<メッセージノート>

2016/5/22 メッセージノート テモテへの手紙2 2:14-26
賢い教会になろう!

永原アンディ

A. キリストと共に死に、キリストと共に生きるための戒め

14 これらのことを人々に思い起こさせ、言葉をあげつらわないようにと、神の御前で厳かに命じなさい。そのようなことは、何の役にも立たず、聞く者を破滅させるのです。 15 あなたは、適格者と認められて神の前に立つ者、恥じるところのない働き手、真理の言葉を正しく伝える者となるように努めなさい。 16 俗悪な無駄話を避けなさい。そのような話をする者はますます不信心になっていき、 17 その言葉は悪いはれ物のように広がります。その中には、ヒメナイとフィレトがいます。 18 彼らは真理の道を踏み外し、復活はもう起こったと言って、ある人々の信仰を覆しています。


B. 正義と信仰と愛と平和を追い求めなさい

1) 貴いことに用いられる器として (19-21)

19 しかし、神が据えられた堅固な基礎は揺るぎません。そこには、「主は御自分の者たちを知っておられる」と、また「主の名を呼ぶ者は皆、不義から身を引くべきである」と刻まれています。 20 さて、大きな家には金や銀の器だけではなく、木や土の器もあります。一方は貴いことに、他方は普通のことに用いられます。 21 だから、今述べた諸悪から自分を清める人は、貴いことに用いられる器になり、聖なるもの、主人に役立つもの、あらゆる善い業のために備えられたものとなるのです。



2) 清い心で主を呼び求める人々と共に (22)

22 若いころの情欲から遠ざかり、清い心で主を呼び求める人々と共に、正義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。


3) 主の僕として (23-26)

23 愚かで無知な議論を避けなさい。あなたも知っているとおり、そのような議論は争いのもとになります。 24 主の僕たる者は争わず、すべての人に柔和に接し、教えることができ、よく忍び、 25 反抗する者を優しく教え導かねばなりません。神は彼らを悔い改めさせ、真理を認識させてくださるかもしれないのです。 26 こうして彼らは、悪魔に生け捕りにされてその意のままになっていても、いつか目覚めてその罠から逃れるようになるでしょう。


メッセージのポイント
神様は、キリストを頭とするご自身の体の中に、間違った人々が存在することを許している。私たちはこのことを認めなければなりません。私たちは神様より不寛容で、性急に変わるか、出て行くかと迫りがちですが、それは賢い方法ではないことがこのテキストからわかります。人を変えることではなく、自分が成長することを求めましょう。

話し合いのために
1) パウロは大きな家の器にたとえて何を言いたかったのでしょう?
2) なぜ議論を避けるべきなのですか?

子供達のために
「正義と信仰と愛と平和」の言葉に注目させて、正義は信仰、愛、平和とともに求めるものであることを伝えてください。どんなに自分が正しくても、言い争いをすることは誰の益にもならない。本当に正しいなら、人々にはわからなくても神様はちゃんと見ているから心配しないで、神様に任せようと励ましてください。

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<メッセージ全文>

2016/5/22 メッセージノート テモテへの手紙2 2:14-26
賢い教会になろう!

永原アンディ

A. キリストと共に死に、キリストと共に生きるための戒め

14 これらのことを人々に思い起こさせ、言葉をあげつらわないようにと、神の御前で厳かに命じなさい。そのようなことは、何の役にも立たず、聞く者を破滅させるのです。 15 あなたは、適格者と認められて神の前に立つ者、恥じるところのない働き手、真理の言葉を正しく伝える者となるように努めなさい。 16 俗悪な無駄話を避けなさい。そのような話をする者はますます不信心になっていき、 17 その言葉は悪いはれ物のように広がります。その中には、ヒメナイとフィレトがいます。 18 彼らは真理の道を踏み外し、復活はもう起こったと言って、ある人々の信仰を覆しています。

