<メッセージノート>

2016/3/27 復活の日曜日のためのメッセージノート
魂に永遠の春が来た! 

永原アンディ


A. 誰もが過ごす魂の冬(詩篇31篇10−15)


主よ、憐れんでくださいわたしは苦しんでいます。目も、魂も、はらわたも苦悩のゆえに衰えていきます。命は嘆きのうちに年月は呻きのうちに尽きていきます。罪のゆえに力はうせ骨は衰えていきます。わたしの敵は皆、わたしを嘲り隣人も、激しく嘲ります。親しい人々はわたしを見て恐れを抱き外で会えば避けて通ります。人の心はわたしを死者のように葬り去り壊れた器と見なします。ひそかな声が周囲に聞こえ脅かすものが取り囲んでいます。人々がわたしに対して陰謀をめぐらし命を奪おうとたくらんでいます。主よ、わたしはなお、あなたに信頼し「あなたこそわたしの神」と申します。(詩篇31篇10−15)

神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。(1コリント 10:13b)

わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。(ヨハネ 10:27,28)



B. 絶望の先にある永遠の命(マルコによる福音書16:1-8)

安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。(マルコ16:1-8)


C. イエスと共に永遠の命を生きよう(ホセア書6:1-3)

「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、いやし我々を打たれたが、傷を包んでくださる。二日の後、主は我々を生かし三日目に、立ち上がらせてくださる。我々は御前に生きる。我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。主は曙の光のように必ず現れ降り注ぐ雨のように大地を潤す春雨のように我々を訪れてくださる。」(ホセア書6:1-3)



メッセージのポイント
イエスの復活は私たちを死の恐怖から解放します。自身の命も含めて、実は全てが神様からの預かり物であることを忘れて、私たちはあらゆるものを失うことに恐怖します。私たちは何も持たずにこの世に生まれ何も持たずに世を去りますが、私たち自身は神様のものであって、神様は私たちを決して捨てません。イエスの復活は、イエスが時間の制約も空間の制約も超えてイエスと共にいられること、すなわち「永遠の命」の始まりだったのです。

話し合いのために
1) あなたの一番大きな怖れは何ですか?
2) イエスの復活はあなた人生にどのような意味がありますか?

子供達のために
マルコとホセアを紹介して、年代に応じて以下のことをつたえてください。
強いこと、悲しいこと、苦しいことを、私たちは皆一人一人違った形で持っています。子供も大人もそうです。自分だけでそれらに耐えられる人はいません。けれどもイエスがおられます。十字架の死から三日目によみがえられ、今は目に見る事は出来ませんが私たちと共におられます。私たちには永遠の命が与えられています。それは、この世界に生きている間はもちろんの事、この世界から去った後もずっと続くものです。

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<メッセージ全文>

2016/3/27 復活の日曜日のためのメッセージノート
魂に永遠の春が来た! 

永原アンディ

A. 誰もが過ごす魂の冬(詩篇31篇10−15)

主よ、憐れんでくださいわたしは苦しんでいます。目も、魂も、はらわたも苦悩のゆえに衰えていきます。命は嘆きのうちに年月は呻きのうちに尽きていきます。罪のゆえに力はうせ骨は衰えていきます。わたしの敵は皆、わたしを嘲り隣人も、激しく嘲ります。親しい人々はわたしを見て恐れを抱き外で会えば避けて通ります。人の心はわたしを死者のように葬り去り壊れた器と見なします。ひそかな声が周囲に聞こえ脅かすものが取り囲んでいます。人々がわたしに対して陰謀をめぐらし命を奪おうとたくらんでいます。主よ、わたしはなお、あなたに信頼し「あなたこそわたしの神」と申します。(詩篇31篇10−15)


 あなたの魂はどのような季節にあると感じていますか?何人かの方は厳しく辛い冬のようだと答えるだろうことを知っています。イエスの十字架を心に深く思いながら過ごしたレント、そして受難週、私たち夫婦も魂の冬を感じながら過ごしました。多くの冬を痛感している人々と共に過ごしてきました。 魂の冬とは、恐れ、不安、悲しみの季節です。 魂の冬を迎えない人は一人もいません。それが来ることを春の頃から心配している人もいれば、突然訪れるまでは常夏気分で生きている人もいます。 
 
