*1999年12月第1週(99/12/03)メッセージノート*

重い言葉(ヨハネによる福音書1:1-5、エレミヤ17:5-8)

1. 言葉の深い意味を考えよう(1) 

1、言葉は人格の一部

2、私たちが口に出す言葉の起源 

3、神と共にあり、神である言葉(2)

2.言葉の力(3-4a)

1、世界を創り保つ言葉(創世記1:2- 2:4)

2、命を創り保つ言葉(4a)

3、あなたを創り導く言葉

3. 人の道を照らす言葉(4b-5)

1、歩む方向を示す(4b)

2、あなたを輝かせる(イザヤ60:1-5)

3、無視することもできるが(5、エレミヤ17:5-8) 
 

*メッセージのポイント* 

 意志を伝えるために言葉は不可欠なものです。神様の意志を知り行うためにも、それは例外ではありません。でも神様の言葉は普通耳には聞こえません。
神様はその意志を伝えるために、ご自身の意志を伝える言葉としてイエス様をこの世界に送られました。とはいえ目に見えるイエス様に直接聞くことのできた人は、その時代も地域も限られていました。今、私たちは聖霊の導きに照らされ聖書から神様の意志を知ります。そうして私たちは反射する光のように神様の恵みを輝かせる人となれるのです。

*ミニチャーチのためのヒント*

1、イエス様はなぜ神の言といわれるのでしょうか?

2、どうしたら神様の輝きを持つものとして歩めますか?

ディボーションノート
―神様との親しく静かな時を持つためのヒント―

 ディボーションノートは毎日聖書を読み続けるための助けです。聖書箇所は金曜日のメッセージに沿って選ばれています。文章は書いた人が神様から受け取ったものですから、あくまでもヒントです。必ず(!)、はじめに聖書箇所を読み、その日のみことばからのメッセージをあなた自身が神様から受け取ってください。そして、それをぜひ誰かに(ミニチャーチなどで)シェアしてください。

12月4日(土)ヨハネによる福音書 1:1/ヤコブの手紙 3:6〜12
何気なく発した言葉が簡単に人を傷つけてしまいます。誰でも「口は災いのもと」を思い出し自分の口から出た言葉を反省した時があると思います。逆に黙っていて、人間関係が悪くなる時もあると思います。口数が少ない分「災い」は少ないですが、自分の気持ちが十分相手に伝わらないために、不安にさせたり、誤解が生じたりします。どちらも神様が備えてくれた表現という手段を上手に使っていない状態です。しゃべることも黙っていることも、どちらが良いか悪いか決めることはできません。ただ口を神様にコントロールしてもらえば適切な時に適切な言葉を選ぶことができると思います。思いやりのある本当に必要な言葉が与えられ、それがたとえ拙くても相手に自分の気持ちを正確に伝えることができると思います。神様の言葉はイエス様という人を永遠に生かす言葉です。私達の言葉も神様にコントロールしてもらえば人を永遠に生かす力となり得るでしょう。

12月5日(日)ヨハネによる福音書 1:2/イザヤ書 7:10〜14
言葉は気持ちを伝えるだけでなく、人を励まし、支え、考えたり頭の中を整理したりすることを助けます。神様は2000年前、神様の愛の表現として言葉を人に伝えました。イエス様という目に見える形で。今、私達はイエス様を直接見ることはできませんが、聖書を通してイエス様の生き方、メッセージを知ることができます。聖霊を通して神様のメッセージを感じることができます。それらは全て、私たちを励まし、支え、助けてくれる神様の言葉です。誰かがちょっとほめてくれたりしただけでやる気が出てきたりしますが、神様の言葉はその何倍もの力強さで私達を支えてくれるのです。毎日神様の言葉を求め、吸収し、私自身が神様の言葉となって、人に愛を現せるようになりたいと思います。