 前回、私たちの強さについてお話ししました。私たちの強さとは、私たちの弱さの中に現れる、キリストの強さです。聖書は私たちに決して「あなた方は弱いから、自分を鍛えて強くなりなさい」とは教えていません。それは「聖さ」についても「賢さ」についても同じことが言えます。強くもない、聖くもない、賢くもない私たちが、キリストの恵みによって強く、聖く、賢く歩めるのです。そしてその恵みとは、キリストと共に死に、キリストと共に生きる者への恵みです。「キリストと共に死に、キリストと共に生きる」 それは感覚ではなく事実です。感覚に頼ろうとするなら、恵みはあいまいなものになってしまいます。そこで今日のテキストの最初にもう一度、直前の8-11節に書かれている「私たちはキリストと共に死に、キリストと共に生きている」という事実を確認させているのです。この事実を土台に、パウロは今日のテキストで人々に与えられるべき戒めをテモテに伝えようとしています。ここから私たちが知るべきことは三つあります。1)言い争いを避けなさい(14) 2)真理の言葉を正しく伝える者となるように努めなさい(15) 3)無駄話を避けなさい(16) 
 最初の言い争いですが、教会の中でどんな口論もあってはいけないということではありません。パウロはテモテにエフェソの教会の中で異なった教えをする人々との間で論争してはいけないと言っているのです。どんなにあなたが正しくても、あなたがその正しさを主張すればするほど、相手は真理から離れて行きます。論争の相手だけではありません。それを聞いている周りの人の中には、あなたの正しさを理解できずに、相手に同情したり、言い争いを嫌って教会を離れてしまうかもしれません。また論争には時間とエネルギーが必要です。パウロはもっと他にするべきことがあるだろうと言うのです。それが二番目のことです。「真理の言葉を正しく伝える者となるように努めなさい」(15) 私たちは、反対する者を言い負かすためにあるのではありません。教会が真理の言葉を正しく伝える者となるように努めなさいと言われているのは二人の牧師(ユアチャーチには今、二人の牧師がいます)だけではありません。私たちが真理の言葉を正しく伝えるために、皆さんの祈りが欠かせません。どうぞ週に一度くらいは思い出して次の日曜日にメッセージをする牧師のためにお祈りしてください。それだけではありません。真理の言葉が伝えられるのは、日曜日の朝だけではないのです。皆さんが誰かと会って話す時、イエスの考えが、イエスに従うあなたを通してその人に伝わります。あなたも真理の言葉を正しく伝える者となるように期待されているのです。そして三つ目は、「無駄話を避けなさい」(16)です。決して、信仰以外の話は私たちの間では避けたほうがいいと言っているのではありません。ここで言われている俗悪な無駄話とは、実際にエフェソの教会に悪い影響を与えていた間違った教えです。17、18節にそれがどのようなものであったか書かれています。「死者の復活はもう起こった」という教えてす。バプテスマを受けた時、私たちは死んで、復活した体で生きている。もう老いることも死ぬこともないといった教えだったようです。私たちも主と共に死んで、主と共に生きていると話してきましたが、それは霊的な意味であって肉体のことではありません。
 異なった教え、異端と対決することが私たちのすることではなく、むしろ真理の言葉を正確に伝えることに全力を傾けましょう。真理の言葉が正確に伝わることで、異なった教えが入り込むことを防ぐことができます。しかし、私たちが真理の言葉を正確に伝えることに全力を傾けなければならないもっと大切な理由があります。それは次の部分で勧められている「正義と信仰と愛と平和を追い求める」ために欠かせないことだからです。それは私たちが伝えようとしている真理の言葉、神様の言葉、福音のメッセージが求めるべき正義・信仰・愛・平和を明らかにしてくれるからです。私たちが伝えようとしている聖書のメッセージがなければ正義も、信仰も、愛も、平和も自分勝手なものになってしまいます。正義・信仰・愛・平和とは何かというテーマは聖書のメッセージとしてなんども聞いてきたと思います。今日のテキストは、どのような態度でそれらを追求すべきかということを教えてくれています。まず19-26節を読みましょう。


B. 正義と信仰と愛と平和を追い求めなさい

1) 貴いことに用いられる器として (19-21)

19 しかし、神が据えられた堅固な基礎は揺るぎません。そこには、「主は御自分の者たちを知っておられる」と、また「主の名を呼ぶ者は皆、不義から身を引くべきである」と刻まれています。 20 さて、大きな家には金や銀の器だけではなく、木や土の器もあります。一方は貴いことに、他方は普通のことに用いられます。 21 だから、今述べた諸悪から自分を清める人は、貴いことに用いられる器になり、聖なるもの、主人に役立つもの、あらゆる善い業のために備えられたものとなるのです。


 読んできたように、エフェソの教会は異なった教えの影響を大きく受けていました。それを広めようとする人々は追放されていましたが、影響を受けていた人々は教会の中にも残っていたようです。それでパウロはこのようなたとえ話をしたのです。もしかしたら、テモテは少しでも影響を受けている人には教会から出て行ってもらおうと考えていたのかもしれません。しかしパウロは、教会の中にいて間違った教えに影響を受けている人々がとどまることを認めているようです。もちろん、そのままの状態では任せることのできない働きもあるでしょうが、そうでないこともあるはずです。ですから彼らを排除してはいけません、というのがパウロの意見です。21節にあるように、悪い影響を受けたとしても、そこから離れるなら神様の働きに加えられることになるのです。皆さんが人々の間で正義と信仰と愛と平和を追い求める時、皆さんは貴い器としてイエスの香りを運んでいるのです。


