<メッセージノート>

2016/3/20  棕櫚の日曜日 / 受難週 (ルカ 22:31-34, 54-62, John 17:9-11, 15-19, 21:15-19)
イエス様を裏切ったペテロ

池田真理


A. 信仰が揺らぐ時 (ルカ 22:31-34, 54-62)


31 「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。32 しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」33 するとシモンは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った。34 イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」

54 人々はイエスを捕らえ、引いて行き、大祭司の家に連れて入った。ペトロは遠く離れて従った。55 人々が屋敷の中庭の中央に火をたいて、一緒に座っていたので、ペトロも中に混じって腰を下ろした。56 するとある女中が、ペトロがたき火に照らされて座っているのを目にして、じっと見つめ、「この人も一緒にいました」と言った。57 しかし、ペトロはそれを打ち消して、「わたしはあの人を知らない」と言った。58 少したってから、ほかの人がペトロを見て、「お前もあの連中の仲間だ」と言うと、ペトロは、「いや、そうではない」と言った。59 一時間ほどたつと、また別の人が、「確かにこの人も一緒だった。ガリラヤの者だから」と言い張った。60 だが、ペトロは、「あなたの言うことは分からない」と言った。まだこう言い終わらないうちに、突然鶏が鳴いた。61 主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。62 そして外に出て、激しく泣いた。

1. 死に対する恐怖


2. 自己嫌悪


B. 十字架と復活がもたらしたもの

1. 赦し



2. 神様のものとなること (ヨハネ17:9-11,15-19)

9 彼らのためにお願いします。世のためではなく、わたしに与えてくださった人々のためにお願いします。彼らはあなたのものだからです。…11 わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。…15 わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。16 わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないのです。17 真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。18 わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。19 彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです。


3. 「行きたくないところに連れて行かれる」(ヨハネ 21:15-19)

15 食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。16 二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。17 三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。18 はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」19 ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。



メッセージのポイント
イエス様が人々に捕らえられた時、ペテロは恐怖からイエス様のことを裏切りました。でも自分がしたことに気が付いて大泣きしました。私たちも、死を恐れ、肉体的・精神的な苦しみを恐れることによって、イエス様を疑います。そして、信じたい気持ちと信じられない気持ちの間で自己嫌悪に陥り、神様を見失います。でも、神様はその全てを知っていて、私たちを赦すためにイエス様としてこの世界に来られ、十字架に架かってくださいました。そして復活によって死にも勝利し、私たちが死を恐れずに永遠に神様のものとして生きる生き方を与えてくださいました。

話し合いのために
1) あなたの信仰が揺らぐ(神様を遠くに感じる)のはどんな時ですか?
2) イエス様の十字架はあなたに何をもたらしましたか?

子供達のために
ペテロがイエス様を否定してしまったように、私たちもイエス様を疑う時があるということを教えてください。神様を信じ続けるというのは、先週のメッセージでもあったように、一生の戦いです。でも、イエス様は私たちの全てを知っていて、私たちの信仰がなくならないように祈り(ルカ22:32)、私たちを責めることなく、ただ共にいることを約束してくださいました。

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<メッセージ全文>

2016/3/20  棕櫚の日曜日 / 受難週 (ルカ 22:31-34, 54-62, John 17:9-11, 15-19, 21:15-19)
イエス様を裏切ったペテロ

池田真理


 今週は一年で最も大切な一週間です。イエス様の十字架を覚えて過ごす受難週です。イエス様の十字架がなければ、私たちの信仰はありません。そんな大切な週のメッセージをどうしようかと考えていましたが、この箇所にしました。たくさん聖書の箇所が載せてありますが、中心はルカ22章です。今日の主人公はペテロです。イエス様に「ついてきなさい」と言われて、漁師の仕事をやめて数年間にわたってイエス様と旅を共にしてきた、イエス様のお気に入りの弟子です。そのペテロが、イエス様が殺される危険を前にしてイエス様を裏切ってしまうというのが今日読む箇所です。ペテロにとってはとても不名誉で苦すぎる出来事ですが、このルカ福音書だけではなく新約聖書の全ての福音書に記録されています。それは、それほど不名誉で苦い記憶でも、十字架と復活によって神様の栄光を表すものになったからです。そして特にルカ福音書は、この出来事の中でのイエス様のペテロに対する愛情に注意を払って書かれていると言えます。ルカ22:31-34と54-62を続けて読んでいきましょう。

A. 信仰が揺らぐ時 (ルカ 22:31-34, 54-62)

31 「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。32 しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」33 するとシモンは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った。34 イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」

