪に定められる。自分の力を神としたからだ。(11)

彼らはすべての人を鉤にかけて釣り上げ網に入れて引き寄せ、投網を打って集める。こうして、彼らは喜び躍っています。それゆえ、彼らはその網にいけにえをささげ投網に向かって香をたいています。これを使って、彼らは豊かな分け前を得食物に潤うからです。 (15, 16)

彫刻師の刻んだ彫像や鋳像また、偽りを教える者が何の役に立つのか。口の利けない偶像を造り造った者がそれに依り頼んでも何の役に立つのか。災いだ、木に向かって「目を覚ませ」と言い物言わぬ石に向かって「起きよ」と言う者は。それが託宣を下しうるのか。見よ、これは金と銀をかぶせたものでその中に命の息は全くない。 (2:18, 19)



B. 絶望的な世界に希望が生まれた

1) 神様は答える (2:2-4,20)

主はわたしに答えて、言われた。「幻を書き記せ。走りながらでも読めるように板の上にはっきりと記せ。定められた時のためにもうひとつの幻があるからだ。それは終わりの時に向かって急ぐ。人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる。」 (2:2-4)

しかし、主はその聖なる神殿におられる。全地よ、御前に沈黙せよ。 (2:20)


2) あなたの心に希望はあるか? (3:17-19)

いちじくの木に花は咲かずぶどうの枝は実をつけずオリーブは収穫の期待を裏切り田畑は食物を生ぜず羊はおりから断たれ牛舎には牛がいなくなる。しかし、わたしは主によって喜びわが救いの神のゆえに踊る。わたしの主なる神は、わが力。わたしの足を雌鹿のようにし聖なる高台を歩ませられる。


メッセージのポイント
イエスの誕生の数百年も前から、小さい者、弱い者、貧しい者の苦しみ、悲しみは変わらずにありました。預言者たちは、その嘆きを神さまに投げかけます。預言者への神様の答えは、「待て」「神に従う者は信仰によって生きる」「主はおられる」です。数百年待ってイエスが来ても、その後、見たところ一向に変わらないようにも思える世界の中で、希望は確かに私たちに与えられています。主がおられるので、主に対する信仰によって、ここで希望を持って生きることができます。

話し合いのために
1)世界は良くなりつつありますかそれとも悪くなりつつありますか?
2) なぜイエスはあなたの希望となりうるのですか?

子供達のために
イエスがどれほど人々から待ち望まれていたか、ということを子供たちに出来るだけ実感させてください。イエスを主と信じ従う人が増えれば増えるほど、世界は神様が望まれる、人間にとっても平和で住みやすい者となること。それには自分がイエスに従ってゆくことからはじめなければならないと伝えてください。

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<メッセージ全文>

2015/11/29 アドヴェント第一日曜日 ハバクク書より
希望の誕生を待ち望む
永原アンディ


A. 絶望の中で希望を待ち望む

1) 何世代にもわたって待ち望んだ人々(1:1-4, 13)

預言者ハバククが、幻で示された託宣。主よ、わたしが助けを求めて叫んでいるのにいつまで、あなたは聞いてくださらないのか。わたしが、あなたに「不法」と訴えているのにあなたは助けてくださらない。どうして、あなたはわたしに災いを見させ労苦に目を留めさせられるのか。暴虐と不法がわたしの前にあり争いが起こり、いさかいが持ち上がっている。律法は無力となり正義はいつまでも示されない。神に逆らう者が正しい人を取り囲む。たとえ、正義が示されても曲げられてしまう。 (1:1-4)

あなたの目は悪を見るにはあまりに清い。人の労苦に目を留めながら捨てて置かれることはない。それなのになぜ、欺く者に目を留めながら黙っておられるのですか神に逆らう者が、自分より正しい者を呑み込んでいるのに。 (1:13)

