<メッセージノート>

2016/2/14
長老と奴隷
(テモテへの手紙1 5:17-6:2a)

永原アンディ

A. 教会の長老とは

1. なぜパウロはテモテに長老についてアドヴァイスしなければならなか
ったのか? (17-22)

17 よく指導している長老たち、特に御言葉と教えのために労苦している長老たちは二倍の報酬を受けるにふさわしい、と考えるべきです。
18 聖書には、「脱穀している牛に口籠をはめてはならない」と、また「働く者が報酬を受けるのは当然である」と書かれています。
19 長老に反対する訴えは、二人あるいは三人の証人がいなければ、受理してはなりません。
20 罪を犯している者に対しては、皆の前でとがめなさい。そうすれば、ほかの者も恐れを抱くようになります。
21 神とキリスト・イエスと選ばれた天使たちとの前で、厳かに命じる。偏見を持たずにこれらの指示に従いなさい。何事をするにも、えこひいきはなりません。
22 性急にだれにでも手を置いてはなりません。他人の罪に加わってもなりません。いつも潔白でいなさい。


2. 私たちはリーダーたちをどう尊敬すべきか? (23-25)

23 これからは水ばかり飲まないで、胃のために、また、度々起こる病気のために、ぶどう酒を少し用いなさい。
24 ある人々の罪は明白でたちまち裁かれますが、ほかの人々の罪は後になって明らかになります。
25 同じように、良い行いも明白です。そうでない場合でも、隠れたままのことはありません。



B. キリスト教は奴隷制に賛成? (6:1, 2a)

6:1 軛の下にある奴隷の身分の人は皆、自分の主人を十分尊敬すべきものと考えなければなりません。それは、神の御名とわたしたちの教えが冒涜されないようにするためです。
2a 主人が信者である場合は、自分の信仰上の兄弟であるからといって軽んぜず、むしろ、いっそう熱心に仕えるべきです。その奉仕から益を受ける主人は信者であり、神に愛されている者だからです。

1. 当時の奴隷制と教会


2. ここから私たちが学ぶべきこと

知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。(ローマの信徒への手紙6:16)
あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。(ローマの信徒への手紙6:22)


メッセージのポイント
このテキストは、私たちに教会のリーダーのあり方と教会の中での人間関係について教えてくれます。リーダーたちが神様の意思を注意深く聞いて教会を導いて行けるように祈ってください。私たちの社会には身分の差はありませんが、それ以外の違いは様々あります。様々な違いを超えて互いに尊敬しあうことのできるユアチャーチを作って行きましょう。

話し合いのために
1) 長老についての教えからあなたはどのようなことを学びましたか?
2) 奴隷についての教えはどうあなたの日常生活に活かせますか?

子供達のために
教会のリーダーたちの役割について紹介してください。(子供の教会では6章を読まなくてもいいです)神様がその計画に従って、イエスを信じている人々を集め役割を与えてご自身の働きをさせているのが教会です。みんなが働いていますが、その働きがうまく進んでいくように計画したり、導いたりするのがリーダーの役割です。具体的にはメッセージや教えをする、ワーシップティーム全体を導く、教会活動の計画を立てるなどの働きをしています。ユアチャーチのリーダーたちはよく話し合ってグループとして教会全体を導いています。リーダーたちがイエス様の願いをよく聞いてみんなを導けるよう祈ることを勧めてください。やがて未来の教会で子供達がリーダーとして、牧師として、イエスの働きことをイメージさせてください。<私をいつか神様の計画のために使ってください>と祈りましょう。

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<メッセージ全文>

2016/2/14
長老と奴隷
(テモテへの手紙1 5:17-6:2a)

永原アンディ

A. 教会の長老とは

1. なぜパウロはテモテに長老についてアドヴァイスしなければならなか
ったのか? (17-22)

17 よく指導している長老たち、特に御言葉と教えのために労苦している長老たちは二倍の報酬を受けるにふさわしい、と考えるべきです。
18 聖書には、「脱穀している牛に口籠をはめてはならない」と、また「働く者が報酬を受けるのは当然である」と書かれています。
19 長老に反対する訴えは、二人あるいは三人の証人がいなければ、受理してはなりません。
20 罪を犯している者に対しては、皆の前でとがめなさい。そうすれば、ほかの者も恐れを抱くようになります。
21 神とキリスト・イエスと選ばれた天使たちとの前で、厳かに命じる。偏見を持たずにこれらの指示に従いなさい。何事をするにも、えこひいきはなりません。
22 性急にだれにでも手を置いてはなりません。他人の罪に加わってもなりません。いつも潔白でいなさい。

