*2000年2月18日メッセージノート*
イエス様の診断と処方 I
初めの愛に帰れ(黙示録1章9-2章7)

A. あなたの人生を成功に導くキーパーソンは誰か?
1.必要なときに語りかけてくださる方
2.誰もかなわない権威と力を持った方
3.マスターキーを持った方
4.あなたのことを誰よりもよく知っていて正しい評価をされる方

B. 初めの愛に立ち返る3段階
1.どこから落ちたか思い出す
2.はっきり悔い改める
3.初めの行いをする

C.初めの愛を保つために
1.愛において妥協しない
2.真理について妥協しない
3.霊的な耳を澄ます

*メッセージのポイント*
 神様に従って歩もうとしていても、いつのまにかそれていってしまうという危険があります。けれども神様はそれていった者を見放しはせず、いろいろな方法で警告してくれます。霊の耳を澄ましてそれていかないように、それてしまったらできるだけ早く気付いて立ち帰れるようにしたいものです
 
*ミニチャーチのためのヒント*
1)あなたにとってイエス様がどんな方か皆に話して下さい
2)自分の歩みが正しい方向からそれていってしまった経験がありますか?

各節の解説

黙示録1: 9-16/参考聖句 Iコリント14:26-33a
預言はこう受け、こう語れ。神様の声を聞き幻を見るということ
 神様にとって小アジアの諸教会の問題は、そのままに見過ごしにしておけるものではありませんでした。そこでみんなに信頼されているヨハネを通して語りかけられたのです。ここで預言をする者の資質が厳しく問われます。黙示録の預言は確かに神様からのものと認められ聖書に収められました。それ以降の預言はもちろん聖書に書き加えられることはありませんが、用いられています。しかし権威のあるものが預言と称して「神様からではない」預言を語る場合どう対処することができるのでしょうか?私心のない確かに神様から来る預言を求めましょう

黙示録1: 17-20/参考聖句 エゼキエル21:29-32
恐れるな、聞いて、語れ
 先にも書かれていたように、預言の主(預言を通して語られる方)は歴史全体、天体全体を支配し、死に打ち勝ったイエス様です。イエス様が死と陰府の鍵を持っているということは、人の生涯にも権威を持っておられるということです。イエス様の他に誰が私たちの生涯が善いものとなることを保証してくれるでしょうか?自分の努力や、人から認められることなどは、それ以上の力によって簡単に吹き飛ばされてしまいます。このことは個人だけでなく教会にも当てはまります。私たちの教会も主の主権を認めることなしには正しく歩んでゆくことはできません。

黙示録2: 1-3/参考聖句 詩編71:9-17
イエス様は私たちの労苦、忍耐、正義、知恵を評価してくださっている
 人の目にはなかなか触れることのない努力や、苦しみ、悩み、悲しさ、悔しさをイエス様は知っています! 主の前に正しく歩み妥協しないという態度は時に人に誤解を与えてしまうかもしれません。誤解や中傷を恐れずに妥協しないということと、独善的になるということの違いは、御心に従っているのか自分の心に従っているのかの違いです。この世に妥協しないことは大切ですが、もっと大切なのは御心を求めることです。

黙示録2: 4-5/参考聖句 Iヨハネ 3:11-18
初めの頃の愛にたちかえろう
 初めの愛、初めの行いを思い出しましょう。変わってしまったのならどこに立っていたのか思い出しましょう。私たちの心の視野は簡単に狭くなって、自分が間違っていることになかなか気づきません。立ち戻ること、悔い改めることが必要なのは自分かもしれないということも、ときどきディボーションの中で主に聞かなければならないことです。自分が、いつのまにか変わってしまい、主に示されて立ち返った経験を書いてください

黙示録2: 6/参考聖句 Iコリント5:9-13
憎むべきもの
 ニコライ派がどのようなものであったかは今ははっきりしないが、偶像礼拝、不品行を教えるものであったらしい。「憎む」というのは真理に対する曲解を許さない、妥協しないということ。しかも教会の内部でのことを言っている。この世の中においては憎むべき物事がたくさんあるが、憎むべき人は一人もいない「罪を憎んで人を憎まず」という言葉は聖書の真理に一致する。罪や悪に対する戦いにおいて、それらにとらわれている人も主が救われることを願っている「失われた魂」であることを忘れてはならない。しかし教会の中にあってはサタンの働きを見過ごしてはならず、それに手を染めるものには訓戒をし、それでも聞かなければ交わりを断つしかない。

黙示録2: 7/マタイ11:11-19
霊の耳を開かなければ聞こえないことがある
 人生を勝利するための第一歩は、注意深く全身全霊で礼拝することです。神様ともっともっと親しくなることです。なぜなら心からの礼拝において私たちの霊の耳は開かれ、聞くことができるからです。御心をよく聞くことが人生の勝利の秘訣、永遠の命に預かる秘訣です。もちろん救いの条件はイエス様を信じることの他にはありません。でもそれ以上に従うこと、聞き続けることを求めず歩むことは堕落してゆくチャンスを自分に与えることになります

ディボーションノート―神様との親しく静かな時を持つためのヒント―
ディボーションノートは毎日聖書を読み続けるための助けです。聖書箇所は金曜日のメッセージに沿って選ばれています。文章は書いた人が神様から受け取ったものですから、あくまでもヒントです。必ず(!)、はじめに聖書箇所を読み、その日のみことばからのメッセージをあなた自身が神様から受け取ってください。そして、それをぜひ誰かに(ミニチャーチなどで)シェアしてください。

