<メッセージノート>
おさえきれない喜び (ルカによる福音書17:11-21, 18:15-17)
池田真理
A. 汚れているとされた人々 (17:11-14a)
17:11 イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。12 ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、13 声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。14 イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。
B. 信仰によって救われる
1. 喜びがこの人を救った (17:14b-19)
彼らは、そこへ行く途中で清くされた。15 その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。16 そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。17 そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。18 この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」19 それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」
2. 乳飲み子のような信仰 (18:15-17)
18:15 イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。弟子たちは、これを見て叱った。16 しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。17 はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」
C. 神の国は私たちの間にある (17:20-21)
20 ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。21 『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」
メッセージのポイント
自分の体が癒されたと分かっても、イエス様の元に急いで喜んで戻って来たのは10人のうち1人だけでした。この人はイエス様を通して、病気が癒されただけでなく、神様が自分を愛しておられるということを感じていました。その実感がこの人を大声で賛美させ、飛んで帰ってきてイエス様に感謝せずにはいられないようにしました。イエス様を信じるということは、このおさえきれない喜びを心に与えられるということです。
話し合いのために
1) あなたの心には尽きない喜びがありますか?それはどのように与えられていますか?
2) 乳飲み子のような信仰とはどのような信仰ですか?
子供達のために
イエス様の言われる「救い」というのは病気の癒しだけではありません。イエス様は、この人が喜んで引き返してきたところにこの人の信仰を見ています。この人はそうせずにはいられなかったのですが、それほど深くこの人は神様の力と愛を感じていたということです。神様にありがとうと言わずにはいられない経験を、子供達はしているでしょうか?神様の前に、素直に嬉しいことと悲しいことを打ち明けていいと励ましてください。
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<メッセージ全文>
おさえきれない喜び (ルカによる福音書17:11-21, 18:15-17)
池田真理
ここのところしばらくは、イエス様が言葉によって人々に教える箇所が続いていました。でも、今日は久しぶりにイエス様が人々の病気を癒したという記録を読んでいきます。また、今日の箇所では久しぶりにイエス様たちがエルサレムに向かう途中だったということも言われています。ルカ福音書の中では、イエス様たちは10章のあたりからずっとエルサレムに向かう旅の途中なので、今日は久しぶりにそのことを読者に思い出させようとしていると言えるかもしれません。でももうすぐ旅を終えてエルサレムに入ります。今日が17章ですが、19章でイエス様はエルサレムに入ります。エルサレムに入るということは、十字架で苦しんで死なれるという運命に近づくということです。イエス様はその前に、旅の途中で多くの奇跡を行いました。それは、イエス様を通して神様が私たちに与えようとしている神の国がどういうものか示すためです。それはイエス様の言葉で言うとこうです。「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。The blind receive sight, the lame walk, those who have leprosyare cleansed, the deaf hear, the dead are raised, and the good news is proclaimed to the poor. 」(ルカ7:22)イエス様がエルサレムで成し遂げようとされていたことと、イエス様がその前に教えられたこと、行ったことは全てつながっています。私たちももうすぐ、イエス様の十字架の出来事と復活、イースターをお祝いする時期にいます。今日は、その全てが私たちに意味していることが何かを、もう一度確かめていきたいと思います。最初に11-14節の前半です。
A. 汚れているとされた人々 (17:11-14a)
17:11 イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。12 ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、13 声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。14 イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。
