<メッセージノート>

2016/2/7
今を生きるための律法
(ルカによる福音書16:16-31)

池田真理


A. 律法とイエス様

1. 律法は廃止されたのではない (16-17)

16 律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている。17 しかし、律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消えうせる方が易しい

マタイ5:17 「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」


2. 律法の心 (18)

18 妻を離縁して他の女を妻にする者はだれでも、姦通の罪を犯すことになる。離縁された女を妻にする者も姦通の罪を犯すことになる。」

ローマ13:8-10 互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。



B. 今をどう生きるか


1. 天国と地獄 (19-26)

19 「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。20 この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、21 その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。22 やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。23 そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。24 そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』25 しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。26 そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』


2. 律法に聞くとは (27-31)

27 金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。28 わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』29 しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』30 金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』31 アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」

ガラテア5:13-14 兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。


メッセージのポイント
律法は、私たちが互いに愛し合うために、神様が与えてくださったものです。それは形だけ守っていればいいのではなく、心で受け止めておけばいいのでもありません。神様に仕え、他人を自分のように愛するということを、今の生活の中で具体的に行動していくことです。それは自分の罪との戦いでもありますが、そのためにこそイエス様は死なれたのだということを覚えて、愛し続けましょう。

話し合いのために
1) この金持ちの決定的な誤りはなんですか?
2) 31節はどういう意味ですか?

子供達のために
律法とイエス様の関係を説明するのは難しいので、金持ちとラザロの話だけにしていいと思います。でも天国と地獄の話が中心にならないようにお願いします。この話で最も重要なのは、この金持ちがラザロが死んだのは自分が彼を助けなかったせいだと気が付いていない点です。だから、30節と31節の金持ちとアブラハムの主張は平行線になってしまうし、金持ちは相変わらずラザロを自分に仕えさせようとしています。それはずっとこの人が自分さえよければいいと思っていたからです。自分さえよければいいと思っている限り、「隣人を自分のように愛する」ことはできません。自分しか愛していないからです。私たちはみんなこの金持ちと同じ傾向(罪の性質)を持っています。イエス様はそんな私たちのために死なれました。それぞれの状況の中で「隣人を自分のように愛する」ということを考えてみてください。

参考箇所
ローマ2:17-29 17 ところで、あなたはユダヤ人と名乗り、律法に頼り、神を誇りとし、18 その御心を知り、律法によって教えられて何をなすべきかをわきまえています。19‐20 また、律法の中に、知識と真理が具体的に示されていると考え、盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負しています。21 それならば、あなたは他人には教えながら、自分には教えないのですか。「盗むな」と説きながら、盗むのですか。22 「姦淫するな」と言いながら、姦淫を行うのですか。偶像を忌み嫌いながら、神殿を荒らすのですか。23 あなたは律法を誇りとしながら、律法を破って神を侮っている。24 「あなたたちのせいで、神の名は異邦人の中で汚されている」と書いてあるとおりです。25 あなたが受けた割礼も、律法を守ればこそ意味があり、律法を破れば、それは割礼を受けていないのと同じです。26 だから、割礼を受けていない者が、律法の要求を実行すれば、割礼を受けていなくても、受けた者と見なされるのではないですか。27 そして、体に割礼を受けていなくても律法を守る者が、あなたを裁くでしょう。あなたは律法の文字を所有し、割礼を受けていながら、律法を破っているのですから。28 外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。29 内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。

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<メッセージ全文>

2016/2/7
今を生きるための律法
(ルカによる福音書16:16-31)

池田真理

 今日はユダヤ教の律法Jewish Lawがよく出てきます。「律法 the Law」と聞いて、皆さんはどんなイメージを持っているでしょうか?おそらく、教会に通っている期間が長ければ長いほど、悪いイメージを持っていらっしゃるんじゃないかと思います。律法と聞いて連想するのは律法主義legalismです。律法主義というのは、ルールを守ることばかりにこだわること、形式にこだわって中身を忘れることを指します。具体的に言えば、クリスチャンなら日曜日は必ず教会に行くべきだとか、お酒、タバコは禁止だとか、いろいろなルールを作って人を縛ることです。「クリスチャンなら、〜しなければいけない、〜すべきだ」という言い方をするのが特徴です。その定義が教会によって違うのが難しいところですが、どの教会も、律法主義に陥らないように気をつけましょう、と教えてきました。大切なのは律法よりも信仰、行いよりも心だと教えてきたのです。特に宗教改革以降この傾向は強くなりました。でも、この律法主義という言葉は聖書のどこにも出てきません。律法主義者ligalistも出てきません。(律法学者teachers of the lawはよく登場します。)理由は簡単です。聖書は律法を悪いものとはとらえておらず、律法を守ることは良いことだとしているからです。イエス様もパウロも、律法を良いものとして守り続けるように教えています。16-17節を読みます。