 先週、私たちはペトロを大切なイエスを裏切らせてしまわせるほどのものが何であったかを考えました。それは恐れです。自分も逮捕されること、暴力を受け、殺されてしまうかもしれないという恐れでした。私たちは皆、大切なものを取り去られる恐怖を持っています。それは友人、財産、そして自分自身の体、心、意識です。だから私たちもダビデのように自分に対する人の評価が気になります。気になり過ぎれば軽蔑や陰謀に囲まれているような気にもなってしまいます。孤独に心が震えます。また、それらが奪われようとする時に起こる肉体的、精神的痛みも私たちの恐れるところです。そして死への恐れは、あらゆる恐れの中でも究極の恐れです。恐れているのはあなただけではありません。恐れのない人はいません。「死なんか怖くない」と言う人はいるかもしれませんが、気がついていないだけです。どんなに健康でも、100年以上生きられる人は稀です。どんなにお金を持っていたところで、100年以上生きられる権利を買い取ることはできません。それが自分であれ、愛する人であれ、私たちは誰もその時を引き延ばすことはできません。
 しかし、恐怖が、大きな思い違いに基づくものであるということも先週私たちは学びました。まず失う恐怖ですが、実は自分のものなど初めから一つもないということを知りました。この世から去る時も何も持って行くことはできません。本当にそのことを納得できれば、肉体の死は私たちを恐れさせることはできません。人は何も持たずに、ただ神様に命を与えられて、この世界に誕生し、生きるに必要なもののすべてを神様から提供していただいて素晴らしい時を過ごします。そして、この世界での歩みを終えれば、ここで使っていたものは必要なくなりますから、何も持たずに去って行くのです。このことを知っていれば、失う恐れから解放されます。
 肉体の痛み、心の痛みはどうでしょう?私たちはこのパウロの言葉を体験的に知っています。

神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。
(1コリント 10:13b
 
死に対する恐怖についてはどうでしょう? イエスは、信じる者に与えられるのは「世界で生きるための肉体」ではなく「永遠の命」だと約束してくださいました。

わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。
ヨハネ 10:27,28

今日これからお話しするイエスの復活こそ、これらの言葉を保証するものです。ダビデも、この恐れから自分を解放してくれるのは神様だけだということを知っていました。冬が永遠に続かないし、絶望によって終わるのでもありません。その先にあるのは、永遠の命です。


B. 絶望の先にある永遠の命(マルコによる福音書16:1-8)

安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。(マルコ16:1-8)

 安息日が終わりイエスの墓に向かうマリアたちは絶望していました。どんなに生活が苦しくても、人から軽蔑されても、イエスと共に歩み始めてからは、心は満たされていました。イエスの周りにやってくる人は、皆問題を抱えていましたが、イエスと共にいれば大丈夫だと知っていました。あまりにも素晴らしい時の流れに、その状態が永遠に続くようにさえ思っていたのです。しかしイエスは突然取り去られてしまった、そうとしかこの時点でのマリアたちには想像がつきませんでした。
 イエスご自身は福音書の中でなんども、自分の十字架について語り、しかもそれは終わりを意味するものではないことを予告していました。しかし、イエスの死を間近に見た彼女たちは、そのことを思い出せないほど大きな衝撃に打ちひしがれていたのです。読んだように、彼女たちの絶望は驚きと恐れに変わります。一直線に喜びに至らなかったのはなぜでしょう?空の墓を見せられ、復活したと天使に言われて喜んで駆け出したのではなく、恐ろしくて、震え上がり、正気を失って逃げ出したのです。この恐れは何でしょう?この恐れは今日最初にお話ししてきたような恐れではありません。この恐れは、人々の手でイエスが殺されたことよりももっと大きな恐怖でした。人間の手の届かない、どうすることもできない想像を超えた力が働いていることに対する恐れです。十字架までの成り行きは、恐ろしくはあったけれど、想像がつかないほどのものではありませんでした。ここに起こっていることは、神様の介入がリアルに起こっていることに対する恐れです。想像を超えたことに遭遇した時に起こる恐れです。神様の偉大な力に直面して起こる恐れは、
その恐ろしいほどの権威と力を持った神様が、自分を愛していてくださると知るとき、喜びに変えられます。復活したイエスを見たとき彼らの喜びは溢れました。神様を恐れるということなしに、本当の喜びはないのです。代用品は世界に溢れていますが、それは魂の冬には通用しません。復活したイエスだけが、私たちを魂の冬から救い出し、永遠の春に招き入れてくれます。神様はずっと空の上から私たちを眺めている方ではなく、一人の人として世界に来てくださり、私達以上の苦しみを受け、肉体の死に打ち勝ち、その勝利を私達にも約束してくださった神様です。肉体の死はイエスに従う者にとっては敗北ではありません。それがどのような死であれ、永遠の春への季節の変わり目なのです。