54 人々はイエスを捕らえ、引いて行き、大祭司の家に連れて入った。ペトロは遠く離れて従った。55 人々が屋敷の中庭の中央に火をたいて、一緒に座っていたので、ペトロも中に混じって腰を下ろした。56 するとある女中が、ペトロがたき火に照らされて座っているのを目にして、じっと見つめ、「この人も一緒にいました」と言った。57 しかし、ペトロはそれを打ち消して、「わたしはあの人を知らない」と言った。58 少したってから、ほかの人がペトロを見て、「お前もあの連中の仲間だ」と言うと、ペトロは、「いや、そうではない」と言った。59 一時間ほどたつと、また別の人が、「確かにこの人も一緒だった。ガリラヤの者だから」と言い張った。60 だが、ペトロは、「あなたの言うことは分からない」と言った。まだこう言い終わらないうちに、突然鶏が鳴いた。61 主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。62 そして外に出て、激しく泣いた。

 イエス様と一緒なら牢屋に入っても死んでもいい、と威勢良く言っていたペテロでしたが、結局イエス様の予告通り、イエス様を裏切ってしまいました。裏切ったと言っても、心が完全にイエス様を離れたわけではなく、イエス様のことを慕っているのに恐怖に負けてしまったというのが本当のところです。これは、私たちの姿です。私たちはイエス様に出会って、イエス様を信じる決心をして生涯を歩もうとしていますが、その途中で何度も挫折しそうになります。ペテロと同じように、イエス様がいれば何も怖くないと思える時もあれば、イエス様と共にいるのが苦しくなる時もあります。ついていきたいのについていけないと感じる時があります。それは私たちがペテロと同じように、自分の身に降りかかってくる危険に恐怖を感じるからです。


1. 死に対する恐怖


 この時ペテロが感じた恐怖は、自分もイエス様と同じ目に遭わされるのではないかという恐怖です。縛られて、鞭を打たれて、暴行を受ける。そして死刑にされる。肉体的な痛みと精神的な苦痛、そして最後には死が待っています。この時のペテロと全く同じ状況が私たちの身に起こることはないかもしれません。21世紀の日本では信教の自由が認められていて、キリスト教徒だから死刑になるということはないからです。でも、ペテロが感じていた死に対する恐怖は、時代も文化も関係ありません。自分の体が痛み、死ぬかもしれないという恐怖は、人間なら誰でも経験します。私たちの中にも、病と闘い、心と体の痛みと戦っている人たちがいます。それは先週のメッセージで「信仰の闘い」と言われたように、文字通り闘いだと思います。時には絶望してしまう時もあるかもしれません。私と神様は何も関係がない、と感じるかもしれません。でも同時に、そう感じた自分を責めます。ペテロが3回イエス様を否定して、そのことに自分自身が愕然として大泣きしたように。

 私たちは苦しみの中で、神様を信じたいと思いながら疑います。もっと力強くどんな時でも神様を信頼できればいいのに、そうできれば怖いものはないとも分かっているのに、できない時があります。イエス様が自分のために死んでくださったと知っていても、疑っている自分に愕然とします。神様の愛に比べて、自分はなんと情けなくて、愛されるに値しない人間かと思い知らされます。私たちはそういう時、ペテロと同じように、イエス様に背を向けて大泣きするしかありません。
 

2. 自己嫌悪

 私自身のことで言うなら、私は大きな病気をしたこともありませんし、死にそうな危険な目に遭ったこともありません。だから、自分が死ぬかもしれない、痛い思い、怖い思いをするかもしれないという恐怖がどんなものか、私には分かっていないかもしれません。実際に自分がそういう恐怖を持った時に信仰を保てるのか、それも分かりません。むしろ、自分がそんな目に遭っていないにもかかわらず、ちょっと想像しただけで簡単に絶望しそうになっているのが現実です。先週もふとテレビをつけて目に入ってきた映像があまりに悲しくて、思わず消してしまいました。それはたまたま世界の向こうの出来事でしたが、身近にも、目を背けたくなる悲しみや苦しみはたくさんあります。もし自分がそんな状況になったら、と考えると、果たして私はそれでも神様を信じていられるのだろうかと思います。だから、もし今皆さんの中で、死ぬことに対する恐怖、苦しみと痛みに対する恐怖と闘っている人がいるなら、私には偉そうに「それでも神様がいれば大丈夫だから信じてください」とは言えません。でも、イエス様の言葉には耳を傾けてもらいたいと心から願います。イエス様がペテロに言った言葉をもう一度読みます。31-32節です。

「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

イエス様はペテロが裏切ると分かっていました。言い換えるなら、イエス様は私たちが疑うことを知っています。だからペテロの信仰がなくならないように、私たちの信仰がなくならないように、先に祈ってくださいました。そして、それがイエス様が十字架にかからなければならなかった理由です。後半はこのことについてお話ししていきたいと思います。


B. 十字架と復活がもたらしたもの

1. 赦し


 イエス様はペテロが裏切る前から全てを知っていて、ペテロを赦し、受け入れていました。ペテロがイエス様のことを3回続けて知らないと言ってしまい、鶏が鳴いた時、イエス様はペテロの方に振り返って彼を見つめたとありました。その時のイエス様の表情はどんな表情だったのでしょうか。それは驚きでも怒りでもなかったはずです。イエス様はそうなると分かっていたのですから。イエス様のその顔は私たちにも向けられています。イエス様は、私たちの全てを知っていて、責めることなく受け入れてくださっています。私たちが自分の恐怖と疑いに負けたとしても、イエス様の憐れみは変わることも減ることもありません。ただ私たちを振り返って見つめておられるのです。それがイエス様の十字架と復活がもたらした、罪の赦しというものです。そしてさっきも読みましたが、イエス様は私たちの信仰がすぐに揺れることを知っていて、私たちの信仰がなくならないように祈って下さいました。その祈りの言葉がヨハネの福音書にあります。ヨハネ17章全体ですが、今日はその一部だけを読みます。