 今では教会のリーダーたちの呼び方は教会によって様々です。エフェソの教会と同じように長老と呼ぶ教会もあります。イエスの十二人の弟子の中でペトロ、ヨハネ、ヤコブはリーダー的存在でしたが、イエスは彼らに特別な役割を与えたり、特別な呼び方をすることはありませんでした。イエスが天に帰られると、弟子たちは最初の教会を作り、自分たちを使徒 (an apostle) と名乗りました。そして使徒たちは自分たちが教えに専念するために、彼らの指導のもとに生活面を指導する七人のリーダーを任命したことが使徒言行録の6章に書かれています。この時点ではまだ、この人々に呼び名は与えられていません。それから数十年後、エフェソの教会には指導者であるテモテの下に複数の長老と呼ばれる人々がいました。
 エフェソの教会では、この長老と呼ばれた教会のリーダーに対する人々の態度に幾つかの問題があったようです。この時代には、教会のリーダの働きをすることで収入を得ていた人たちがいたようです。パウロはエフェソの教会で長老たちが十分な尊敬を受けていないと考えていたようです。長老が働きにふさわしい報酬を得ていない、長老を簡単に訴えようとする人がいたといったことが起こっていたようです。
またパウロは指導者テモテに対して、教会の人々とどのような関係を保つべきかを教えています。一つにはえこひいきしないことです。22節の「よく考えないで手を置いてはいけない」というのは、長老を選ぶときは慎重でなければならないということです。指導者を任命する時に、その人の頭に手を置く儀式を行っていたからです。指導者、長老にはより高い倫理性が求められていることも、若いテモテに知っておいてもらいたかったことだったのです。
 以上のことは、まだ始まったばかりの教会の中でも、いろいろな形で、人間の自己中心性によって神様を悲しませることがすでに起こっていたということを示しています。指導者であれ、長老であれ、そのような役割を持たない人であれ、それぞれの中にある自己中心性をコントロールしなければ、教会はキリストの体ではなくなってしまうのです。それはどの時代のどの国にある教会にも言えることです。そして私たちは、それが自分の力ではできないことを知っています。だから、イエスに求めます。神様の霊に満たされて初めて、本当にイエスに従ってゆくことができるからです。


2. 私たちはリーダーたちをどう尊敬すべきか? (23-25)

23 これからは水ばかり飲まないで、胃のために、また、度々起こる病気のために、ぶどう酒を少し用いなさい。
24 ある人々の罪は明白でたちまち裁かれますが、ほかの人々の罪は後になって明らかになります。
25 同じように、良い行いも明白です。そうでない場合でも、隠れたままのことはありません。


 23節は唐突な感じがしますが、パウロがテモテを心配している気持ちがよく表れています。テモテの体を心配しています。テモテは禁欲的にぶどう酒を口にしないと決めていたのかもしれません。24節、25節は私たちがそのまま受け取るべき言葉です。良いことも悪いことも神様はよくご存知なのだから、心配しないで与えられている働きに専念しなさいと励まされているのです。

 現代の教会には、どのようなリーダーシップが相応しいかという点で異なった考えがあります。イエスの弟子たちのように、神様であるイエス以外には役職を作るべきではないという人もいれば、初代の教会のように、使徒、監督、長老といった役職を持つべきだという人もいます。リーダーは有給の職であるべきだという考えもあれば、他に職を持ち教会からは報酬を得るべきではないという考えもあります。正解はありません。その教会が置かれている状況の中で、神様を愛する・互いに愛し合う・人々を愛するためにもっとも相応しい形を追求していればいいのです。その時代、文化にあった形でよく、状況が変われば、変ってもいいものです。同じ時代の同じ町にあっても、一つ一つの教会は、置かれている状況も、その役割も違っています。だから同じようである必要は全くありません。ただ、パウロがエフェソの教会を心配したように、人間中心の、そこにいる人々の自己中心の集合のような教会なら、それはキリストの体の一部とは言えません。それどころか、体全体に悪い影響を与えることにさえなりかねません。時々私たちは、本当に私たちは神様の教会であるか?言葉だけになっていないか自己点検してみる必要があります。ユアチャーチと名乗りながら、実質はアワチャーチだったとしたら、これほど恥ずかしいことはないでしょう。