C. イエスと共に永遠の命を生きよう(ホセア書6:1-3)

「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、いやし我々を打たれたが、傷を包んでくださる。二日の後、主は我々を生かし三日目に、立ち上がらせてくださる。我々は御前に生きる。我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。主は曙の光のように必ず現れ降り注ぐ雨のように大地を潤す春雨のように我々を訪れてくださる。」(ホセア書6:1-3)


 聖書の中に出てくる春という言葉はたった一つの例外を除いて、全て「春の雨」として出てきます。たった一つの例外は「春の刈り入れ」です。イエスが人として歩まれたイスラエルでは、春と言えば連想するのは雨なのです。それも日本人が梅雨の憂鬱さを思うようにではなく、生まれること、生きることの喜びが心に溢れる雨です。
 この預言者の言葉は、私達に訪れる永遠の春、永遠の命を預言しています。私たち夫婦には今年2歳を迎える孫がいますが、最近一人でよく走り回るようになりました。そうなると、時々親とつないでいる手が煩わしくなり、それを振り切って遠くに行こうとしてしまいます。あまり離れすぎると不安になって舞い戻ってくるのですが、調子に乗りすぎて転んでしまうこともあるわけです。もしそれが交通の激しいところなら事故につながってしまう危険もあります。私たちと神様との関係も同じです。この世に生まれさせてくださった神様の家をいつの間にか家出してしまい痛い目にあうのです。イエスに従っている私たちは実は皆、神様の家を逃げ出して生きてきたのです。そして、神様の憐れみによって帰る家があることを知らされた者たちです。教会は神様が経営する世界最大のグループホームチェーンです。そしてユアチャーチもその一つです。この世界に居場所がない人も住むことのできるホームです。外では一人ぼっちでもここではそうではありません。ここにはあなたの、じじばば、ちちはは、あにあね、おとうといもうと、むすこむすめ、まごむすめまごむすこがいます。入居条件が合えばいつでも入ることができます。待たされません。入居条件は単純です。イエスを自分の主、神様として従って生きること、同じホームの人々を家族として受け入れることです。あなたも神様の家族に招かれています。ユアチャーチでなくても構いません。どうか帰ってきてください。ここでは永遠の春がもう始まっています。



メッセージのポイント
イエスの復活は私たちを死の恐怖から解放します。自身の命も含めて、実は全てが神様からの預かり物であることを忘れて、私たちはあらゆるものを失うことに恐怖します。私たちは何も持たずにこの世に生まれ何も持たずに世を去りますが、私たち自身は神様のものであって、神様は私たちを決して捨てません。イエスの復活は、イエスが時間の制約も空間の制約も超えてイエスと共にいられること、すなわち「永遠の命」の始まりだったのです。

話し合いのために
1) あなたの一番大きな怖れは何ですか?
2) イエスの復活はあなた人生にどのような意味がありますか?

子供達のために
マルコとホセアを紹介して、年代に応じて以下のことをつたえてください。
強いこと、悲しいこと、苦しいことを、私たちは皆一人一人違った形で持っています。子供も大人もそうです。自分だけでそれらに耐えられる人はいません。けれどもイエスがおられます。十字架の死から三日目によみがえられ、今は目に見る事は出来ませんが私たちと共におられます。私たちには永遠の命が与えられています。それは、この世界に生きている間はもちろんの事、この世界から去った後もずっと続くものです。