A. 律法とイエス様

1. 律法は廃止されたのではない (16-17)

16 律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている。17 しかし、律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消えうせる方が易しい

 少し前置きの説明をします。イエス様はユダヤ人に向かって話しているので、ユダヤ人なら当然持っていた知識を前提に話しています。私たちはユダヤ人ではないので、その前提を注意して読まなければいけません。ここで言われている「律法と預言者」という言い方もそうです。この言い方は新約聖書でよく出てきますが、旧約聖書全体を指しています。当時はもちろん新約聖書はまだなく、イエス様もパウロも弟子たちも、聖書と言ったら旧約聖書のことを指しました。そして旧約聖書は、モーセが書いたとされる最初の5つの書と預言者の言葉が記録された預言書、それに詩篇や歴史書が加えられて成り立っています。でも、新約聖書がない当時、旧約聖書という呼び方もありません。かわりに律法と預言者という呼び方をすればユダヤ人には何のことだかすぐ分かったということです。あとでモーセと預言者という言い方も出てきますが、それも同じ意味です。
 さてイエス様の言葉に戻りましょう。イエス様は、律法と預言者はヨハネの時までだといい、確かに自分からは新しい時代の始まりだと宣言しました。でも同時に、それは決してそれまでユダヤ人が大切にしてきた旧約聖書を否定するわけではないといいます。そして、律法はその一文字も取り消されることはないと言われています。ということは、レビ記や申命記に書かれている細かな決まりごとを、一つ残らず私たちも守らなければいけないということになってしまいそうです。でもレビ記や申命記に書かれていることは、今の私たちに通じることもありますが、私たちにはおよそ直接関係ない、イスラエル民族の生活習慣に沿ったものも多くあります。(動物の捧げものをするとか、祭司が儀式を行う時の準備とか。)ではイエス様が何を言おうとされているかのヒントは、マタイによる福音書にあります。このルカ16:16-17と同じ言葉がマタイ5章にも記録されていますが、もう一文付け加えられています。マタイ5:17です。

マタイ5:17 「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」

イエス様は旧約聖書を取り消すために来たのではないと宣言しています。こう言わなければいけなかったのは、そう誤解されていたからです。イエス様は律法学者たちとよく衝突しました。それは当時一般的になっていた律法の解釈、旧約聖書の教えの解釈をめぐって、彼らと対立していたからです。だから、律法学者たちや彼らの教えに従っていた人たちにとって、イエス様はまるで律法を否定しているように思えました。でも本当は彼らの方が間違っていました。次に具体例が出てきます。


2. 律法の心 (18)

18 妻を離縁して他の女を妻にする者はだれでも、姦通の罪を犯すことになる。離縁された女を妻にする者も姦通の罪を犯すことになる。」

 突然関係ない話題が出てきたようですが、そうではありません。離婚・再婚の問題は、律法をどう解釈するかという上でとても重要な問題だったからです。このイエス様の解釈は、当時の常識からは考えられないものでした。当時、男性は理由をつければ妻と離縁することができました。極端な例では女性が美しくないというのも離婚の正当な理由になったそうです。そういう男性たちは、申命記で離縁状を書けば離縁していいと書かれているので、離縁状さえ書けば律法を守っていることになると都合よく解釈していました。今では信じられないことですが、当時はそれほど男尊女卑の社会だったということです。その中でイエス様は違いました。女性に一方的に不利な状況に憤り、当時の常識を覆して新しい律法の解釈をしました。新しい解釈といってもそれが本来の正しい解釈です。もし正当な理由もないのに自分勝手な都合で妻を離縁するなら、それは律法違反であり、罪に当たると宣言しています。このことはマタイ19章に詳しく書かれています。
 律法学者たちが理解していなかったのは、本来の律法の良さです。最初にお話しした通り、この点を私たちも誤解しがちです。律法は、神様の愛に対する人間の応答です。選ばれた民であるイスラエルの人々に神様が与えた、神様の子であるしるしです。律法はもともと、神様に愛されるために守るものではなく、神様に選ばれるための手段ではありませんでした。律法を守れば神の子、破れば神の子でなくなるというものではなく、神の子であることは前提にあったのです。神様の愛を受けて互いに愛し合うこと、それが律法の心で、旧約聖書の教える精神です。パウロは愛が律法を完成させる、と言い換えています。ローマ13:8-10です。

