*2000年1月第3週メッセージノート*
ラルフ モア師のメッセージ要約
(マタイによる福音書9章9-17節、35-38節)
 日本の教会の課題はどこにあるのでしょうか?教会人口はやはり少しづつながら減り続けています。しかしクリスチャン人口は増えているという統計もあります。それによると以前は、自分がクリスチャンだと認める人のうち半数が教会に所属していたのですが、いまでは30パーセントしか教会につながってはいないということです。このことは、問題の所在が伝道の不足なのではなく、むしろ教会のあり方にあるということを示しています。ベトナム戦争末期からアメリカでは多くの若者が本当の生き方をもとめて主を信じましたが、多くの教会は彼らの服装や趣味、嗜好のゆえに受け入れることができなかったのです。教会は知らず知らずのうちに、あのパリサイ人(9-11)のようになってしまってはいないでしょうか?罪人が罪人のままで歓迎され、後に聖霊によって内面が清められてゆく。イエス様はそのような機能を教会に期待しておられるのに、教会は健康でこざっぱりした人だけが歓迎されるところになっていないでしょうか?

 ただこのことを牧師が反省して、突然そのような新人類を受け入れるためにすべての力をそそぎ込んだとしたら何が起こるでしょう。それは、古いリーバイスのジーンズに新しい布を当てるようなもの、新しいぶどう酒を古い革袋に入れるようなものです。どちらにとっても不幸な結果を招いてしまいます。古いことが悪いといっているわけではありません。古い革袋にはそれなりの存在意義があり役割があるのです。(16-17)

 そこで私たちが考えるべきことは、新しい革袋の教会を増やしてゆくことです。いまあなたが教会の責任を担っているなら、自ら新しい革袋になれなくても教会を生み出すことができるようになるために体質改善することです。そのためには、人々を取り込むことではなく送り出すことに力を注ぎましょう。互いに密かに教会の誰かが牧師、宣教師、リーダーとなって送り出されるよう祈りましょう。組織を固めるために育てるのではなく、送り出すために育てましょう。

この考え方はイエス様が弟子たちに期待した考え方です。イエス様に心を開いているにもかかわらず教会の姿勢のゆえに迷っている羊に対してわたしたちには責任があります。「収穫は多いが働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」(35-38)
 

*ディボーションノート番外編*
 今週のメッセージは、ホープチャペル・カネオヘのラルフモアです。聖書箇所が事前に分からなかったので、普段のディボーションノートはお休みです。 今週は、ラルフが私たちに今まで教えてくれた大切な教会にの概念について考えさせられるテキストを使徒言行録から取り上げました。ラルフのメッセージと合わせて振り返り、私たちの、そして自分自身の今年の歩みについて考えてみましょう。

1月22日(土)使徒言行録 2:40-44 
 教え、交わり、祈りがバランス良くある教会が主に用いられやすい教会です。つまり礼拝、ミニチャーチ、そして一人一人の祈りと愛の実践が主に用いられるのです。愛は様々な行動になって始めて目に見える形となります。

1月23日(日)使徒言行録 3:1-10 
 わたしたちは自分が主から与えられた物をあまりにも過小評価していないでしょうか? 私たちがたとえ乏しくても、持っているものを用いる時に主は必要なら超自然的な奇跡をそれに加えて助けてくださるのです。

1月24日(月)使徒言行録 4:32-37 
 ここにミニチャーチの理念、素晴らしさを見ることができます。あなたのミニチャーチでは誰かの必要のために時間や富、労力が惜しみなく使われていますか?バルナバ(慰めの子)と呼ばれたヨセフの生き方を他の個所からも、学んでみましょう。 

1月25日(火)使徒言行録 6:1-7 
 牧師の仕事は、皆がそれぞれにゆだねられている羊を愛を持って養うことが出来るように養い教え環境を整えることです。つまり羊飼い養成です。羊飼いは、御言葉に従って羊を養うわけですから、牧師は皆が聖書から学んだ愛を実際の生活の中で生かしてゆくことを訓練するのです。

1月26日(水)使徒言行録 8:1-5 
 大迫害というようなマイナスの事態にあっても、散らされていった人々はそこでイエス様を宣べ伝えました。私たちはいつのまにか自分の生活の快適さに、出ていって伝えるということがおっくうになってしまいます。自分が慣れ親しんだところから出てゆくことや、親しい人を送り出すことに消極的になることはみこころではないのです。

1月27日(木)使徒言行録 15:36-41
 私たちは議論をして自分の意見を否定されるとなにか自分の人格までも否定されたような気持ちになってしまい、「もうあんな人の顔などみたくない」というところまでいってしまいがちです。このことがどれほどキリストの体を傷つけ、日本の伝道を妨げてきたでしょうか?パウロとバルナバは違います。意見の違いを多角的伝道に生かしていったのです。