<メッセージノート>

2016/2/28
究極の利得
(テモテへの手紙1 6:2b-10)

永原アンディ


A. 異なる教え


1. 異なる教えの本質 (2b-5)

2b これらのことを教え、勧めなさい。
3 異なる教えを説き、わたしたちの主イエス・キリストの健全な言葉にも、信心に基づく教えにも従わない者がいれば、
4 その者は高慢で、何も分からず、議論や口論に病みつきになっています。そこから、ねたみ、争い、中傷、邪推、
5 絶え間ない言い争いが生じるのです。これらは、精神が腐り、真理に背を向け、信心を利得の道と考える者の間で起こるものです。


2. パウロの警告 (9-10)

9 金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥ります。その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます。
10 金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいます。

(マタイ6:24) 「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」 



B. 信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道 (6-8)

6 もっとも、信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道です。
7 なぜならば、わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができないからです。
8 食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです。

(箴言 30) 7 二つのことをあなたに願います。わたしが死ぬまで、それを拒まないでください。
8 むなしいもの、偽りの言葉をわたしから遠ざけてください。貧しくもせず、金持ちにもせずわたしのために定められたパンでわたしを養ってください。9 飽き足りれば、裏切り主など何者か、と言うおそれがあります。貧しければ、盗みを働きわたしの神の御名を汚しかねません。


メッセージのポイント
わたしたちは、たった一つの例外を除いて何も持たずに世に生まれ、何も持たずに世を去ります。例外とは神様とあなたとの関係です。ところが富の誘惑は、あなたから神様との関係を奪う力を持っています。それは巧妙で危険なものです。もっともらしい教えの背後に偽教師の意図があるのです。それは自分の経済的繁栄を正当化するために人々にも繁栄を追求することを励ますものです。私たちは、聖霊の助けによって偽りの教えに騙されずに本当の利得を求めて行きましょう。

話し合いのために
1) 究極の利得とはなんでしょう?
2) 富を持つことと富に仕えることとではどう違うのでしょうか?

子供達のために
お金の良いところ、悪いところ、怖いところを考えさせてください。お金のことに夢中になりすぎるとどんなことが起こるでしょうか?神様を忘れてしまうということが起こります。お金を神様より大切にしてしまいます。お金がその人の神様のようになってしまいます。時間があれば箴言30章も紹介してください

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<メッセージ全文>

2016/2/28
究極の利得
(テモテへの手紙1 6:2b-10)

永原アンディ


A. 異なる教え


1. 異なる教えの本質 (2b-5)

2b これらのことを教え、勧めなさい。
3 異なる教えを説き、わたしたちの主イエス・キリストの健全な言葉にも、信心に基づく教えにも従わない者がいれば、
4 その者は高慢で、何も分からず、議論や口論に病みつきになっています。そこから、ねたみ、争い、中傷、邪推、
5 絶え間ない言い争いが生じるのです。これらは、精神が腐り、真理に背を向け、信心を利得の道と考える者の間で起こるものです。

 誰でも、私はキリスト教の牧師です、教師ですと名乗ることが出来ます。誰でも、自分たちを〇〇キリスト教会と名乗ることが出来ます。それではどこで彼らが正しいかどうかを判断できるのでしょうか?先週聞いた偽牧師、偽教師が、すでにこの時代には現れていました。当時の教会はまだ使徒信条を持っていません。三位一体の神様のことも、イエスの十字架と復活のことも明白な共通理解ではありませんでした。それどころか新約聖書は今の形のようにまとめられて完成していたわけではありません。パウロの影響を受けていない神学者はいませんが、パウロは自分を神学者とは考えてていなかったでしょう。彼はただなんとかして人々をイエスと正しく結びつけることに情熱を持っていたのです。私たちも同じです。できるだけ多くの人にイエスを知ってもらいたいし、イエスを知った人には彼から離れないでほしいというのが、私たちの願いです。異なる教えについて、パウロと同様に注意深くてありたいのです。私たちは、聖書以外の経典は認めないとか、イエスを神と認めるかとか、イエスの十字架の救いを信じるという点で正しい教えか異なる教えかを判断をします。私たちは神学的にはパウロより洗練されていると言えるでしょう。しかしパウロは私たちより本質的なところで偽牧師を見分けることをテモテに勧めました。私たちもこのパウロの基準も取り入れなければ、一見正しそうな「異なる教え」を見過ごしてしまうことになります。私たちは、神学的には問題なく見える教会の指導者が色々な形でイエスを悲しませる出来事を起こすことを知っています。正統的な教義と異端との比較研究も神学的には意味があるかもしれませんが、パウロは「異なる教え」の本質を鋭く見抜いています。それは「信心を利得の道と考える」ことだというのです。信仰を金持ちになるために用いるという考え方です。自分の経済的繁栄を正当化するために人々にも繁栄を追求することを励ます牧師たちが、韓国でも、シンガポールでも、アメリカでも巨大な教会を組織して栄華を誇りました。しかし、彼らの多くがイエス・キリストの名を汚しています。ある者は背任で、ある者は脱税で、ある者はセクシャルハラスメントで有罪となりました。日本の教会にも、彼らの影響を受けて同じ道を歩んでいる人々がいます。そのような人々に対してパウロは警告しているのです。


2. パウロの警告 (9-10)

