<メッセージノート>

2016/4/24 メッセージノート テモテへの第二の手紙 1:11-18
イエスに従う人の孤独と交わり 

永原アンディ


11 この福音のために、わたしは宣教者、使徒、教師に任命されました。
12 そのために、わたしはこのように苦しみを受けているのですが、それを恥じていません。というのは、わたしは自分が信頼している方を知っており、わたしにゆだねられているものを、その方がかの日まで守ることがおできになると確信しているからです。
13 キリスト・イエスによって与えられる信仰と愛をもって、わたしから聞いた健全な言葉を手本としなさい。
14 あなたにゆだねられている良いものを、わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい。
15 あなたも知っているように、アジア州の人々は皆、わたしから離れ去りました。その中にはフィゲロとヘルモゲネスがいます。
16 どうか、主がオネシフォロの家族を憐れんでくださいますように。彼は、わたしをしばしば励まし、わたしが囚人の身であることを恥とも思わず、
17 ローマに着くとわたしを熱心に探し、見つけ出してくれたのです。
18 どうか、主がかの日に、主のもとで彼に憐れみを授けてくださいますように。彼がエフェソでどれほどわたしに仕えてくれたか、あなたがだれよりもよく知っています。


1. パウロが私たちに伝えたかったこと (11-14)

1) 恥じない理由 (11, 12)

11 この福音のために、わたしは宣教者、使徒、教師に任命されました。
12 そのために、わたしはこのように苦しみを受けているのですが、それを恥じていません。というのは、わたしは自分が信頼している方を知っており、わたしにゆだねられているものを、その方がかの日まで守ることがおできになると確信しているからです。


2) 委ねられている良いものを聖霊の助けによって守ろう (13, 14)

13 キリスト・イエスによって与えられる信仰と愛をもって、わたしから聞いた健全な言葉を手本としなさい。
14 あなたにゆだねられている良いものを、わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい。


2. 喜んでイエスに従っているなら (15-18)

1) 多くの友があなたを見捨ててしまうような時でさえ希望を持ち続けることができる (15)

15 あなたも知っているように、アジア州の人々は皆、わたしから離れ去りました。その中にはフィゲロとヘルモゲネスがいます。


2) いつでも特別な友達が備えられている (16-18)

16 どうか、主がオネシフォロの家族を憐れんでくださいますように。彼は、わたしをしばしば励まし、わたしが囚人の身であることを恥とも思わず、
17 ローマに着くとわたしを熱心に探し、見つけ出してくれたのです。
18 どうか、主がかの日に、主のもとで彼に憐れみを授けてくださいますように。彼がエフェソでどれほどわたしに仕えてくれたか、あなたがだれよりもよく知っています。


メッセージのポイント
イエスに従って歩む者にとっては孤独と交わりは矛盾するものではありません。むしろ一体のものです。たった一人で神の前に立つことのできる人だけが、本当の交わりを持つことができます。本当の交わりの中に身を置く人だけが、一人で神の前に立つことができます。私たちの孤独とはイエスに比べられる存在は他にはないというであり、私たちの交わりとはただイエスという土台の上に成り立っている交わりです。

話し合いのために
1) 委ねられている良いものとは?
2) パウロはどんな気持ちで15-18節を書いているのでしょう?

子供達のために
家族や友達といつでも仲良く楽しくしていたいと思っても、うまくいかない時がたくさんあります。どうしたらもっと一緒に居られることを喜べるようになれるでしょうか?その方法は、それぞれが誰よりもイエスと仲良くなることであることを伝えてください。そしてイエスと仲良くなるためにはどうしたらよいかを考えさせてください。正解を用意して教える必要はありません。子供たちがそれぞれのアイディアをシェアしあうことに意味があります。

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<メッセージ全文>

2016/4/24 メッセージノート テモテへの第二の手紙 1:11-18
イエスに従う人の孤独と交わり 

永原アンディ


11 この福音のために、わたしは宣教者、使徒、教師に任命されました。
12 そのために、わたしはこのように苦しみを受けているのですが、それを恥じていません。というのは、わたしは自分が信頼している方を知っており、わたしにゆだねられているものを、その方がかの日まで守ることがおできになると確信しているからです。
13 キリスト・イエスによって与えられる信仰と愛をもって、わたしから聞いた健全な言葉を手本としなさい。
14 あなたにゆだねられている良いものを、わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい。
15 あなたも知っているように、アジア州の人々は皆、わたしから離れ去りました。その中にはフィゲロとヘルモゲネスがいます。
16 どうか、主がオネシフォロの家族を憐れんでくださいますように。彼は、わたしをしばしば励まし、わたしが囚人の身であることを恥とも思わず、
17 ローマに着くとわたしを熱心に探し、見つけ出してくれたのです。
18 どうか、主がかの日に、主のもとで彼に憐れみを授けてくださいますように。彼がエフェソでどれほどわたしに仕えてくれたか、あなたがだれよりもよく知っています。


1. パウロが私たちに伝えたかったこと (11-14)

