<メッセージノート>
信仰の奇跡
池田真理
ルカ4:18-19「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」
A. 叫び続けた盲人 (35-39)
35 イエスがエリコに近づかれたとき、ある盲人が道端に座って物乞いをしていた。36 群衆が通って行くのを耳にして、「これは、いったい何事ですか」と尋ねた。37 「ナザレのイエスのお通りだ」と知らせると、38 彼は、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫んだ。39 先に行く人々が叱りつけて黙らせようとしたが、ますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。
1) ただ叫んだ
2) 他人にかまわず
B. イエス様の奇跡 (40-43)
40 イエスは立ち止まって、盲人をそばに連れて来るように命じられた。彼が近づくと、イエスはお尋ねになった。41 「何をしてほしいのか。」盲人は、「主よ、目が見えるようになりたいのです」と言った。42 そこで、イエスは言われた。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」43 盲人はたちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスに従った。これを見た民衆は、こぞって神を賛美した。
1) 「何をしてほしいのか」と聞いてくださる
2) イエス様がいなければ、私たちはみんな盲人
(詩篇30:12-13)
あなたはわたしの嘆きを踊りに変え
粗布を脱がせ、喜びを帯としてくださいました。
わたしの魂があなたをほめ歌い
沈黙することのないようにしてくださいました。
わたしの神、主よ
とこしえにあなたに感謝をささげます。
メッセージのポイント
私たちはどんな状況にあってもイエス様に助けを求めることができます。この盲人がイエス様に出会うまで光を見たことがなかったように、私たちも希望を失いそうになる時があります。でも、助けを求めるべき相手は誰か、もうよく分かっています。イエス様を求めるなら、喜びのあるはずがないところでも喜びがあり、苦しみの中にも感謝が生まれます。それがイエス様が私たちに何度でも見せてくださる奇跡です。
話し合いのために
1) この盲人の態度から何を学べますか?
2) あなたがイエス様に見せてもらった奇跡は何ですか?
子供達のために
目の見えなかった人が見えるようになるというのは、常識から言えば考えられない奇跡です。そんな奇跡がいつも起こればいいのに、と思ってしまいます。子供達も、自分のことや家族のこと、お友達のことで、病気やけがを治してください、仲直りできますように、と祈ったことがあると思います。それがその通りになれば嬉しいですが、いつも願い通りになるとは限りません。神様に絶対叶えてほしいけれど、難しそうだと思っていることがあるか、聞いてみてください。そんな時でもイエス様を好きでいることは難しいと思います。でも実は、そんな時こそイエス様の奇跡を見るチャンスです。みんながイエス様を嫌いだと思う時、それでもイエス様のところに戻ってこられるとしたら、それはみんなの力ではありません。それがイエス様の力で、イエス様の奇跡です。みんながイエス様を嫌いになっても、イエス様はみんなと共にいたいと願っているからです。
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<メッセージ全文>
信仰の奇跡
池田真理
今日読む箇所は、エルサレムの近くの町エリコで起こった出来事です。これまで故郷のガリラヤから旅を続けてきたイエス様は、とうとう弟子達の心配と反対を押し切ってエルサレムに入ろうとしていました。エルサレムで何がイエス様に起ころうとしているのか、弟子たちははっきりは分かっていませんでしたが、恐ろしいことが起こるというのは感じていました。イエス様ご自身は、前回読んだように、自分が殺される運命にあることをはっきり分かっていました。エルサレムは、イエス様を憎み、敵対視する宗教家たちの本拠地です。エルサレムに入ってからのイエス様は、宗教家たちとの対立を一層深め、最終的に逮捕されて十字架に架けられることになります。今日の箇所はそんなエルサレムに入る直前の出来事として、三つの福音書全てに記録されているエピソードです。イエス様と弟子達の緊張をよそに、ある目の見えない人が登場します。彼がイエス様によって癒されるというのが今日の箇所ですが、単なる癒しのエピソード以上に大切な意味があります。イエス様による体の癒しとしては、役人の耳を癒したという十字架直前の出来事を除けば、どの福音書でもこれが最後の記録です。そして、イエス様の旅の目的がここに集約されていると言ってもいいエピソードです。イエス様の旅の目的は、イエス様自身が旅が始まる前に、イザヤ書を引用してこのように言われました。
ルカ4:18-19「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」