9 金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥ります。その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます。
10 金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいます。

(マタイ6:24) 「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」 


 ここで警告されているのは、もうすこしだけお金に余裕があればいいのになあ、と思っているあなたではありません。そうではなく金持ちになろうと考えることの危険について言っているのです。しかも、社会全体の金持ち志向の人に言っているのでもなく、教会に属していて、イエスに従っているつもりの人々に対する警告です。そのままでは信仰から迷い出てしまいますよ、という警告です。パウロはイエスの 「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(マタイ6:24)という言葉を知っていたはずです。どちらかしかないのです。先にお話ししたような人々にしても初めから、お金持ちになりたくて信仰を持ったり、牧師になったりしたわけではありません。ただイエスに従って歩みたいという思いが、いつの間にか自分が高い収入を得ること、教会が大きくなること、立派になること、賞賛を得ることに変わってしまったのです。その結果、信仰から迷い出て、ひどい苦しみを受けることとなってしまったのです。このことで一番心が痛むのは、彼らが苦しむだけでなく人々をつまずかせることです。先週のメッセージを覚えていますか?自分の言動で誰かにイエスを嫌いにさせる事ほど神様の怒りに触れることはありません。悪魔の誘惑は巧妙です。あなたがお金持ちになれば、注目され、人をイエスに招くのに役立つと思い込ませます。景気のいい話はみんな大好きです。それで一時は人やお金が集まるかもしれません。しかし最終的にはパウロの警告通りになってしまうのです。
 さて心が重くなる話はここまでです。教会や牧師がこのように方向を誤ることがあるということは知っておくべきですが、私たちが今日、もっとずっと大切なことを残りの部分から学びます。6-8節を読みましょう。


B. 信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道 (6-8)

6 もっとも、信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道です。
7 なぜならば、わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができないからです。
8 食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです。


 パウロはこの部分で同じ「利得」という言葉を使って全く違うことを教えようとしています。自分の欲を満たそうと貪欲にならずに与えられているものを感謝し満足することを通して、大きな「利得」を得られるというのです。得られるのは金銭ではない何かのようですが、私たちには素晴らしいものがさらに与えられるというのです。私たちの道は「貪欲」でもなく「禁欲」でもありません。ここに書かれているように、私たちは何も持たずに世に生まれました、生まれた途端に裕福な家の子供として多くのものを持つ人もいれば、負債の方が多い親の元に生まれる子供もいます。身寄りなく生まれる子供もいます。生まれる国によっても大きな差があります。人生の長さも様々です。何も持たずに世を去るということは、多くのものを子孫に残す人もいれば、何も残さず世を去る人もいます。これらのことを考えると、神様はなんて不公平に私たちを扱うのだろうと思ってしまうかもしれません。しかし、それは思い違いです。誰にでも与えられているものがあるのです。それは、生まれる前も、この世界に生きている間も、この世界から去った後もあり続ける神様との関係です。それを敵対的な関係にするのか、友好的な関係にするのか、親子のように親密な関係にするのかは私たちの意志にかかっています。私たちと神様との関係を親密なものにしてくれるのはイエスです。イエスはそのために「私に従ってきなさい」と言われました。イエスに従って行きましょう。この地上だけで過ぎ去るものを求めるのではなく、永遠に続く神様との親密な関係を求めましょう。それがあれば、この地上で持ちたいけれども持てないもの、持っているけれど奪われてしまうかもしれないものについての悩みは解消されるのです。私たちの利得はそれだけではありません。私たちが必要以上に求めないならば、必要なのに、食べるもの、着るもの、住むところのない人にもっと手を差し伸べることができます。イエスがしたように愛することができます。それはあなたをイエスともっと親しくするでしょう。箴言は、今日のテーマについて、私たちが神様に願うべき言葉を教えてくれています。これを今日の私たちの祈りの言葉としましょう。

(箴言 30) 7 二つのことをあなたに願います。わたしが死ぬまで、それを拒まないでください。
8 むなしいもの、偽りの言葉をわたしから遠ざけてください。貧しくもせず、金持ちにもせずわたしのために定められたパンでわたしを養ってください。9 飽き足りれば、裏切り主など何者か、と言うおそれがあります。貧しければ、盗みを働きわたしの神の御名を汚しかねません。


イエスキリストの名によって祈ります。アーメン




メッセージのポイント
わたしたちは、たった一つの例外を除いて何も持たずに世に生まれ、何も持たずに世を去ります。例外とは神様とあなたとの関係です。ところが富の誘惑は、あなたから神様との関係を奪う力を持っています。それは巧妙で危険なものです。もっともらしい教えの背後に偽教師の意図があるのです。それは自分の経済的繁栄を正当化するために人々にも繁栄を追求することを励ますものです。私たちは、聖霊の助けによって偽りの教えに騙されずに本当の利得を求めて行きましょう。


話し合いのために
1) 究極の利得とはなんでしょう?
2) 富を持つことと富に仕えることとではどう違うのでしょうか?

子供達のために
お金の良いところ、悪いところ、怖いところを考えさせてください。お金のことに夢中になりすぎるとどんなことが起こるでしょうか?神様を忘れてしまうということが起こります。お金を神様より大切にしてしまいます。お金がその人の神様のようになってしまいます。時間があれば箴言30章も紹介してください