*1999年11月第1週メッセージノート*

いっしょにいたい人(ヨハネの手紙 I I )         

A. それはどんな人? (1-3)

1、心を豊かにしてくれる人(永遠の命を知っている)

2、憐れみ深い人(完全な赦しを体験している)

3、いっしょにいると平和で安らかな気持ちになれる人

B. あなたもそうなるために

1、愛の戒めを歩んでいるか?(4-6)

2、信仰の焦点はずれていないか?(7-9)

3、真理について妥協していないか? (10-11)

 

*メッセージのポイント*

 イエス様の弟子として着実に成長し、歩んでゆきたいと願うなら、イエス様がそうであったように「人のニーズを見出して、それを与える人」になる努力をたゆまず続けることです。そのために大切な三つの原則を今日の聖書の箇所で学びました。「互いに愛し合うこと」「信仰の原点に踏みとどまること」「真理について妥協しない」ということです。

 

*ミニチャーチのためのヒント*

1、愛と戒めとは同じことなのですか?

2、イエス様の教えを通り過ごしてしまうとはどういうことなのでしょうか?

3、真理において妥協しないことと、態度が狭く独善的にならないことと両立させるには

ディボーションノート―神様との親しく静かな時を持つためのヒント―
 ディボーションノートは毎日聖書を読み続けるための助けです。聖書箇所は金曜日のメッセージに沿って選ばれています。文章は書いた人が神様から受け取ったものですから、あくまでもヒントです。必ず(!)、はじめに聖書箇所を読み、その日のみことばからのメッセージをあなた自身が神様から受け取ってください。そして、それをぜひ誰かに(ミニチャーチなどで)シェアしてください。

11月6日(土)ヨハネの手紙二 1〜3/箴言 22:22〜26

 夜、机に向かい「この仕事を片づけてしまおう。」と意気込んでいるときに限って、2階にいる子供が寝つけずに泣き始め、お呼びがかかります。そんな時子供の所へ行くのを渋ったり、めんどくさいという気持ちで嫌々行くことがあります。しかし子供を抱きながら寝顔を見ていると、気持ちを切り替えて、すぐにきてあげれば良かったといつも後悔します。自分の立てた計画や予定を邪魔されたくという気持ちは誰もが持っています。自分の計画にこだわり、それを優先しようと思う時、多くの場合自分本意で自分自身を愛している状態に陥ります。しかし神様が私に求めているのは人を愛し仕えることです。イエス様の言われる通りに友のために自分の命を捨てる時に、こんな私でも「恵みと憐れみと平和をもたらす者」となれるのです。

11月7日(日)ヨハネの手紙二 4〜5/ペトロの手紙二 3:14〜18

 私が神様に望まれていることははっきりしています。「愛しなさい」というとてもシンプルな要求です。「愛する」とは自分自身を相手に与えることです。神様ご自身が私にして下さったように。夜になると、今日誰かに自分自身を与えただろうかと、一日を振り返ります。家族に対して、教会の仲間に対して、友達に対して、出会った人に対して・・・思いやり、助け、なぐさめ、励まし、自分の時間や能力を与えただろうか?惜しみなく、できる限りをしただろうか?残念ながら、ベストを尽くしたと堂々と言える毎日ではありません。時には最も愛しやすい家族に対してさえも、振り返ると後悔してしまうような態度をとってしまうのです。けれど私はやっぱり神様について行きたいのです。愛に歩みたいのです。神様をがっかりさせてしまった時は素直に謝り、明日という新しい日が来ることを感謝して眠ります。「愛する」ことは難しいけれど、神様に向かい成長するというとても挑戦する価値のあることです。