 クリスマスという喜ばしい時を前にして、世界中で悲しい出来事が続いています。先週お話ししたパリでの出来事も、その後起こったロシアとトルコの関係の悪化もについても、またこの国を振り返れば、懸命な介護の果てに疲れ果てて、その大切な人とともに死んでしまおうと思わなければならない人々。まだ10年ほどしか生きていないのに自分の居場所を見いだせずに死を選ぶ子供たち。私たちの叫びは、ハバククの時代から続いています。神様の答えを聞きたくて当時の人々も待ち望んだのです。「神様、早く来てこの世界を悪者たちから取り返して神様ご自身が支配してください!」これが彼らの叫びでした。そして私たちも同じことを叫び求めています。ハバククの問いかけに対する神様の答えは、私たちのこの時代の生き方にも当てはまります。神様の説明を聞いてみましょう。


2) 人の本質は変わらない (11,15,16, 2:18, 19)

彼らは風のように来て、過ぎ去る。しかし、彼らは罪に定められる。自分の力を神としたからだ。(11)

彼らはすべての人を鉤にかけて釣り上げ網に入れて引き寄せ、投網を打って集める。こうして、彼らは喜び躍っています。それゆえ、彼らはその網にいけにえをささげ投網に向かって香をたいています。これを使って、彼らは豊かな分け前を得食物に潤うからです。 (15, 16)

彫刻師の刻んだ彫像や鋳像また、偽りを教える者が何の役に立つのか。口の利けない偶像を造り造った者がそれに依り頼んでも何の役に立つのか。災いだ、木に向かって「目を覚ませ」と言い物言わぬ石に向かって「起きよ」と言う者は。それが託宣を下しうるのか。見よ、これは金と銀をかぶせたものでその中に命の息は全くない。 (2:18, 19)


  11節は先週、現代のテロリストたちの行く末をも預言しているとお話しました。先週は読まなかった15, 16節もそうです。しかし、それは彼らだけに当てはまることとはいえません。今でも多くの人々が、社会全体が正義を求める神さまに背を向け、自分の持つ武器や、お金や力を信頼して生きています。ハバククの見ている社会が今もかわらないとはどういうことなのでしょうか?
 私たちは、本当に必要な物を本当に与えることのできる方に求めるなら、全ての人が十分に満たされて平和に生きられることをイエスに教えられています。

 だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。(マタイ6:31-33)

 それが実現していないのは、私たちが二重の意味で間違ってきたからです。本当に必要なものを求めることもしなければ、本当に与えることのできる方に求めることもしてこなかったのです。そして世界は同じ過ちを続けてきました。生じる悲劇の形は変わっても、その本質は同じなのです。まず神さまは私たちが自分たちの現実を正しく見るように、こう語りかけられたのです。「あなた方は絶望的な状態です!」しかし神様はこの絶望的な情況を宣言するだけではなく、私たちに希望を与えてくれました。それがイエスの時に至って実現するのです。


B. 絶望的な世界に希望が生まれた

1) 神様は答える (2:2-4,20)

主はわたしに答えて、言われた。「幻を書き記せ。走りながらでも読めるように板の上にはっきりと記せ。定められた時のためにもうひとつの幻があるからだ。それは終わりの時に向かって急ぐ。人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる。」 (2:2-4)

しかし、主はその聖なる神殿におられる。全地よ、御前に沈黙せよ。 (2:20)

