*2000年2月11日メッセージノート*
こんな教会になりたいシリーズ I
新しい革袋=次世代に開かれた教会

シリーズの予告
1. 次世代に開かれた教会=新しい革袋(今回) 
2. いやす教会=心の傷を癒し、霊的健康を取り戻す働きを行う(シリーズ II )3. 育てる教会=一人一人が与えられた賜物を用い仕えることができるように(シリーズ III )
4. 送り出す教会=国内外に牧師、宣教師、働き人を送り出す(シリーズ IV )

A 目的なしに力強い行動は生まれない(出エジプト3:16-18a)

教会は伝統・個人・財政・プログラム・建物・伝道のためではなく与えられた目的を達成するために働く

・教会のおかれている目的の中心は変わらないが、地域や時代によってアプローチは異なる。

・私たちのアプローチはインターナショナルであること、次世代に仕えること(コリントI 9:19-23)

B 次世代に開かれた教会のブループリント 
 ユアチャーチのメンバーは自分に心地よい教会であるよりこれから救われる若い世代が受け入れやすい教会であることをめざし、信仰の本質に係わること以外は大胆に時代のニーズに応えて行きます。

・特定の年代のファッションや言葉に偏見を持たないこと

・礼拝のスタイル・集会のあり方についての固定観念にとらわれないこと

・教会でしか通用しないような特殊な表現を避けること(コリントI 14:23-25)

・言葉・リズム・メロディーの面で新しいワーシップソングを生み出してゆく こと(詩編 33:1-3)

・経済的に余裕のある世代が、そうではない世代のミニストリーのために大胆 に捧げ、犠牲を払ってゆくこと(コリントII 9:6-15)
 

これらのことによって新しい革袋(柔軟な教会)として新しいワイン(新人類)を育てるのにふさわしい教会をめざします。

C 私たちに求められていること(善いサマリヤ人のたとえから)
(ルカ10:25-37)

・愛、受け入れ、赦し

・柔軟性

・大胆さ、リスクを恐れないこと

・責任感

・犠牲を払うこと

・ユニークであること

*メッセージのポイント*
 キリストの体である教会は、世界に一つだけです。しかし目に見える教会はたくさんあるばかりでなく、どれも違っています。それは、それぞれの教会がそれぞれ異なった役割を果たすためです。大切なことは私たちの教会がどのようなヴィジョンを持っているのか知って、そこで癒され、養われ、与えられた任務を果たすために世に出てゆくことです?

*ミニチャーチのためのヒント*
1)ユアチャーチがどんな教会か誰かに説明するとしたらあなたはどう表現しますか?
2)これからの教会の働きとしてどのようなことを行ってゆくべきか?みんなでアイディアを出し合ってみてください

ディボーションノート―神様との親しく静かな時を持つためのヒント― ディボーションノートは毎日聖書を読み続けるための助けです。聖書箇所は金曜日のメッセージに沿って選ばれています。文章は書いた人が神様から受け取ったものですから、あくまでもヒントです。必ず(!)、はじめに聖書箇所を読み、その日のみことばからのメッセージをあなた自身が神様から受け取ってください。そして、それをぜひ誰かに(ミニチャーチなどで)シェアしてください。

2月12日(土)出エジプト記 3:16〜18  
 入学試験の季節です。高校、大学はもちろん、私立の中学や小学校でも激しい競争に勝ち抜いてはじめて入学が許されます。「今耐えれば志望校に入れる」という期待が忍耐を生み出し、長い受験競争を走り抜けることができるのです。しかし本当の競争は一生終わることはありません。大学受験を人生の目標に走った人が合格したとたんに目標を失って「5月病」になってしまったという話をよく聞きます。私たちにとっての約束の地は就職でも、子供を育て上げることでも、安楽な老後でもありません。神様の意志を行って、与えられた命を一生かかって完全燃焼することを神様は私たち一人一人に期待しておられるのではないでしょうか?私たちの本当の目標は、人生のある時点で達成できるものではありません。あなたは永遠の目標を持っていますか?「クリスチャンは神様と共に歩む」という永遠の恵みの課題を与えられて歩んでいます。