1) 恥じない理由 (11, 12)

11 この福音のために、わたしは宣教者、使徒、教師に任命されました。
12 そのために、わたしはこのように苦しみを受けているのですが、それを恥じていません。というのは、わたしは自分が信頼している方を知っており、わたしにゆだねられているものを、その方がかの日まで守ることがおできになると確信しているからです。

 11節に「私は任命された」とありますが、どのようにして任命されたのか思い出してみましょう。パウロは、イエスを信じる人を攻撃するためにダマスカスに向かって行く道の途中で、イエスとの出会いを経験しました。イエスを快く思わない多くの人々に送り出され、ハイテンションで歩んでいた時に、突然、まぶしい光に照らされ地に倒され、イエスに呼びかけられたのです。「サウロ!なぜ私を迫害するのか?」同行者には、イエスはもちろん光も見えなかったようです。しかし、声は聞こえたので彼らは恐ろしくなってただ突っ立ていました。パウロは立ち上がりましたが、目は見えなくなっていました。イエスはダマスコに住むアナニアという弟子にパウロが目の見えない状態でやってくることを告げ、パウロに手を置いて目を癒し、イエスとの出会いを確信させ、聖霊に満たされて新しい人生を歩み始めさせるように命じました。ここにパウロの「イエスに従って生きる」原点があります。イエスとの出会いはパウロの人生の歩みの方向を180度変えました。そして、その歩みは以前よりはるかに困難なものになりました。けれども、イエスが守ってくださるので歩み続けることができるという確信も与えられていたのです。あなたのイエスとの出会いも、その本質はパウロと同じです。イエスに従って人生を歩む人は今でも少数派です。自分の欲望に従っていきたい人々にとって、皆さんの生き方は不快です。皆さんの生き方を正しいと認めたくはないのです。認めれば自分は違う方向を向いているということを認めなければならないからです。多くの人がしている生き方が正しいなら、私たちは自分を恥なければなりません。でもそうではないですよね?イエスに出会った事を後悔していないですよね。そうであれば恥じる必要はないのです。人が人生の方向転換することは容易ではありません。それは自分のことを考えればわかるはずです。パウロのように神様の光に打ち倒されたわけではないでしょうが、何らかの形で、人生を思い直すチャンスを与えられたのはパウロと同じです。それは与えられた恵みです。私たちはただ自分の生き方に自信と喜びをもって歩めばよいのです。イエスのように、愛すること、正義を求めることをしてゆくのです。妨害、反対があろうとなかろうと、この生き方を貫き、勧めるのです。その人にもイエスが出会ってくださるように祈るのです。皆さんはイエスを知っていることと、イエスが守ってくださるという確信によって歩み続けることができます。


2) 委ねられている良いものを聖霊の助けによって守ろう (13, 14)

13 キリスト・イエスによって与えられる信仰と愛をもって、わたしから聞いた健全な言葉を手本としなさい。
14 あなたにゆだねられている良いものを、わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい。

 パウロはイエスから伝えられた生き方を、テモテに伝えようとしています。テモテは私たちと同様に、パウロのような強烈な体験をしてイエスを信じたのではありません。 親が信じていたので自然なこととして信仰を持ったようにも思えますが、実際のところ、何代目の信仰者であっても「イエスからの個人的な呼びかけ」という恵みなしに方向転換できる人はいません。面白いことに、家族で最初にイエスに従う者となった人と、クリスチャンホームに育った者とは、互いに対してコンプレックスを持っています。親も信仰者だった人は、自分はパウロのような強烈な回心の体験を持っていないから自分はダメだと感じ、自分が初めて従う者となった一代目は、子供の頃から信仰的に育っていないからダメだと感じがちです。神様は強烈な体験を持たない者には、語り継がれる健全な教えを若いうちから与えてくださり、それが歩み通す力となります。反対に神様を全く知らずに人生のほとんどを歩んだ者には、それでもはっきりと確信できるようにパウロのような経験を与えるのです。イエスに従う者同士が互いにコンプレックスを持ち合うなら、それを喜ぶのは悪魔です。私たちが互いの違いを喜び合い、多様性をこのキリストの体に与えてくださったと思うなら、神様が喜ばれ私たちを祝福してくださいます。神様の恵みによって与えられたイエスに従って生きる道を守ってくれるのは神の霊、聖霊です。今私たちはイエスをこの目で見ることはできません。しかし14節に書かれているように、神の霊、イエスの霊である聖霊はいつも一緒にいてくださるのです。私たちが委ねられている良い知らせを守って伝え続けることができるのは、この聖霊によるのです。
 私がいつも、心からの礼拝を捧げようと皆さんに勧めるのは、神様がそのことを命じているからですが、礼拝を通して私たちにも豊かな恵みが与えられます。礼拝を通してイエスをもっとよく知ることができ、聖霊に満たされるのです。そしてそのことによって、確信をもって喜んでイエスに従ってゆくことができます。なぜ私が皆さんに確信を持って喜んでイエスに従って欲しいのか?その理由を後半の部分でお話しします。


