<メッセージノート>

2016/4/17 メッセージノート ルカによる福音書 18:1-8 (参照: ルカによる福音書 11:1-13)
あきらめずに祈り続けよう 

池田真理


1 イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。2 「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。3 ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。4 裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。5 しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」6 それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。7 まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。8 言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」


1. 神様は正しい裁きを行う (7-8a)

7 まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。8 言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。


2. なぜ「不正な裁判官」のたとえなのか? (2-6)

2 「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。3 ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。4 裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。5 しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」6 それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。

・私たちは神様が「不正な裁判官」だと感じてしまう


・イエス様はそれでも祈り続けなさいという

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」(11:9)

3. 与えられている神様の賜物を燃え立たせ


11:13 あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。


メッセージのポイント
神様は、罪と苦しみの中で助けを求めている私たちの叫びを聞いておられます。すぐには応えてくださらないように思えても、忍耐強く、しつこく信じ続けなければいけません。それは簡単なことではありません。でも、そのことをイエス様も知っています。だから私たちに聖霊様を与えて下さっています。

話し合いのために
1) この箇所では、何を求めて祈り続けるように言われていますか?(必ずしも自分の願いが叶うことではありません。)
2) 信じること、祈ることをあきらめてしまいそうになったことはありますか?そんな時どうしますか?

子供達のために
あきらめないで祈り続けなさいということは、祈るのをあきらめなければ願いが叶うという意味ではありません。願いが叶っても叶わなくても、どんな時でも希望を持ち続けなさいということです。このたとえ話は誤解を生みがちです。私たちがしつこく祈っていれば、神様はしぶしぶ答えてくださる、という解釈にならないように注意してください。注目するのは、イエス様が良い裁判官の話をしないで悪い裁判官の話をしたという点かもしれません。私たちが神様のことを悪い裁判官のように思ってしまうことを、イエス様は知っているということです。子供達に、神様は良い裁判官なのか悪い裁判官なのかと聞いてみて、話を始めてもいいかもしれません。

<MP3 音声>

<ビデオ> 画面をクリックすると再生が始まります

<メッセージ全文>

2016/4/17 メッセージノート ルカによる福音書 18:1-8 (参照: ルカによる福音書 11:1-13)
あきらめずに祈り続けよう 

池田真理

 今日は最初に全体を読んでから、ここでイエス様が何を言おうとされているのか、少しずつ考えていきたいと思います。

1 イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。2 「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。3 ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。4 裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。5 しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」6 それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。7 まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。8 言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」


1. 神様は正しい裁きを行う (7-8a)


 このたとえ話は誤解しやすいものの一つだと思います。やもめが裁判官にしつこく訴えたように私たちも神様にしつこく訴えれば、神様はしぶしぶ応えてくださるということでしょうか?そうではないのなら、このたとえ話をどう考えれば良いのでしょうか?少しずつお話していきたいと思います。
 最初に、イエス様の結論に注意してみてください。7-8a節で言われていることです。「
神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。8 言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。」神様は私たちの叫びを無視しているのではなく、ちゃんと聞いていて、必ず私たちのために正しい裁きを行うということです。このことは前回お話した「神様の国」と関係があります。私たちは神様が私たちの間に目に見える形で入ってきてくださって、間違っているものを正し、傷ついている人を癒し、争いを平和に変えてくださることを願っています。それは2千年前にイエス様がこの世界にこられた時から少しずつ始まりましたが、完全な形で実現するのはイエス様が再びこの世界に来られて世界が終わる時です。その時がいつ来るのかは私たちには分かりませんが、いつか必ず来ると私たちは信じています。また世界全体のことではなくても、私たち一人一人の問題についても同じです。私たちは神様に早く解決してほしいと叫びますが、同時に神様は必ず解決してくださると知っています。神様は私たちのために働くことをさぼることもないし、嫌がることもないし、判断を間違えることもありません。どんなときでも私たちの訴えに耳を貸し、必要とあればすぐに動いてくださる方です。その理由は、いつも同じ、十字架です。だから、神様を裁判官に例えるなら、神様は世界最高の裁判官です。でも、このたとえ話は悪い裁判官の話です。神様は良い方だという話をしたいなら、良い裁判官の話をすれば良かったんじゃないでしょうか?なぜ悪い裁判官の話になってしまったのでしょうか?それは私たちの側に問題があります。私たちの方が、神様のことを悪い裁判官のように感じてしまうからです。イエス様はそのことを知っていました。次にこのことを考えてきたいと思います。



2. なぜ「不正な裁判官」のたとえなのか? (2-6)

2 「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。3 ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。4 裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。5 しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」6 それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。