2月13日(日)コリントの信徒への手紙一 9:19〜23  
 大きな「神の国(神の支配)」の中には様々な違った働きが用意されています。つまりそこに生きる私たちにとっては、いろいろなことができる可能性があるということです。神様は一人一人に異なる願いや力や機会を与えてくれますし、また教会という一つの共同体にもそのようにして導いてくださるのです。 私たちが仕えるこの教会のアプローチは「インターナショナルであること」また「次世代に仕えること」です。まず最初に何が最も大切なのか考えてみました。それは私たちの「姿勢」だと思います。ラルフ・モアが言っていました。「私の教会に老人(old people)]はいらない。」つまり何歳であっても(たとえ若くても)古くて固い心にならないで、柔軟でオープンな心でいたいということです。また英語ができるとかできないとかではなくて、神様が愛しているすべての人と喜びを分かち合おうとする態度です。実際私たちの心は自分で思うよりももっと狭くて、偏見があって、限界を感じることもよくありますが、神様にその限界を広げていただく必要があるでしょう。 私たちの周りにいる様々な人種と次の世代に生きる人々に届き、神様の素晴らしさを紹介するために、今置かれているこの場所を喜んで、さらにこれからの歩みに期待したいですね。

2月14日(月)詩編33:1〜3、エペソの信徒への手紙5:19、ヨハネによる福音書4:23〜24  
 教会生活において新しい歌を持つことは大切です。それが、その教会の人によって書かれたものであっても、教会以外の人のものであってもかまいません。新しい歌は新しい方法で私たち自身を表現することの助けとなります。ひいては、霊的な成長の助けとなります。神様は私たち皆にクリエイティブな賜物を与えて下さっていますから、それを発見し用いていくことを学ぶ必要があります。ワーシップをしている時に、聖霊によって促されて生まれる新しい歌もありますが、それはその時だけのものかもしれません。しかし、その歌はその短い時間のために何か目的をもっているのです。 覚えておきたい大切なことは、音楽のスタイルは重要ではないという事です。皆それぞれ音楽の好みがあり、どちらが良いかという比較はできません。他の人たちが新しいこと、例えば新しい音楽のスタイルに挑戦するための余地を残しておかなければなりません。重要なことはそれが神様からのものかどうかです。私たちが霊とまことによって心から音楽を作り、心から歌うなら、聖霊に導いていただくことが簡単にできるはずです。

2月15日(火)コリントの信徒への手紙二9:6〜15、ルカによる福音書6:38  
 たくさんの種を蒔かなければ、たくさんの収穫を得ることはできません。新しい収穫、つまりこれからの時代を担う若者たちがたくさん救われ育っていくために、経済的に余裕のある世代が大胆に捧げていく必要があります。特に、私たちの教会は新しい世代に開かれた教会であることを常に念頭におきたいです。 また、誰もが牧師や宣教師になれるとは限りませんが、その人達を支えるために捧げることによって誰もがその働きの一部となることができます。捧げることは賜物のひとつであり、キリストのからだの大切な働きなのです。私たちが喜んで与えるとき、神様は愛して下さる(7節)と書いてあります。私たちの喜びは神様の喜びなのです。すべてを満たし、あふれるほど与えて下さる神様の豊かさを信頼し、もっともっと喜んで捧げることができるようになりたいと思います。

2月16日(水)ルカによる福音書 10:25〜37  
 血を見るのが苦手な人は少なくないと思います。人を助ける仕事として看護婦となることを考えていた人が、その理由であきらめた話を聞きました。私もやはり苦手です。けれども誰でも家族が大怪我をしたとしたら、そんな理由で助けようとしないはずはありません。それ以外の、特に面識もない人であったらどうでしょうか?わたしたちは怪我や病気に限らず、助けを必要としている人がいても、自分が助けなくてもいい理由をなんとか見つけだして、関わりにならないですむことを考えてしまいます。 もしクリスチャンがそう考えるなら、教会はこの世に対して何のインパクトも与えられないばかりか、イエス様の愛を割り引きして伝えていることになってしまいます。 だから今できそうにないと思っていることでも、神様がするべきだとうながしているなら、みんなで知恵を出し合って、祈りあって、励ましあって、働きを分担してゆきましょう。

2月17日(木)コリントの信徒への手紙一 14:23〜25  
 私がユアーチャーチに来る前に通っていた教会はとても家族的な雰囲気で素晴らしい教会でした。自分にとっては落ちつける場所ではありましたが、今思うとクリスチャンだけにしか通用しない特殊な表現を教会内で使っていました。その点に関しては教会に新しく来た人に対する配慮が欠けていたと思います。その教会の教団内では特殊な表現が標準で、もし若いクリスチャンが違和感を覚えたとしても、集団に属し先輩クリスチャンを見習う内に違和感を感じなくなってしまうのでしょう。神様は私達ユアーチャーチに新しい人達を迎える役割を与えました。そして言葉についても従来の教会が行ってきた方法は不適当だと気が付かされました。新しく来た人々が疎外感を抱かないように言葉づかいを急に変えることは難しいことです。自分を客観的に見てクリスチャンの特殊な言葉が習慣化しているのなら、普段クリスチャン同士で会話するときから、普通の分かりやすい言葉を用いるよう心がけましょう。神様の約束を信じて一つ一つ準備を整える必要があります。