ローマ13:8-10 互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。


 律法の心は、隣人を自分のように愛するということです。イエス様は、それが私たちの間で実現するために来てくださいました。私たちの間で律法の心が実現するとはどういうことか、続きを読んでいきましょう。


B. 今をどう生きるか


1. 天国と地獄 (19-26)

19 「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。20 この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、21 その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。22 やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。23 そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。24 そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』25 しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。26 そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』

 突然死後の世界のことが出てきました。天国と地獄なら、誰も地獄に行きたいとは願いません。でもイエス様は、このたとえ話を使って私たちを怖がらせて、地獄に行きたくなかったら行いを改めなさいと言われているのではありません。もしそれが言いたいなら、地獄がいかに恐ろしいか苦しいか、もっと恐ろしい描写をすればよかったはずです。それよりも、天国と地獄には決定的な隔たりがあって、両方を行き来できる者はいないということが際立っています。それは一度下された神様の裁きが簡単には覆らないことを意味しています。私たちはみな、生きている間にどう生きるかによって天国に行くのか地獄に行くのかが決まります。誰が天国で誰が地獄か、それは神様にしか分かりません。このラザロの生活は悲惨なものでした。でもラザロがどういう人物だったかは何も書かれていません。神様が自分を天国に迎えてくれると確信していたかもしれないし、反対に神様なんていないと絶望していたかもしれません。でも神様は彼を天国に迎えました。一方、この金持ちの方は、まさか自分が地獄に行くとは思っていなかったでしょう。このたとえ話の中ではラザロを無視した冷酷な人物としてしか描かれていませんが、家族や友人からは慕われていたかもしれません。何をどこまですれば天国に行けるのか、何をどこまでしなければ地獄に行かなければいけないのか、それは人間には決して分かりません。一人一人の状況の中で、神様だけが知っていて裁くことです。だから私たちにできることは、他人と自分の生き方を比べるのではなく、自分と神様の関係の中で今をどう生きるか決めることだけです。時間をどう使うか、お金をどう使うか。そんなことを考える余裕もないくらいの苦しみに出会うこともあります。何を辛いと感じるかも人によって違います。そこで私たちはイエス様と律法が与えられています。残りを読みましょう。


2. 律法に聞くとは (27-31)

27 金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。28 わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』29 しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』30 金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』31 アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」


 ここでアブラハムと金持ちの主張は平行線をたどっています。金持ちは、死人が生き返れば兄弟たちも悔い改めるはずだといい、アブラハムは死人が生き返っても彼らが律法に耳を傾けなければ変わらないだろうといいます。そしてこのたとえ話はここで終わりです。なぜ金持ちとアブラハムの主張は平行線のまま終わってしまっているのでしょうか。その理由こそが、金持ちが地獄に送られてしまった理由です。彼は自分の決定的な間違いに気が付いていません。さっき読んだたとえ話の前半でもこの後半でも、金持ちは生前と同じようにラザロのことを扱っています。生前は自分だけぜいたくな暮らしをし、ラザロを無視していました。地獄では、自分の苦痛を和らげるため、そして自分の家族を救うために、ラザロを使おうとしています。ずっと自分の都合が中心です。死人が生き返るという奇跡が起これば悔い改めますという考え方も、自分を神様よりも上に置いています。さらに、この金持ちはそもそもラザロがみじめな状態のまま死ななければいけなかったのは自分のせいであるということに気がついていないように見えます。自分の問題を棚上げにして、兄弟を救ってくれるように懇願する金持ちに、アブラハムは「彼らにはモーセと預言者がいる」と答えます。彼らが律法に聞く耳を持ちさえすれば、自分の間違いに気が付いて悔い改めるだろうということです。それはこの金持ちにも、このたとえ話を聞いているユダヤ人にも向けられている言葉です。「隣人を自分のように愛しなさい」という律法の心に従って生きなさいということです。そうすれば自分の罪に気が付くことができ、心の向きを神様に向けて生きることができます。
 私たちが律法に聞いて生きるというときには、もう少し解釈が必要です。私たちは2000年前にイエスという人物が死なれて三日後に生き返られたということを信じています。でも、イエスがよみがえられたということを信じる人もいれば信じない人もいます。一度信じても、いつの間にかその意味を見失ってしまう人もいます。イエス様の復活が意味を持たないとしたら、それはたとえ話の金持ちと同じ状態です。モーセと預言者に聞きなさい。律法に聞きなさい。なぜラザロは死ななければいけなかったのか。なぜイエス様は死ななければいけなかったのか。その問いに答えない限り、誰が生き返ってもその人の言うことを聞くことはありません。だから、私たちにとって律法に聞くとは、イエス様が死なれた理由を知るということです。そして、イエス様がしてくださったように、隣人を自分のように愛して生きるということです。もう一つパウロの言葉を紹介します。ガラテア5:13-14です。