2) 清い心で主を呼び求める人々と共に (22)

22 若いころの情欲から遠ざかり、清い心で主を呼び求める人々と共に、正義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。

 私たちはそれぞれが個人的に正義と信仰と愛と平和を追い求めなさいと言われているのではありません。それはこの教会家族、さらに世界に一つの大きな教会の共同の働きです。パウロはここでテモテに少し警告をしているようです。日本語訳の「情欲は元の言葉から比べると意味が狭すぎます。パウロは彼の激しさ、論争好き、寛容になれないところを心配して、「まだ若いな。自分のやり方や感覚に頼らないで、神様に頼って歩む人たちと一緒に、正義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。」と言っているのです。 パウロ自身も若かった頃、過激で不寛容な迫害者(はくがいしゃ)でしたし、初期の伝道においてもその激しさ、独断の片鱗は消えてはいませんでしたから、自分の反省を込めて言っているのだと思います。ユアチャーチは今、神様の恵みによって様々な年齢、国籍、仕事の者たちが集められた教会となりました。ですから私たちが心を合わせて働くなら、バラバラにやっているよりずっとイエスの意思に近い働きができます。キリストの体であるひとつの教会にはさらに豊かな多様性があります。
 しかし、世界で一つの大きな教会の中には私たちは教えていないこと、反対の考えを持っている人々が含まれています。教会の歴史を見ると、キリスト教会内ではいつも何かしら大きな論争となっている問題があり、互いに相手を破門 (Sougo-Hamon, mutual excommunication)するということも起こりました。このことをどう考えたら良いのかのヒントが次の部分にあります。23-26節を読みます。


3) 主の僕として (23-26)

23 愚かで無知な議論を避けなさい。あなたも知っているとおり、そのような議論は争いのもとになります。 24 主の僕たる者は争わず、すべての人に柔和に接し、教えることができ、よく忍び、 25 反抗する者を優しく教え導かねばなりません。神は彼らを悔い改めさせ、真理を認識させてくださるかもしれないのです。 26 こうして彼らは、悪魔に生け捕りにされてその意のままになっていても、いつか目覚めてその罠から逃れるようになるでしょう。

 キーワードは「主の僕」です。今月の最初の日曜日に私たちは「正しさの危険性」について学びました。ルカによる福音書の18章からのお話でしたが、そこで紹介されたローマの信徒への手紙の中のパウロの言葉を思い出してください。

他人の召し使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか。召し使いが立つのも倒れるのも、その主人によるのです。しかし、召し使いは立ちます。主は、その人を立たせることがおできになるからです。

 パウロもここでもテモテとエフェソ教会に「正しさの危険性」を警告しているのです。今日のテキストによれば私たちに期待されていることは、「真理の言葉を正しく伝える」ことであり「正義と信仰と愛と平和を追い求める」ことです。人と言い争って自分の正しさを証明することではありません。自分の考える正義と信仰と愛と平和を人に押し付けることでもありません。さらに悪いことに、私たちには、自分の考え、自分の正しさを、神様の正しさ、神様の考えと言い換えて人に求めてしまう傾向があります。僕に求められることは、柔順と謙虚です。他の僕を裁くのは主人にお任せしましょう。永遠の命を与えられてはいても、地上でできることには限りがあります。しなくてもいいことをすれば、しなければならないことに充てる時間や労力を浪費することになります。求められていることと求められていないことを知り、求められていることを忠実に行う賢い教会になりましょう。


メッセージのポイント
神様は、キリストを頭とするご自身の体の中に、間違った人々が存在することを許している。私たちはこのことを認めなければなりません。私たちは神様より不寛容で、性急に変わるか、出て行くかと迫りがちですが、それは賢い方法ではないことがこのテキストからわかります。人を変えることではなく、自分が成長することを求めましょう。


話し合いのために
1) パウロは大きな家の器にたとえて何を言いたかったのでしょう?
2) なぜ議論を避けるべきなのですか?

子供達のために
「正義と信仰と愛と平和」の言葉に注目させて、正義は信仰、愛、平和とともに求めるものであることを伝えてください。どんなに自分が正しくても、言い争いをすることは誰の益にもならない。本当に正しいなら、人々にはわからなくても神様はちゃんと見ているから心配しないで、神様に任せようと励ましてください。