 エフェソの教会ではテモテは監督的な役割で、聖書のメッセージを伝える役割も長老たちに委ねられています。ここでいわれている「御言葉と教えのために労苦している長老」はユアチャーチで言えば二人の牧師に当たるものだと考えてよいと思います。私たちは、尊敬とは、しなさいと言われてできるものではないことを知っています。私たちの考えでは、牧師やリーダーは教会の中の身分ではなく役割の違いに過ぎないと考えています。ユアチャーチのメンバーは、誰もが与えられている賜物に従い、神様の意思に従い自分の役割を果たします。だから、リーダーと言っても特定の職名はなく、リーダーとか牧師とか先生とか呼ばないことにしているのです。一応、牧師という言葉を使うのは、周りの人々や教会を混乱させないためです。

 そこで、この項の主題であるリーダーたちをどう尊敬すべきかということですが、ユアチャーチでは、お話ししてきた通り、何か特別な尊敬を表すことを求めることにはなりません。それはただ家族として尊敬し合いましょうということに尽きるのです。尊敬は、愛の一面です。愛と同様に、尊敬は人に求めるものではありません。自分から表すものです。イエスは私たちのために十字架にかかられました。私たちを大変尊重してくださったということです。そのイエスが私たちに「互いに愛し合いなさい」と勧めるのは「互いにリスペクトし合いなさい」ということでもあるのです。私たちは、その人が何かできるとか持っているからリスペクトできると考えがちですが、イエスは私たちの存在そのものをリスペクトしてくださいました。私たちもそうしましょう。


B. キリスト教は奴隷制に賛成? (6:1, 2a)

6:1 軛の下にある奴隷の身分の人は皆、自分の主人を十分尊敬すべきものと考えなければなりません。それは、神の御名とわたしたちの教えが冒涜されないようにするためです。
2a 主人が信者である場合は、自分の信仰上の兄弟であるからといって軽んぜず、むしろ、いっそう熱心に仕えるべきです。その奉仕から益を受ける主人は信者であり、神に愛されている者だからです。

1. 当時の奴隷制と教会

 新約聖書に登場する地域は全て、当時のローマ帝国の支配下にありました。当時のローマ帝国には市民、自由人、奴隷の三種類の人々がいました。そのうち市民は10%ほどしかいなかったようです。自由人と奴隷はローマに征服された外国人です。自由人は始め奴隷であった者が解放された階級ですが、市民に比べればその権利はかなり制限されたものでした。パウロは生まれながらのローマ市民として、その特権を活用してイエスをローマの支配地域全体で紹介する働きができたのです。ローマ帝国の奴隷制と言っても、時代によってかなり違っています。ここでお話ししているのはパウロ達の時代での様子です。この時代の奴隷は、私たちが想像するほど過酷な状態に置かれているわけではありませんでした。人権が認められていたわけではありませんが、主人が彼らを家畜のように扱うことを許されていたわけでもありません。教会に集うこともでき、自由民となれるチャンスは多かったのです。エフェソの教会の大半は奴隷と解放された奴隷である自由民そして少数のローマ市民とで成り立っていました。そのような状況の中でパウロは、教会の基本的な考え方として、それぞれが信じた時の身分のままでいること勧めています。(1コリント7:17-24)
このことは、聖書を解釈する時の重要な原則の良い例です。もしこのことが時代を超えて普遍的な神様の命令なら、公民権を勝ち取ったM.L.キングは神様の教えに背いたことになってしまいます。パウロが奴隷制度を否定しなかったのには理由があります。それは世の終わりがすぐに来るとパウロも含め誰もが信じていたからです。だから、自分の身分とか、結婚や再婚のついて悩んでいる暇があったら、どのような身分や状況にある人にもイエスを伝え、多くの人がイエスに従う人になってイエスが再び来られる備えをするべきだと考えてこう言ったのです。しかし今私たちの認識は変えられています。次の瞬間かもしれないが数千年後かもしれないこと、戦争や地震がその兆しと言っても、第一次、二次世界大戦や関東大震災程度のものではないこと、いつの時代にも偽預言者が現れてその日を予告し外れてきたことを知っています。それで私たちはそれがいつであっても後悔しないイエスに従う者としての生き方を身につけてきました。それは人にイエスがすべての人の主であることを伝えることと、イエスの教える愛と正義を社会に実現していくことの両方を自分のペースに従って進めてゆくということです。