ガラテア5:13-14 兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。

律法はイエス様に従って生きる生き方を教えてくれます。それはイエス様が私たちのために命を捧げてくださったように、愛に基づいて行動を起こしたり、それまでの行動を改めるという具体的なことです。あくまで律法は生き方の原則を教えてくれるのであって、律法は私たちを救うことはできません。どんなに私たちが良い行いをしても、それが私たちを救うのではありません。イエス様だけが私たちを救える方です。でも神様を愛し、人々を愛するという律法の心に従って行動するなら、それが私たちが神様の子とされているしるしになります。律法が神様の選ばれた民族イスラエルに与えられたのと同じように、愛に基づいた生き方が神様の子とされた私たちに与えられた生き方です。


メッセージのポイント
律法は、私たちが互いに愛し合うために、神様が与えてくださったものです。それは形だけ守っていればいいのではなく、心で受け止めておけばいいのでもありません。神様に仕え、他人を自分のように愛するということを、今の生活の中で具体的に行動していくことです。それは自分の罪との戦いでもありますが、そのためにこそイエス様は死なれたのだということを覚えて、愛し続けましょう。

話し合いのために
1) この金持ちの決定的な誤りはなんですか?
2) 31節はどういう意味ですか?


子供達のために
律法とイエス様の関係を説明するのは難しいので、金持ちとラザロの話だけにしていいと思います。でも天国と地獄の話が中心にならないようにお願いします。この話で最も重要なのは、この金持ちがラザロが死んだのは自分が彼を助けなかったせいだと気が付いていない点です。だから、30節と31節の金持ちとアブラハムの主張は平行線になってしまうし、金持ちは相変わらずラザロを自分に仕えさせようとしています。それはずっとこの人が自分さえよければいいと思っていたからです。自分さえよければいいと思っている限り、「隣人を自分のように愛する」ことはできません。自分しか愛していないからです。私たちはみんなこの金持ちと同じ傾向(罪の性質)を持っています。イエス様はそんな私たちのために死なれました。それぞれの状況の中で「隣人を自分のように愛する」ということを考えてみてください。

参考箇所
ローマ2:17-29 17 ところで、あなたはユダヤ人と名乗り、律法に頼り、神を誇りとし、18 その御心を知り、律法によって教えられて何をなすべきかをわきまえています。19‐20 また、律法の中に、知識と真理が具体的に示されていると考え、盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負しています。21 それならば、あなたは他人には教えながら、自分には教えないのですか。「盗むな」と説きながら、盗むのですか。22 「姦淫するな」と言いながら、姦淫を行うのですか。偶像を忌み嫌いながら、神殿を荒らすのですか。23 あなたは律法を誇りとしながら、律法を破って神を侮っている。24 「あなたたちのせいで、神の名は異邦人の中で汚されている」と書いてあるとおりです。25 あなたが受けた割礼も、律法を守ればこそ意味があり、律法を破れば、それは割礼を受けていないのと同じです。26 だから、割礼を受けていない者が、律法の要求を実行すれば、割礼を受けていなくても、受けた者と見なされるのではないですか。27 そして、体に割礼を受けていなくても律法を守る者が、あなたを裁くでしょう。あなたは律法の文字を所有し、割礼を受けていながら、律法を破っているのですから。28 外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。29 内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。