盲目の人にとって視力が回復するということは素晴らしいことです。でも、私たちはみんな、目が見えていたとしても、イエス様がいなければ心の目が見えていないのと同じで、反対に、イエス様によって何度も目を開かされる体験をしてきました。前半と後半に分けて読んでいきましょう。最初に35-39節です。
A. 叫び続けた盲人 (35-39)
35 イエスがエリコに近づかれたとき、ある盲人が道端に座って物乞いをしていた。36 群衆が通って行くのを耳にして、「これは、いったい何事ですか」と尋ねた。37 「ナザレのイエスのお通りだ」と知らせると、38 彼は、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫んだ。39 先に行く人々が叱りつけて黙らせようとしたが、ますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。
1) ただ叫んだ
目が見えず、毎日物乞いをして暮らしていたこの人は、この日いつもとは違う人々のざわめきを耳にしました。そして、うわさのナザレのイエスがやってきたのだと知ると、ただもう叫び始めました。「ダビデの子よ」という呼びかけは、救い主はダビデの家系から出るというユダヤ教の教えをこの人が知っていたから言えた言葉です。でも、イエス様を「ダビデの子」と呼ぶのは、マタイ福音書には何人か出てきますが、ルカ福音書にはこの人しか出てきません。それは、イエス様をダビデの子と呼ぶことを後でイエス様自身が間違っているとしている(20:41-44)から、ルカが好んで使わなかったからかもしれません。ダビデの家系にこだわるということはユダヤ人にこだわるということで、それはイエス様の意図に反します。イエス様はユダヤ人という民族の王にも政治的なリーダーにもなろうとはしませんでした。この盲人はそんなイエス様の思いは全く知らずに、イエス様を「ダビデの子よ」と呼びました。この人にとってはそれがイエス様に対する一番の敬意の表し方だったのかもしれません。そう呼べば、イエス様に、自分はあなたが救い主だと信じています、と伝えられると思っていたはずです。目が見えないので、ざわめきが近づいてきて、イエス様が近づいてきているのがわかっても、正確にどこにいるのかは分かりません。イエス様に自分に気が付いてもらうためには、ただそこで叫び続けるしかありませんでした。
私たちにも、イエス様がどこにいるか分からない時があります。イエス様の声ではないざわめきがたくさん聞こえてきて、混乱する時もあります。そういう時、私たちのするべきことはこの盲人のしたことです。目が見えないまま、そこから動けないままでも、「私はここにいます、助けてください」と叫び続けるということです。それは他の人がどう言おうと関係ありません。それが次に注目したい点です。
2) 他人にかまわず
この盲人が叫び出した時、周りの人は黙らせようとしたと言われています。それまで道端におとなしく座っていた盲人が急に大声をあげて騒ぎ始めたら、人々はぎょっとして当然です。でもこの人は人々に制止されても全くひるみませんでした。それは、この時彼にとっては他人に自分がどう思われるかは全くどうでも良かったからです。彼にとって重要だったのは、イエス様に助けてもらうことだけでした。彼はイエス様に集中していました。私たちがイエス様を求める時も、こういう態度が必要です。周りに何と言われようと、どう思われようと、イエス様に向かって叫び続ける態度です。イエス様にだけは私の状況を分かってもらわなければいけないし、そこに他人が入る余地はなくていいのです。イエス様を求めることに関しては、身勝手と思われてもいいくらいこだわっていいということです。私たちはそれぞれ違った方法で、一対一でイエス様と出会います。イエス様は叫び続ける私たちを排除することなく、必ず出会ってくださいます。後半を読んでいきましょう。
B. イエス様の奇跡 (40-43)
40 イエスは立ち止まって、盲人をそばに連れて来るように命じられた。彼が近づくと、イエスはお尋ねになった。41 「何をしてほしいのか。」盲人は、「主よ、目が見えるようになりたいのです」と言った。42 そこで、イエスは言われた。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」43 盲人はたちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスに従った。これを見た民衆は、こぞって神を賛美した。
1) 「何をしてほしいのか」と聞いてくださる
イエス様は、この盲人が何を望んでいたのか、知っていたはずです。でもあえて「何をしてほしいのか」と尋ねました。それは、イエス様がこの人のことを単に通りすがりに出会った一人の盲人としてではなく、愛するべき一人の人として尊重しているからです。イエス様は私たちに同じようにして下さいます。助けを求める私たちをそのままにして通りすぎることは決してありません。自分のそばに呼び、そして「何をしてほしいのか」と尋ねられます。イエス様がなんでも知っておられる神様なら、本当は私たちが何を望んでいるのか、わざわざ聞く必要はありません。でも、イエス様はあえて聞いてくださる方です。そして一人ひとりの問題に具体的に関わってくださいます。今私たちは、イエス様に何をしてほしいのか、何から助けてほしいのでしょうか。この盲人のように体の癒しが必要な人も多くいます。学校や仕事で大きな問題にぶつかっている人もいます。壊れてしまった人間関係を立て直そうとしている人もいます。私たちはそういう全ての嘆きと願いを、神様に打ち明けて良いということです。