皮膚病というのは昔から世界中で人々に恐れられていました。ここには日本語で「重い皮膚病」と言われていますが、これは直訳というより意訳です。原語では、英語で言われているLeprosy、昔らい病と言われ、今ではハンセン病と言われる病気の名前が使われています。でも、イエス様の時代の人々は、いろいろな重い皮膚病を指してハンセン病という言葉を使っていたようなので、日本語の意訳が間違っているわけではありません。いずれにせよ、ここに登場する重い皮膚病の人たちは、人々から恐れられ、隔離されていたことが分かります。つい最近まで日本でもハンセン病患者の人たちが療養所と呼ばれる収容所に隔離されていたのと同じです。12-13節で、彼らは「遠くに立ち止まったまま」、声を張り上げてイエス様に助けを求めたと言われています。彼らは健康な人に近付くことが許されていないために、遠くから叫ぶしかありませんでした。彼らの苦悩を理解するためには、旧約聖書のレビ記13章が役に立ちます。そこには、皮膚病にかかった場合の決まりが書かれています。一言で言うなら、治るまでは普通の人たちの生活圏から追放されるというものです。これは単に病気の伝染を防ぐためだけではなく、「汚れ」という考え方が背景にあります。皮膚病がある間は汚れているという考え方です。治ったという判断が下されて初めて、社会生活を取り戻すことができました。治らなければ、ずっと社会的に排除され、汚れた者として孤立して生活しなければいけませんでした。(レビ記13:45-46)重い皮膚病の人たちは、病気で苦しむだけではなく、社会的な差別と孤立でも苦しまなければいけなかったということです。
さて、彼らの叫びを聞いたイエス様は、私たちにはちょっと不思議に思える答えを返しています。「祭司たちのところに行って、体を見せなさい。」その場ですぐに治して下さればいいのに、回りくどい方法を取っているように思えます。でも、レビ記13章を読むと、これが皮膚病患者にとって重要なことだったことが分かります。祭司は、決して病気の治療をするわけではありません。祭司の役割は、患者の体を見て治っているか治っていないかを判断し、治っていれば清いと宣言し、治っていなければ汚れていると宣言することです。清いと宣言されれば、清めの儀式を行い、社会生活に復帰できます。反対に汚れていると宣言されれば、引き続き隔離されます。つまり、皮膚病患者の運命は祭司の一言によって左右されると言っていいということです。この10人の患者たちもかつて祭司たちに「汚れている」と宣言されたはずで、だから遠くから叫ぶしかありませんでした。その彼らに「もう一度祭司たちに体を見せに行きなさい」と言うことは、清いか汚れているかの宣告をもう一度受けに行きなさいということです。彼らがどうなったのか、続きを読んでいきましょう。19節までです。
B. 信仰によって救われる
1. 喜びがこの人を救った (17:14b-19)
彼らは、そこへ行く途中で清くされた。15 その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。16 そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。17 そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。18 この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」19 それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」
彼らが祭司たちのところに到着する前に、彼らは全員癒されました。そのうち喜んでイエス様の元に急いで帰ってきたのは10人のうち1人だけだったといいます。でも、戻ってこなかった9人について、彼らは感謝もしないでどこかに消えてしまった薄情者だと言い切ることはできません。彼らはおそらく癒されたことに気が付いて、そのまま祭司たちのところに行ったのだと思います。祭司から「あなたは清い」という言葉をもらい、長い間会えなかった家族や友人の元に戻れることが、彼らが何より切実に待ち望んでいたことだったからです。また、イエス様もそうするように(祭司たちのところに行くように)言いました。イエス様の元に戻ってきて感謝するのは、祭司に清めの儀式を全てやってもらってからでも遅くないと思ったとしても無理もありません。
ではなぜ、この一人のサマリア人はその前に戻ってきたのでしょうか?それは今読んだところに書かれてありました。この人は大声で神様を賛美しながら戻ってきて、イエス様の足元にひれ伏して感謝した、とあります。この人は、自分の身に起こったことに感動しすぎて、こうせずにはいられなかったということです。清めの儀式をしなければ正式に治ったとは言えないということは分かっていましたが、そんな決まりに従っていられないくらい、この人は興奮していました。それは、ただ自分の病気が治っただけでなく、自分は神様に覚えられていて、愛されているんだということを実感した喜びです。
イエス様は、喜びを抑えきれずに飛んで戻ってきたこの人を喜びました。そして、「あなたの信仰があなたを救った」と言われています。英語では「あなたの信仰があなたを良くした(治した)」と言われていますが、他の9人も病気を癒されていることを考えると、ここは信仰によって病気が癒されたという以上に、信仰によってあなたの存在が救われたと解釈した方が良さそうです。この人の信仰とは、抑えきれない喜びです。神様に癒されたこと、愛されていることを知って、大声で賛美せずにはいられなかった喜びです。私たちの信仰も、この人の信仰のように抑えきれない喜びだと言えるでしょうか?少し後の18:15-17も読んでみましょう。
2. 乳飲み子のような信仰 (18:15-17)