2月19日(土)黙示録 1:9〜16/コリントの信徒への手紙一 14:26〜33a
 神様にとって小アジアの諸教会の問題は、そのままに見過ごしにしておけるものではなかったのでしょう。そこでみんなに信頼されているヨハネを通して語りかけられたのです。「預言」についてはキリスト教会の中でも大きく考えが違っていて論争になります。ユアチャーチでは今でも神様が誰かを用い、預言を通して語られることを信じています。でも預言をする者の資質が厳しく問われるのはもちろんです。黙示録の預言は確かに神様からのものと認められ聖書に収められました。それ以降の預言はもちろん聖書に書き加えられることはありませんが、用いられています。教会の中で権威や力のあるものが預言と称して「神様からではない」預言を語る場合が今までの教会の歴史の中で無かったわけではありません。私心のない確かに神様から来る預言を求め,なされた預言を鵜呑みにするのではなく聖書にしたがってよく吟味をして受け取りましょう。

2月20日(日)黙示録 1:17〜20/ヨハネによる福音書 14:6、8:32
イエス様は死からよみがえられた時、死に打ち勝ちました。イエス様が死の鍵を持っているという意味は、生と死に関する全ての権威を持っているということです。この世に存在するすべての命、真理、権威は神によってたてられたものです(ローマ13:1)。しかし、この世の多くの人々は、後悔や罪悪感も持たずに嘘をついたり、殺したり、破壊したりします。その人達は、神に背いているので真理を知らないのです。 私たちは真理や人生の意味について、示してもらったり、教えてもらったりすることを他の人に頼ることはできません。私たち人間は、常に新しいことを学び続けているので、今、真理だと思っていることも変化する可能性があるからです。真理といのちへの道を示してもらうために、私たちが頼ることの出来るのは神様だけです。神様は真理を明らかにするために教会を用いられます。そして、教会が真理から揺り動かされることがないように、教会をご自分の手の中に治めておられるのです。

2月21日(月)黙示録 2;1〜3/詩編 71:9〜17
 何年か前に、主の働きにおいて大失敗をしたことがありました。自分は主の前に正しく歩み妥協していないつもりでしたが、柔軟性のなさと知恵のなさで大切にしていた人間関係も壊れてしまいました。落ち込み、悩んでいたその時、ある牧師が私のために祈って下さり、こう言ったのです。「主はあなたに『忠実な良いしもべよ、よくやった』とおっしゃっています。」私は涙が止まりませんでした。主は私が失敗したことも、ダメなところも全てご存知でした。しかし、決して見放さない神様は、私の良い部分も見ていてくださり、落ち込んでいる私を評価して、励まして下さったのです。幸いなことに、その後イエス様の恵みによって人間関係は回復しましたが、大きな決断をする前には主の御心を何度も何度も求めるということをこの時学びました。

2月22日(火)黙示録 2:4〜5/ヨハネの手紙一 3:11〜18
 ある人が私に「歩くときに左足に違和感がある」と訴えてきました。私はその時忙しかったのでさほど気に留めず「疲れているのではないですか」と軽く流してしまいました。その晩の神様との時間の中で一日を振り返っていると、その人ことが思い出され、訴えの一言の中には不安や焦りが渦巻いていて、そして私にS.O.S.の信号を発信していたことを神様が知らせてくれました。私は自分自身がふがいなく、言動を恥じました。つい先日のメッセージで”愛の反対は無関心”だと教わったばかりなのに、無関心どころか目の前で私に助けを求めている人を無視してしまいました。幸い次の日もその人と会う予定になっていたので、その時は話をじっくりと聞き不安を軽減することができました。彼とはこの時を最後にしばらく会う機会はなかったので、神様がタイミング良く間違いに気が付かせてくれ、修正できたことに感謝せずにいられませんでした。私を良い者にしてくださるのは主であるということを実感した経験でした。今日の聖書箇所の「初めの愛、初めの行い」とは、主に立ち返り、共にいることに他なりません。

2月23日(水)黙示録 2:6/コリントの信徒への手紙一 5:9〜13
 ニコライ派がどのようなものであったかは今ははっきりしないそうですが、偶像礼拝、不品行を教えるものであったようです。「憎む」というのはとても強い言葉で、何だか聖書の教えにはそぐわないような気がしましたが、コリントの信徒への手紙を共に読んでみて、それは真理に対する曲解を許さない、妥協しないということだということがわかりました。とくにキリストの教会の中にそのような間違った教えが忍び込んだ場合妥協は許されません。教会の中にあってはサタンの働きを見過ごしてはならず、それに手を染めるものには訓戒をし、それでも聞かなければ交わりを断つしかないのです。 一方、この世の中においては憎むべき物事がたくさんありますが、憎むべき人は一人もいません「罪を憎んで人を憎まず」という言葉は聖書の真理に一致すると思います。罪や悪に対する戦いにおいて、それらにとらわれている人は敵ではなく、主が救われることを願っている「失われた魂」であることを忘れてはならないと思います。

2月24日(木)黙示録2: 7/イザヤ55:3 
 この世に生まれてウン十年、クリスチャンになってからもまたウン十年の私がまだ練習中のこと、それが「神様に聞く(聴く)」ということです。私を愛してくれて、よくわかっていてくれて、私の人生に確かな計画を持っている方に「聴く」ことが一番だとは頭でわかっていてもなかなかできない。だから普段は自分の力や考えで何でも好きなようにやっていて、いざ困ったことになって初めて「神さまアア・・!!」ということを私もこれまでよくやっていました。でも実は神様はいつでも私とコンタクトしてくれる方なんです。神様の方から私ともっとコミュニケーションしたいと思ってくれているんです。それを知ってから私はもっと神様と親しくなることを願ってきました。どうやって・・?いろいろあると思いますが、一番の基本は心からの礼拝(ワーシップ)だと思います。神様と親しくなるにつれてどんなに愛されているか、またイエス様ってどんな方なのか、そしてどう生きていったらよいのかがもっとよく分かるようになります。