2. 喜んでイエスに従っているなら (15-18)

1) 多くの友があなたを見捨ててしまうような時でさえ希望を持ち続けることができる (15)

15 あなたも知っているように、アジア州の人々は皆、わたしから離れ去りました。その中にはフィゲロとヘルモゲネスがいます。

15節にはパウロのがっかりした気持ちが表れています。彼がアジア州で命の危険も犯しながらイエスを伝えたことによって多くの教会が誕生しました。しかし、そのほとんどが離れ去ってしまったのです。テモテのいるエフェソもアジアの一部です。この時、エフェソの教会は様々な攻撃にさらされながらかろうじて踏みとどまっていたのです。パウロは無力感を感じていたと思います。しかし寂しくはなかったのです。誰一人として支持してくれる人がいなくても、イエスだけは彼と共にいることをパウロは確信していたからです。その出発点は、たった一人だったのです。たった一人でイエスの前に立ったのです。そして従い続けました。多くの人がパウロを慕い、行動を共にしましたが、ここに書かれているように、多くは離れ去りました。それでもパウロは確信と喜びを持ち続けてこの世での歩みを歩み通しました。実はパウロに呼びかけたイエスも同じです。一人で歩み始め、やがて多くの人が彼を追いかけましたが、十字架に架けられて時にはたった一人でした。最初から行動を共にしていた弟子たちでさえイエスを見捨てました。それでも与えられた地上での役割を果たして天に帰られました。私たちもパウロと同様に、たった一人でイエスに従って行く決心をしたのではないでしょうか?そのことを忘れるなら、私たちは、誰かの無理解や裏切りで絶望してしまうでしょう。そのような出来事で信仰を捨ててしまう人もいます。どんなに親しくても究極的な希望を人間に置くことはできないのです。にもかかわらず私たちは一人ぼっちではありません。イエスという決して裏切ることのない方と共にいるからです。イエスに従って歩んでいる限り、何が起ころうと希望は消えません。


2) いつでも特別な友達が備えられている (16-18)

16 どうか、主がオネシフォロの家族を憐れんでくださいますように。彼は、わたしをしばしば励まし、わたしが囚人の身であることを恥とも思わず、
17 ローマに着くとわたしを熱心に探し、見つけ出してくれたのです。
18 どうか、主がかの日に、主のもとで彼に憐れみを授けてくださいますように。彼がエフェソでどれほどわたしに仕えてくれたか、あなたがだれよりもよく知っています。

 パウロには、多くの離れていった人がいた一方で、生涯、忠実な友として共に歩んだ人もいたのです。ここに出ているオネシフォロという人もそのような人であったようです。私たちはたった一人で神様の前に立つと言いましたが、一方で聖書は「聖徒の交わり」の大切さを説きます。
 ナチスがドイツを支配していた時、多くの教会がナチスに協力していた中で抵抗を続け、逮捕され処刑された告白教会(Confessing Church)の指導者の一人、ディートリヒ・ボンヘッファー (Dietrich Bonhoeffer) は私たちが、この二つの関連を誤解しやすいことを警告して、本当の交わり、本当の孤独を知るべきことを勧めています。
 私たちは交わりに頼りすぎるあまりに、神様との一対一の関係を持てなくなってしまう危険性を持っています。神様との関係が弱くなれば、今度はたちまち交わりのほころびが気になりだします。神様なしに真の交わりは不可能なのです。一方で、人との交わりを最初から軽んじて、ただ個人的に神様と繋がっていればいいと考える人もいますが、それは、イエスのあり方とは正反対で、そのような人はイエスに従っているとは言えません。
 イエスに従って歩む者にとっては孤独と交わりは矛盾するものではありません。むしろ一体のものです。たった一人で神の前に立つことのできる人だけが、本当の交わりを持つことができます。本当の交わりの中に身を置く人だけが、一人で神の前に立つことができます。私たちの孤独とはイエスに比べられる存在は他にはないというであり、私たちの交わりとはただイエスという土台の上に成り立っている交わりでなのす。


メッセージのポイント
イエスに従って歩む者にとっては孤独と交わりは矛盾するものではありません。むしろ一体のものです。たった一人で神の前に立つことのできる人だけが、本当の交わりを持つことができます。本当の交わりの中に身を置く人だけが、一人で神の前に立つことができます。私たちの孤独とはイエスに比べられる存在は他にはないというであり、私たちの交わりとはただイエスという土台の上に成り立っている交わりです。

話し合いのために
1) 委ねられている良いものとは?
2) パウロはどんな気持ちで15-18節を書いているのでしょう?

子供達のために
家族や友達といつでも仲良く楽しくしていたいと思っても、うまくいかない時がたくさんあります。どうしたらもっと一緒に居られることを喜べるようになれるでしょうか?その方法は、それぞれが誰よりもイエスと仲良くなることであることを伝えてください。そしてイエスと仲良くなるためにはどうしたらよいかを考えさせてください。正解を用意して教える必要はありません。子供たちがそれぞれのアイディアをシェアしあうことに意味があります。