18:15 イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。弟子たちは、これを見て叱った。16 しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。17 はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」
イエス様に触れていただくことを、子供のように求めなさいと言われています。それも、乳飲み子たち、赤ちゃんたちのようにです。赤ちゃんは、悲しいときに泣き、楽しいときに笑い、お腹がすけば泣き叫びます。それを大人が人前ですればもちろん問題になってしまいますが、神様の前では私たちはそうしていいし、そうしなさいと言われています。そうしなければ、神様の国には入れない、神様とは関係なくなってしまうとまで言われています。私たちは、神様の前で赤ちゃんのように喜怒哀楽を素直に表現して、神様を求めることができます。私たちがそうすることによって、神様は喜んで神様の国を見せてくださるはずです。それは、この重い皮膚病の人にとっては病の癒しでした。でも、神様の国は病の癒しに限られたことではありません。誰にでもあてはまるのは、神様に覚えられて愛されていると知ることです。どんなときでも、神様が私たちを見離すことはありません。そのことを私たちが心に受け止めるとき、私たちはこの重い皮膚病の人が癒されたように神様を賛美せずにはいられません。それはたとえ具体的な状況が変わらなくても、不思議と私たちの心に与えられる喜びでもあります。今こういう問題があって、どう解決して良いか、解決できるのか分からないけれど、それでもあなたは私を愛して下さっていて、あなたについていくのが私の願いです、と言える心です。それはただ、神様の前に赤ちゃんのように無防備になって、率直に自分の思いを打ち明けることによって神様が与えてくださる信仰です。私たちが子供のように神様を求めるとき、神様は必ず私たちに触れて答えてくださいます。それが私たちの中で光となって、どんなときでも神様を愛する喜びを私たちの内に起こします。それによって私たちは救われます。
最後に17章の続きの2節を読んでいきたいと思いますが、この2節によって、今日これまでお話ししてきたことが個人の信仰の問題だけではないことが分かります。神様を愛する喜びというのは、「私と神様」の縦の関係で終わるのではなく、「私たち」という横の関係にもあるということです。読んでいきましょう。
C. 神の国は私たちの間にある (17:20-21)
20 ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。21 『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」
今日最初にお話ししたように、イエス様は奇跡を行うことによって神様の力を示し、神の国がどういうものかを教えようとしました。神の国は、目の見えない人は見え、耳の聞こえない人は聞こえ、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病の人は癒され、貧しい人には福音が告げ知らされるところです。それは、神様の力によって人々が神様との関係を回復し、病気を癒されて、罪を赦されて、神様の愛に生きるということです。私たちがそのように神様に愛されて神様を愛して生きるとき、神様の愛は私たちを通して他の人にも運ばれます。イエス様のように病気を癒すことはできないかもしれませんが、「あなたも神様に愛されている」と言葉と行動によって伝え、その人を生かすことができます。神様に愛され、神様を愛する喜びは、私たちを内側から変えて、他の人たちも愛さずにはいられないようにします。そうして、神様の国は私たちの間に実現されます。
最後に、これまで触れなかったポイントに触れておきたいと思います。それは、このイエス様の元に喜びのあまりかけ戻ってきた人は、サマリア人だったという点です。サマリア人はもともとイスラエル民族ですが、長い歴史の中でユダヤ人とは区別されて、ユダヤ人からは神様の恵みから外れてしまった人たちとして見下されていました。そのサマリア人が、このお話の中では10人のうち1人だけ戻ってきた人物です。そしてイエス様に「あなたの信仰があなたを救った」と言われています。つまり、このお話は、ただ病気の癒しについてではなく、外国人にも及ぶ神様の恵みについてのお話でもあるということです。だから、神様の国というのは、選ばれていなかったはずの人が選ばれ、愛されるに値しないと思われる人が愛されるところだということです。そんなところが私たちには与えられており、私たちの間で実現する、とイエス様は言われています。
イースターをむかえるにあたり、神様が私たちの心に、愛されている喜びと愛する喜びをさらに与えてくださいますように。イエス様の十字架が私たちの中でおさえきれない喜びとなりますように。それによって私たちの間で神様の国が現れますように。
メッセージのポイント
自分の体が癒されたと分かっても、イエス様の元に急いで喜んで戻って来たのは10人のうち1人だけでした。この人はイエス様を通して、病気が癒されただけでなく、神様が自分を愛しておられるということを感じていました。その実感がこの人を大声で賛美させ、飛んで帰ってきてイエス様に感謝せずにはいられないようにしました。イエス様を信じるということは、このおさえきれない喜びを心に与えられるということです。
話し合いのために
1) あなたの心には尽きない喜びがありますか?それはどのように与えられていますか?
2) 乳飲み子のような信仰とはどのような信仰ですか?
子供達のために
イエス様の言われる「救い」というのは病気の癒しだけではありません。イエス様は、この人が喜んで引き返してきたところにこの人の信仰を見ています。この人はそうせずにはいられなかったのですが、それほど深くこの人は神様の力と愛を感じていたということです。神様にありがとうと言わずにはいられない経験を、子供達はしているでしょうか?神様の前に、素直に嬉しいことと悲しいことを打ち明けていいと励ましてください。