2. ここから私たちが学ぶべきこと

 このようなわけで、聖書は虐げられている人をそのままにしておいてもいいと教えているわけではありません。私たちがここから知るべきことは、相手の社会的地位がどうであれ、相手を尊重することを神様が命じているということです。それは教会の中でも、外でも同じことです。神の前に平等であるからといって、自分より社会的地位のある人を軽く扱ってはいけません。同時に、自分より社会的に弱い立場に置かれている人々に、そのままで我慢しなさいといって手を差し伸べないでいてはいけないということです。そうすれば、その人とあなたとの関係がどのようなものであれ、あなたを通してイエスは彼らと出会うことになるのです。
 最後にもう一つ大切なポイントをお話しして終わりたいと思います。それは聖書が実際の奴隷とは別の意味で「奴隷」という言葉を使っていることです。実はこのことの方が私たちにとってより重要なことです。自分のこととして受け取るべきことだからです。ヨハネの福音書の8章に記されているエピソードを紹介します。イエスは、自分がアブラハムの子孫で自由な者だと思い込んでいた人々に対して「あなたがたを自由にする」と言いました。彼らは「私たちはだれの奴隷になったこともない」と反論したのです。それに対してイエスは「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷」と答えました。パウロはローマの信徒への手紙6章で、このイエスの言葉を解説しています。

知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。(ローマの信徒への手紙6:16)
あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。(ローマの信徒への手紙6:22)

 パウロは人が羨むローマ市民でありながら、自分は罪の奴隷だったと自覚しています。つまり人は誰でも罪の奴隷か神の奴隷かのどちらかでしかないというのです。最初にこの表現を知った時、私は「誰の奴隷にもなりたくないし、神の奴隷にもなりたくない」と反発を覚えたものです。イエスについて行こうと決心する前のことです。しかし神様に従わない限り、本当に自由になることはできないということを何度も思い知らされて、神の奴隷となることを決心したのです。最近、有名な元野球選手が覚醒剤の使用で逮捕されました。良くないと知りながら止めることができない、お金も名誉も家族も失ってもまだそれを求める。彼は覚醒剤の奴隷になってしまったわけです。ドラッグだけではありません。様々な欲望の奴隷になってしまう人もいます。イエスに従うことによって自由になりましょう。心配せずにイエスの奴隷になりましょう。イエスは誰よりも正しく、優しく、思いやり深く、守り導く主(主人)だからです。自分を主人と思い込んで、実は何かの奴隷として生きていたという後悔を、皆さんにさせたくありません。イエスに真剣に仕える者として生きてください。


メッセージのポイント
このテキストは、私たちに教会のリーダーのあり方と教会の中での人間関係について教えてくれます。リーダーたちが神様の意思を注意深く聞いて教会を導いて行けるように祈ってください。私たちの社会には身分の差はありませんが、それ以外の違いは様々あります。様々な違いを超えて互いに尊敬しあうことのできるユアチャーチを作って行きましょう。

話し合いのために
1) 長老についての教えからあなたはどのようなことを学びましたか?
2) 奴隷についての教えはどうあなたの日常生活に活かせますか?

子供達のために
教会のリーダーたちの役割について紹介してください。(子供の教会では6章を読まなくてもいいです)神様がその計画に従って、イエスを信じている人々を集め役割を与えてご自身の働きをさせているのが教会です。みんなが働いていますが、その働きがうまく進んでいくように計画したり、導いたりするのがリーダーの役割です。具体的にはメッセージや教えをする、ワーシップティーム全体を導く、教会活動の計画を立てるなどの働きをしています。ユアチャーチのリーダーたちはよく話し合ってグループとして教会全体を導いています。リーダーたちがイエス様の願いをよく聞いてみんなを導けるよう祈ることを勧めてください。やがて未来の教会で子供達がリーダーとして、牧師として、イエスの働きことをイメージさせてください。<私をいつか神様の計画のために使ってください>と祈りましょう。