12月6日(月)ヨハネによる福音書 1:3/創世記 1:1〜2:4
猫を洗濯機で洗っちゃったとか、電子レンジで乾かそうとしたなんて話がありますが、どんなに優れた機械でも作った人が考えた使用目的や方法を間違えば害になるだけです。コンピュータや電気製品を新しく買ったとき、あなたはマニュアルをじっくり読んでから使い始めますか? それとも取扱説明書は困ったときだけ開く主義ですか?神様との関係においてはどうでしょう。マニュアル(聖書)を読むだけで何もしないなら、イエス様の弟子ではありません。でもろくに読まずに、勝手に「みこころ」を行ってるつもりでいるのはもっと危険で迷惑な存在です。わたしたちが出来あがったもの(世界)だけを見て勝手に使う時にトラブルが起こります。創った人の意図を理解して用いる時に、有効に活用できるのです。この神様の意志を知るためにはイエス様につながるほかに道はありません。

12月7日(火)ヨハネによる福音書 1:4/イザヤ書 60:1〜5
小学校の頃、誰かが授業中に手鏡を窓から入ってくる太陽の光に反射させて人に当てるようないたずらをしていたことがありました。ちょっとした手の動きで鋭い光が動いたり、また消えたりしました.この鏡自体は暗闇の中にあれば自分で輝くことは出来ません。わたしたちがこの世界で輝くような存在になれるとしたら、同じように自分の努力や経験、名誉を磨こうとするよりも、消えることのない命の光イエスさまと、人々との間に立って心という鏡の角度を注意深く調整して、イエス様を最大限に受け止め、その愛を最大限に人々の中にあらわすことに心を注ぐことが大切なのだと思います。またその鏡自体がくもると光を弱くしてしまうように、イエス様との関係が希薄ならばどんなに働きのピントが合っていても、力のない働きになってしまいます。聖霊の力で心という鏡をピカピカに磨き上げ、聖霊の知恵で正しい角度になるよう、いつも微調節を忘れずにいたいと思います。

12月8日(水)ヨハネによる福音書 1:5/使徒言行録 7:51〜60
何も見えない真っ暗な闇の中にいるとします。そこに一筋の光が見えたら、私たちはその光を求めて近づいていくことでしょう。暗闇で迷っていた私を神様のもとへと導いてくださったのは、まさにその光であるイエス様でした。 ところが、せっかくそこに光があると知りながら、闇の中にとどまることを選ぶ人がいることは、悲しいけれど事実です。使徒言行録を読むと、聖霊に満たされて光を証ししたステパノが石打ちにされ殺される場面がでてきます。しかし、ここに驚くべきイエス様の深い愛と力を見ることができます。ステパノは最後まで自分を迫害する人たちのために祈っていたのです。闇は決して光に勝つことはありません。

12月9日(木)エレミヤ書17:5〜8/ヨハネによる福音書 15:16〜17
どんなに一生懸命に祈っても自分が事故にあったり、家族、特に小さな子供を病気などで亡くしたりした人に神様を信頼していれば万事O.K. と軽々しくは言えません。しかし、実はそうなのです。一つの出来事だけを見ると「神様はなんてひどいことが私達に起こることを許されたんでしょう」となげくでしょう。でも父なる神の私達のためのご計画は一生どころか、永遠の単位なのです。ある本で読んだのですが、9人のアメリカの大富豪達の最期はなんと全員悲劇的なのです。一人残らず、行方不明、自殺、実刑、倒産の末非常な貧困に墜ちて死亡、あるいは発狂したりなどと、一時は大成功者達と思えないほどです。「人間に信頼し、肉なる者を頼みとし」た人々は、この世の基準で成功していようといまいともれなく悲しい結末を迎えるのだということです。その反対に注目したいですね。どんな状況にいようとイエス様を見上げ、つながっている人は7、8節が約束されているのです。それを思うだけで神様のあたたかい愛で私の心は満たされ、平安と喜びが沸き上がってくるのです。