でも、残念ながら、神様は私たちの願いを全て叶えてくださるわけではありません。盲目の人が一瞬で見えるようになるというような奇跡は、私たちの現実の中ではなかなか体験できることではありません。自分の、あるいは大切な人の病気を癒してくださいと切実に願いますが、神様が癒してくださらない病気があるというのも現実です。なぜ癒してくださらないのか、なぜそもそも病気にかからせたのか、怒りさえ覚える時もあります。体の癒しだけではなく、心の傷もそうです。心に傷のない人はいません。私たちは誰でも人間関係の中で傷ついています。そして、その傷は時にあまりに根が深くて今の自分の一部になってしまっていて、そこから自由になることは決してないんじゃないかと感じる時があります。ここにいる皆さんは、そういう何かしらの嘆きや憤りを知っているから、ここにいらっしゃるのだと思います。私たちはみんな、イエス様がいなければ光を失い、真っ暗な世界に行ってしまいます。私たちは、イエス様なしには目が見えないということです。
2) イエス様がいなければ、私たちはみんな盲人
今日最初にお話しした盲人の態度を思い出してください。イエス様がどこにいるのか、自分はどこへ行けばいいのか分からなくても、そこから全く動けなくても、「私はここにいます。憐れんでください。」と叫ぶことはできます。他の人がなんと言おうと、いろいろな雑音に邪魔されそうになっても、イエス様に求め続けてください。現実にある問題がすぐに変わらなくても、あきらめないでください。イエス様は必ず答えて、私たちの目を見えるようにしてくださいます。それは、たとえ現実の問題が変わらないとしても、神様は常に良い方だと分かるようになるということです。これは、決して私たちが自分の力でできることではありません。イエス様が私たちに起こしてくださる奇跡です。「見えるようになれ」と言われた盲人がたちまち見えるようになったように、ありえないことかもしれませんが、イエス様には起こせる奇跡です。
イエス様はこの盲人に、「あなたの信仰があなたを救った」と言われました。盲人が見せた信仰とはなんでしょうか?ただ叫び続けて、「見えるようになりたい」と願い出たことだけです。私たちは自分で自分を救うことはできません。でも、助けてくださいとイエス様に願うなら、イエス様は必ず助けてくださいます。そして、見えない人に光を与え、不可能と思われていたことを可能にし、絶望を希望に変えます。イエス様を求めるなら、喜びのあるはずがないところでも喜びがあり、苦しみの中にも感謝が生まれます。それがイエス様が私たちに何度でも見せてくださる奇跡です。この奇跡によって私たちは何度でも立ち上がります。そして立ち上がった私たちを見た多くの人たちにも力を与えることができます。それは全て、神様の力です。最後に、詩篇に記録されているダビデの詩を読んで終わりにしましょう。
(詩篇30:12-13)
あなたはわたしの嘆きを踊りに変え
粗布を脱がせ、喜びを帯としてくださいました。
わたしの魂があなたをほめ歌い
沈黙することのないようにしてくださいました。
わたしの神、主よ
とこしえにあなたに感謝をささげます。
メッセージのポイント
私たちはどんな状況にあってもイエス様に助けを求めることができます。この盲人がイエス様に出会うまで光を見たことがなかったように、私たちも希望を失いそうになる時があります。でも、助けを求めるべき相手は誰か、もうよく分かっています。イエス様を求めるなら、喜びのあるはずがないところでも喜びがあり、苦しみの中にも感謝が生まれます。それがイエス様が私たちに何度でも見せてくださる奇跡です。
話し合いのために
1) この盲人の態度から何を学べますか?
2) あなたがイエス様に見せてもらった奇跡は何ですか?
子供達のために
目の見えなかった人が見えるようになるというのは、常識から言えば考えられない奇跡です。そんな奇跡がいつも起こればいいのに、と思ってしまいます。子供達も、自分のことや家族のこと、お友達のことで、病気やけがを治してください、仲直りできますように、と祈ったことがあると思います。それがその通りになれば嬉しいですが、いつも願い通りになるとは限りません。神様に絶対叶えてほしいけれど、難しそうだと思っていることがあるか、聞いてみてください。そんな時でもイエス様を好きでいることは難しいと思います。でも実は、そんな時こそイエス様の奇跡を見るチャンスです。みんながイエス様を嫌いだと思う時、それでもイエス様のところに戻ってこられるとしたら、それはみんなの力ではありません。それがイエス様の力で、イエス様の奇跡です。みんながイエス様を嫌いになっても、イエス様はみんなと共にいたいと願っているからです。