2. 神様のものとなること (ヨハネ17:9-11,15-19)

9 彼らのためにお願いします。世のためではなく、わたしに与えてくださった人々のためにお願いします。彼らはあなたのものだからです。…11 わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。…15 わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。16 わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないのです。17 真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。18 わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。19 彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです。


 このイエス様の祈りの中心は、私たちが神様のものとして、聖なるものとしてこの世界で生きていくように、というものです。私たちは誰も、自分の力だけで神様を信じられる人はいません。最初にイエス様を信じると決心した時も、私たちが自分でした決心ですが、それは神様が私たちがそうするように選んで呼んでくださったからです。だから、私たちは自分がそう実感するかしないかにかかわらず、その時からずっともう神様のものです。それが何を意味するか、16,18節にあります。私たちはこの世にいながら、この世に属していません。神様に属しています。私たちは神様によって期限付きでこの世界に派遣されているということです。私たちがこの世界で自分で持っていると思っているものは、実は全て神様から借りているものです。自分の体も、自分の命もです。大切な人から借りている大切なものを、私たちはどう扱うでしょうか。それを返す時が来るまで、一生懸命守ります。でも私たちは、それが借り物だということを忘れて、自分のものであるかのように錯覚し、自分勝手に扱います。そして、それが奪われることを恐れてしまいます。だから、イエス様が祈ってくださったように、もっと神様のものとなれるように求め続けましょう。自分のものだと思い込んでいるものを神様に委ねて手離すのは簡単なことではありません。苦しいことです。それは古い自分がイエス様と共に十字架につけられる痛みです。私たちは、すでに神様のものととされながらまだ完全にそうではなく、まだこの世界にいながらすでにこの世界に属していない、という葛藤の中を一生生きていきます。それは、疑っては信じ、信じては疑い、何回も打ち砕かれ、何回も愛するという繰り返しです。自分ではちっとも成長していないように感じますが、神様は成長させてくださっています。最後に、イエス様が復活された後のペテロとのやりとりを読んで終わりたいと思います。


3. 「行きたくないところに連れて行かれる」(ヨハネ 21:15-19)

15 食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。16 二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。17 三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。18 はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」19 ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。


 イエス様のことを3回否定したペテロですが、今度は3回「あなたを愛しています」と言うチャンスを与えられています。それはイエス様がペテロの心の傷を癒すためだったでしょう。そして最後に、ペテロがこれからどんな人生を歩むのか予告しています。「あなたは自分が行きたくないところへ連れて行かれる。」これは、これだけ聞くと災難の予告(悪い知らせ)のようですが、そうではなく、ペテロが大きく成長するという予告です。イエス様のために、自分の行きたくないところにも、自分の意思ではなくでも、行くようになるということです。イエス様のことを裏切って大泣きしたペテロは、イエス様のために人生をささげて、最後は殉教の死を遂げました。ペテロも決して完璧な人間ではありませんでした。聖書のある箇所ではパウロに手ひどく非難されているところもあります。ペテロも葛藤と失敗を続けながら、それでも神様によって確かに変えられて、殉教するまで信仰を強められていきました。私たちも、神様のものとなっていく旅を続けています。神様に「帰ってきなさい」と言われるまでは、今置かれている場所で、イエス様に従い続けましょう。


メッセージのポイント
イエス様が人々に捕らえられた時、ペテロは恐怖からイエス様のことを裏切りました。でも自分がしたことに気が付いて大泣きしました。私たちも、死を恐れ、肉体的・精神的な苦しみを恐れることによって、イエス様を疑います。そして、信じたい気持ちと信じられない気持ちの間で自己嫌悪に陥り、神様を見失います。でも、神様はその全てを知っていて、私たちを赦すためにイエス様としてこの世界に来られ、十字架に架かってくださいました。そして復活によって死にも勝利し、私たちが死を恐れずに永遠に神様のものとして生きる生き方を与えてくださいました。

話し合いのために
1) あなたの信仰が揺らぐ(神様を遠くに感じる)のはどんな時ですか?
2) イエス様の十字架はあなたに何をもたらしましたか?

子供達のために
ペテロがイエス様を否定してしまったように、私たちもイエス様を疑う時があるということを教えてください。神様を信じ続けるというのは、先週のメッセージでもあったように、一生の戦いです。でも、イエス様は私たちの全てを知っていて、私たちの信仰がなくならないように祈り(ルカ22:32)、私たちを責めることなく、ただ共にいることを約束してくださいました。