  神さまは預言者の問いに対してこのように答えられました。終わりの時に向かっての出来事が、遅いように思えてもかならず来る、というのです。それは絶望的な世界を終わらせ、神様の正しい支配の時=神の国の予告です。ヘブライ人の手紙は3, 4節を引用して、イエスが再び来られることを期待して現状を忍耐しながら待ち望みましょう、と勧めています。ハバククは救い主の登場というアイディアなしに終末を預言したのでしょうか?そうではありません。イエスが来られることと、世の終りが来ることとは連続した一つのことであるということです。イエスの誕生は、終わりの時の始まりだったのです。だからイエスの時代の人々はすぐにでも終わりの日が来ると信じていたのです。しかしさすがに2000年も待たされると、神様を、何年も閉店セールをやっている店のように非難する人も出てきます。そこで、神様と私たちの時間の感覚には違いがあるということを知らなければなりません。この事について旧約聖書は「千年といえども御目には昨日が今日へと移る夜の一時にすぎません。」(詩 90:4) と言い新約聖書は「愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。」(2ペト 3:8) といっています。神様はいついつまで待ちなさいとは言わず、この終わりの時を私とともに歩みなさいと言われるのです。
 私たちが感じるギャップは時間だけではありません。イエスがすでに来られたという事実と、それなのに世界は悪に満ちているというギャップもあります。それはイエスが世に来られたということと、一人一人の心に迎えられたかということの違いから生じているのです。それでも“神に従う人は信仰によって生きる” 神に従う人、それは自分の心にイエスを主と受け入れた人のことです。そのような人々は自らを神の神殿として神とともに歩みます。
パウロはエフェソの信徒への手紙の中で「
キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」(エフェソ2:21, 22)希望はキリスト・イエスを知り、キリストに従って生きることの中に見つけることができます。


2) あなたの心に希望はあるか? (3:17-19)

いちじくの木に花は咲かずぶどうの枝は実をつけずオリーブは収穫の期待を裏切り田畑は食物を生ぜず羊はおりから断たれ牛舎には牛がいなくなる。しかし、わたしは主によって喜びわが救いの神のゆえに踊る。わたしの主なる神は、わが力。わたしの足を雌鹿のようにし聖なる高台を歩ませられる。

 社会がひどい、人々がひどいとがっかりしている暇はありません。そのままでは世界は全く変わりません。私たちは少しづつ世界を変える事ができます。自分の心にイエスに主として来ていただくことによって、世界を自分という人間から変えることが出来ます。自分の欲望を神様のように礼拝し、欲望を満たすことに忠実であれば世界は変わりません。しかし、あなたがイエスと共に歩み始めるなら、周りがめちゃくちゃでも自分は神様の目にかなって、喜んで生きることが出来ます。イエスはクリスマスに来られて、全ての人が神様との関係を回復し、どんなことがあっても力強く生きることができる道を備えてくださいました。つまり、心に希望があるかという問いは、あなたの心にイエスは住んでおられるか?という問いなのです。私たちはその喜びを毎年お祝いします。イエスが来てくださったことが自分の人生の中でもっとの重要で素晴らしいことだと思っているからです。あなたの心に希望はありますか?それがまだないなら、イエスを主として生きる決心をして下さい。一足先にイエスを信じ、従ってゆく決心をしたわたしたちは、このアドヴェントに、まだイエスを心に主としてお迎えしていない皆さんが心にイエスを迎えられるように祈っています。本当のクリスマスの喜びを味わっていただきたいのです。


メッセージのポイント
イエスの誕生の数百年も前から、小さい者、弱い者、貧しい者の苦しみ、悲しみは変わらずにありました。預言者たちは、その嘆きを神さまに投げかけます。預言者への神様の答えは、「待て」「神に従う者は信仰によって生きる」「主はおられる」です。数百年待ってイエスが来ても、その後、見たところ一向に変わらないようにも思える世界の中で、希望は確かに私たちに与えられています。主がおられるので、主に対する信仰によって、ここで希望を持って生きることができます。

話し合いのために
1)世界は良くなりつつありますかそれとも悪くなりつつありますか?
2) なぜイエスはあなたの希望となりうるのですか?

子供達のために
イエスがどれほど人々から待ち望まれていたか、ということを子供たちに出来るだけ実感させてください。イエスを主と信じ従う人が増えれば増えるほど、世界は神様が望まれる、人間にとっても平和で住みやすい者となること。それには自分がイエスに従ってゆくことからはじめなければならないと伝えてください。