*1999年11月第2週メッセージノート*

真理のために共に働く(ヨハネの手紙 III)   

A. 真理に歩く(1-4)

1、魂が恵まれている教会

2、魂が健康な教会

3、真理に歩んでいる教会

B. 真理のために共に働く

1、よそからきた人に誠意をもって尽くす教会

2、送り出し支える教会

3、真理のために共に働く教会

 

C. 真理が善を指し示す

1、自己中心や名誉欲にとらわれない教会

2、善悪を識別できる教会

3、善を行う教会

*メッセージのポイント* 

教会がいつでも健康で生き生きしているかどうかということは、私たち一人一人の魂の健康と深くかかわり合っています。それは身体の一つ一つの器官とそれが組み合わされてできているからだ全体との関係に似ています。体全体は器官が働けるよう必要なエネルギーを供給します。それぞれの器官が弱っていると、次第に体全体に影響を及ぼし健康が損なわれます。特に一人一人のビタミンI(愛)、B(聖書)、P(祈り)、W(ワーシップ)の不足は教会全体に深刻なダメージを与えます。

*ミニチャーチのためのヒント*

1、ユアチャーチの働きの目的は?

2、どうやって心の健康を維持しますか?

3、健康な教会とはどんな教会ですか?

*ディボーションノート*
―神様との親しく静かな時を持つためのヒント―

 ディボーションノートは毎日聖書を読み続けるための助けです。聖書箇所は金曜日のメッセージに沿って選ばれています。文章は書いた人が神様から受け取ったものですから、あくまでもヒントです。必ず(!)、はじめに聖書箇所を読み、その日のみことばからのメッセージをあなた自身が神様から受け取ってください。そして、それをぜひ誰かに(ミニチャーチなどで)シェアしてください。

11月13日(土)ヨハネの手紙三 1〜4/テモテへの手紙一 6:11〜20

 先週は「愛に歩む」 ということを学びましたが、今週は「真理に歩む」とあります。さて、具体的にはどういうことなのだろうかと首をかしげながら、第一テモテの参考聖句の箇所を読んでみました。神様から、こうしなさいということが色々と書いてあります。そうかなるほどと思ったのですが、私はそのうちの何一つとして満足にできていないし、熱心に求めてもいないように感じました。でもその時、それは自分の力ではできないことなのだ、イエス様なしではできないのだと気づかされたのです。愛に歩むことも、真理に歩むこともイエス様がいるからこそできるのです。イエス様ご自身が「私は真理である」とおっしゃいました。いつもイエス様の近くにいて、心を開いて、耳を傾けて、力をいただいて、一緒に歩む。それが真理に歩むということではないでしょうか。そうしてこそ初めて、神様が望まれるような生き方ができるようになるのです。できない弱い私を責めるのではなく、励まして可能にしてくださる方に、より頼んで生きることが第一歩です。

11月14日(日)ヨハネの手紙三 5〜6/使徒言行録 20:17〜24

 私自身そんなにいくつもの教会に属したことはありませんが、教会を大きくする、つまり会員を増やすことを重視しているところが多いようです。もちろんそれも大切ですが、教会に集まっている人達を育て、送り出すことも大事だと思います。多くのクリスチャンの人々は既に十分育っているし、知識の面でも十分に備わっていることでしょう。しかし、もう少し癒されてからとか、もう少し勉強してからと思っている人が大半のようです。実践する中で学ぶことが大部分のはずです。宣教はキリスト者全員に与えられた召しではありませんが、証をすることは私達全員に与えられた働きだと思います。教会の外に目を向けられるよう心がけたいですし、何よりも主にその勇気と愛をいただきたいと祈りましょう。

11月15日(月)ヨハネの手紙三 7〜8/使徒言行録 20:25〜38

 たいていの日本人にとっては「宣教師」と言えばフランシスコ・ザビエルといったように「来る」人を思い浮かべるのが普通です。でも日本のクリスチャンがそう思っているとしたら、それは少し残念な事ではないでしょうか?宣教師に来てもらうということは、まだ自分たちが霊的に大人ではないから、経済的に牧師を支えられないからボランティアできて面倒を見てくださいということです。私は日本の教会はもう受ける教会ではなく、送り出す教会であることを求められていると思っています。あなたは自分が宣教の働きに召されていると考えたことはありませんか。日本に来る宣教師、日本から行く宣教師。広い意味ではそこで教育や、医療に従事する者も含まれていますが、そこに教会を形成する働きが中心となります。経済的なサポートやとりなしの祈りなしには進まない働きです。ユアチャーチの献金の10%は海外での宣教のために献げられています。

11月16日(火)ヨハネの手紙三 9〜10/詩編 140編

 教会にもそれぞれ家風のようなものがあります。牧師が王様か独裁者のように君臨している教会もあれば、どんなに小さなことでも牧師は役員たちに相談しなければことが進まない教会もあります。その両方の極端を警戒して中間的な立場をとる教会もあります。どんなかたちのリーダーシップが良いのかは分かりませんが、そのミニストリーがどんな実を結んでいるかで判断できるのではないでしょうか? 残念ながら、スキャンダルを起こしたり、聖書の教えからだんだんそれていってしまう牧師たちがいます。教会の指導者も人間であり、間違いを犯すことがあります。更に間違えに気づかず人の忠告を聞き入れることのできない状態に陥ることもあり、キリストの体を傷つけたり不健康なものにしてしまうこともあります。リーダーたちのために特に牧師のために「常に御心にかなって歩める」ように祈る習慣を持って下さい。

11月17日(水)ヨハネの手紙三 11〜12/アモス書 5:10〜15

 子は親の鏡と言われるように、子供の言葉づかいや行動を観察していると自分とそっくりだと思うことが多くあります。幼い子供はまず最も近くにいる親の行動を観察し、模倣して自分自身の行動パターンを築きます。良くも悪くも親を見習うことが子の成長そのものであると言えるでしょう。私自身、もっと幼い子供のようになりたいと思います。私達の父は間違えなく見習うのにふさわしい方ですから、子供と親の関係のように、父である神様だけを純粋に見てイエス様を模倣したいと思います。度々イエス様以外のことに目が向いてしまうときがありますが、もっとイエス様に集中できれば愛が動機となる本当の善を行えると思います。

11月18日(木)ヨハネの手紙三 13〜15/フィリピの信徒への手紙 4:8〜9

 私達は誰でも自分の心に、そして自分をとりまく人間関係や、環境に平和を求めます。平和はどこからか、いつの間にかやってくるものでしょうか?私達が信頼する神様は「平和の神」だと聖書にあります。その神様に共にいていただくために、私達に求められていることがいくつかあるのです。フィリピの信徒への手紙を読むと、心に留めるべきこと、実行するべきことが分かります。 私はつい先日、心に平和が無くなり、代わりに不安と悪い想像で苦しくなってしまいました。今考えると、その時私が心に留めたことは、聖書に書かれていることと反対のことばかりでした。自ら平和の神様から離れるようなことをしてしまったのです。 心が思い煩いや不安で一杯のとき、家庭や職場などに平和が無いとき、このみことばに戻って自分を振り返り、もっと熱心に平和を求める者になりたいと思いました。