11月8日(月)ヨハネの手紙二 6〜7/テモテへの手紙一 4:1〜5

 「愛に歩む」とはどういうことでしょうか?ひとつは、私たちが第一ヨハネの手紙で学んだように、互いに愛し合うということです。そして、もうひとつ忘れてならないのは、神の教えに妥協しないで生きるということです。あるクリスチャンの知人で神様をとても愛している人が、一度くらいという思いで占い師に見てもらいました。その占いの影響で彼女は心が乱され、ひどく苦しむ結果となりました。イエス様という真理から一瞬目を離しただけでサタンはそこにつけこんできたのです。このような人を惑わす霊や、キリストの教会を「サタンの勢力」と言って攻撃する反キリストに出くわしたとき、そこには真理がないとはっきり伝える必要があります。愛とあわれみに満ちたイエス様でさえも、神に反する悪の力に対しては決して妥協せず、厳しい言葉でしかりつけました。いつもイエス様とともに、妥協することなく愛と真理のうちに歩み続けたいです。

11月9日(火)ヨハネの手紙二 8〜9/ヨハネの手紙一 2:26〜29

 なぜ初代教会から今も尚クリスチャン同士の交わりが大切と言われ続けたのかと考えるとき、助け合うという意味ももちろんですが、ACCOUNTABILITY(責任、報告、説明)がもっとも要求されるからだと思います。日本語での表現は難しいのですが、同じ信仰を持っている友人や仲間とある時は言動や行動についてちゃんと報告しあい、お互いに注意し合うことだと思います。そういった交わりの中では、もし神様の教えから少しでもそれていってしまったときは、信頼する仲間からの戒めを受けることができます。相手が信頼できるということも、交わりを持つ中でにその関係を育んで行かなくてはなりません。時間をかけて知り合うほかに術は無いのです。尊敬できる人、信頼できる人2〜3人、少なくとも一人のそういった友人との交わりを定期的に持つことは、私達の信仰生活のライフラインとなるのです。一人っきりで生きていけないように神様が私達をお造りになったのは、その中で互いを愛し合う喜びを私達にお与えになりたいからですね。

11月10日(水)ヨハネの手紙二10〜11/コリントの信徒への手紙二11:1〜11

 以前エホバの証人の人が家を訪れたことがあります。普通の日の午前中なのに小学校低学年の子どもを連れて、ご一緒に聖書の勉強をしませんか?ということでした。クリスチャンになったばかりの頃で、彼らがイエス様を主とは信じていないグループだとは聞いていましたが、どのように対応したらよいか分からず、余裕もなくただ「結構です」と追い返してしまいましたが、あのような対応でよかったものかと、あとからくよくよ考えました。でもあのときの自分の信仰や聖書の理解度を考えるとあれでよかったと思います。今また訪問を受けたら、お茶でもさしあげて丁寧に話を聞いて、最後に自分も(!)クリスチャンで教会に通っていてとても喜んでいることを簡潔に伝えて、「お友達を連れてまたきて下さい」というでしょう。エホバの証人、モルモン教、統一教会など世の中にはキリスト教の一派と理解されている人たちへの伝道は相手や、自分の状況によって全く違ったアプローチが必要です。ウイリアム・ウッドさんの本がとても参考になります。

11月11日(木)ヨハネの手紙二 12〜13/ルカによる福音書 24:28〜35

 パウロはたくさんの手紙を新約聖書の中に遺していますが、直接語りたい教えたいという情熱は常にあったのです。それは信じる者が語り合うときに、イエス様も臨在してさり、その臨在によってイエス様しか与えることの出来ない喜びに満たされることが出来ることをよく知っていたからでしょう。 私たちのミニチャーチは、そのためにあるのです。時々私たちの心は他のいろいろな事に占領されてしまって、イエス様のことを思ったり、話したりすることができない状態になります。信じていても気づかないうちにイエス様と距離ができてしまうのです。ミニチャーチにはいつもの自分のままで来て、安心して話したり聞いたりまた祈ることができて、帰る時には励まされて前よりも元気な私がいる・・・そういう場所です。 愛が冷え、この世界がもっとイエス様から遠くなっている今、イエス様の愛で励まし合い神様の力や素晴らしさを確認できるこのミニチャーチを、さらに大切に育てていきましょう。