・私たちは神様が「不正な裁判官」だと感じてしまう

 私たちは、神様が良い方で正しい裁きをされる方だと十字架を通して知りました。でも、神様の国はまだ完全には来ていないので、不完全なこの世界の中で苦しんでいます。そして時には、神様がいつか必ず来るのではなく、今すぐここに来てほしいと願ってしまいます。そんな時私たちは、神様が祈りを聞いておらず、「人を人とも思わない」冷たい裁判官と同じように感じています。なぜ苦しみをこのままにしておかれるのか、祈りを聞いてくださらないのか。なぜ放って置かれるのか。この問いは、イエス様の時代の人々も、その後の人々も前の人々も、現在も、ずっと人間が抱えてきた問いです。私たちは神様の答えを待ちきれません。また、神様の答えよりも、自分のほしい答えを求めてしまいます。それは全て、私たちが自分のすぐ近くしか見えておらず、神様の視点で物事を広く見られないからです。イエス様は私たちのこの問題をよく知っていました。だから、私たちの現実により近くするために、あえて神様を不正な裁判官であるかのようにたとえて話したのだと思います。そこまでしてイエス様が私たちに伝えたかったのは、このやもめの態度です。不正な裁判官にも、あきらめずに訴え続けた態度です。それが私たちと神様の関係にどういう意味があるのか、次にこのことを考えていきましょう。

・イエス様はそれでも祈り続けなさいという


 ここに登場するやもめは、何度裁判官に相手にされずに追い返されても、あきらめませんでした。やもめ(未亡人)というのは、当時の社会では守ってくれる男性をなくした弱い立場にありました。ですから、このたとえ話が単に「ある人」の話ではなく、「あるやもめ」の話であることにも意味があります。このやもめのように、弱い立場にいても、神様の正義を求め続けてあきらめてはいけないということです。社会的に弱い立場にあることに限られたことではありません。自分の弱さを知っている人すべてに言えることです。自分の弱さにお構いなしに、神様の正義が行われるように大胆に求め続けることが、イエス様の求めている態度です。神様の正義がまだ実現していないこの世界の中で、それでも神様の正義を求め続けて、信じて待っているというのは、簡単ではありません。でも、やもめが悪い裁判官だと知っていながらしつこく通い続けたように、私たちも神様を信じてあきらめてはいけません。それは自分の願いを必ず神様が叶えてくれると信じるのとは違います。たとえすぐに状況が変わらなくても、神様に希望を持ち続けるということです。どんなときでも、神様は一番良いことを一番良い時に実現されると信じて祈り続けることです。
 実は今日の箇所は、一年ほど前に読んだ11章の最初に出てくるたとえ話ととても似ています。真夜中に友人のところに行って「パンを分けてくれ」と頼みに行く人の話です。その人もしつこく頼み続けました。そして、イエス様はたとえ話に続いてこう言いました。

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」(11:9)

その時も言いましたが、これを反対に言い直せば、求めなければ与えられないし、探さなければ見つからないし、門をたたかなければ開かれません。びくともしないような門を叩き続けるのは、時に虚しく感じるものかもしれません。何度会いに行っても追い返されてしまったら、それでも通い続けるより諦めるほうが簡単に思えます。それでも神様を信じて、待って、祈り続けることを、私たちは求められています。


3. しつこい祈り=信仰 (1, 8b)


 1節には、「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された」とありました。神様が苦しみを取り除いてくださるように、問題を解決してくださるように、その苦しみと問題の只中で祈り続けることができたら、それは私たちの希望になります。しつこく神様に求め続けるということは、言い換えるなら神様に希望を持ち続けるということです。それがどんなに難しいことか、イエス様自身が知っていました。8節の最後には、「しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」といわれています。イエス様がこう言われるほど、私たちがどんなときでも希望を失わずに神様を信じ続けるということは大変なことです。それが信仰の戦いというものです。だから、イエス様は良い裁判官ではなくて悪い裁判官の話をされました。そして、さっきも紹介した11章のたとえ話の最後はこう終わっています。

11:13 あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。

だれも、祈り続けること、信じ続けることを、自分の力だけではできません。聖霊様に助けていただく必要があります。あきらめてしまいそうになるとき、希望を失いそうになるとき、どうぞ聖霊様を求めてください。どんなときでも、あきらめずに神様に求め続ける力をいただきましょう。

メッセージのポイント
神様は、罪と苦しみの中で助けを求めている私たちの叫びを聞いておられます。すぐには応えてくださらないように思えても、忍耐強く、しつこく信じ続けなければいけません。それは簡単なことではありません。でも、そのことをイエス様も知っています。だから私たちに聖霊様を与えて下さっています。

話し合いのために
1) この箇所では、何を求めて祈り続けるように言われていますか?(必ずしも自分の願いが叶うことではありません。)
2) 信じること、祈ることをあきらめてしまいそうになったことはありますか?そんな時どうしますか?

子供達のために
あきらめないで祈り続けなさいということは、祈るのをあきらめなければ願いが叶うという意味ではありません。願いが叶っても叶わなくても、どんな時でも希望を持ち続けなさいということです。このたとえ話は誤解を生みがちです。私たちがしつこく祈っていれば、神様はしぶしぶ答えてくださる、という解釈にならないように注意してください。注目するのは、イエス様が良い裁判官の話をしないで悪い裁判官の話をしたという点かもしれません。私たちが神様のことを悪い裁判官のように思ってしまうことを、イエス様は知っているということです。子供達に、神様は良い裁判官なのか悪い裁判官なのかと聞いてみて、話を始めてもいいかもしれません。