*2000年2月第4週メッセージノート*
神の御国シリーズ1(パート 2b:)
いやすことに対する私たちの権威

A. 続けるための鍵

1.私たちの神は究極的な力と権威の方である
(ローマ13:1;ルカ4:6)

2.私たちは神の権威の下にある大使である(ルカ10:19)

3.力の危険性(ルカ10:20)

B. どのように神の権威のうちに歩むか

1.権威は神との関係を通してもたらされる
(ヨハネ 5:19-21、26-27、30;10:14-16; 15:14-16)

2.神との関係を保つ(ヨハネ14:15、21、23;15:1-10)

3.神の力のうちに歩むことは、魔術的な過程ではない

C. なぜ神は私たちをとおしてご自身の力を働かせることを選んだのか?

*メッセージのポイント*
 神の権威のうちに生き、働くための鍵は神との関係を保つことです。このことは、私たちがセレブレーションとしての礼拝の場やミニチャーチで礼拝(ワーシップ)し、メッセージを聞くためにともに集まることの主な理由のひとつです。

*ミニチャーチのためのヒント*
 多くのクリスチャンに共通していえることは、権威をもって祈ることに充分な自信がないということです。自信をもって神の権威を受けられるようにお互いのために祈り合いましょう。また、神との関係をさらに深められるようにお互い励まし合いましょう。


ディボーションノート
神様との親しく静かな時を持つためのヒント
 ディボーションノートは毎日聖書を読み続けるための助けです。聖書箇所は金曜日のメッセージに沿って選ばれています。文章は書いた人が神様から受け取ったものですから、あくまでもヒントです。必ず(!)、はじめに聖書箇所を読み、その日のみことばからのメッセージをあなた自身が神様から受け取ってください。そして、それをぜひ誰かに(ミニチャーチなどで)シェアしてください。

2月26日(土)ルカ による福音書 10:19〜20
 御国の働きをするために、神は私たちに権威を与えて下さいました。それはちょうど法律を執行するために政府が警察官に権威を与えるのと同じようなものです。しかし、最近のニュースで頻繁に耳にするように、力は欲望や腐敗をもたらすことがあります。イエス様が私たちに警告しているのは、自分たちにできることを興奮し高ぶるのではなく、自分たちがキリストにあってどのような者であるのかということに誇りをもつべきだということです。いやしたり解放をもたらすのは私たちの力ではなく神の力です。それは、救いや聖さが自分の力や行いによって得られるのではなく、神の恵みと憐れみによるものであるのと同じです。御国の働きのために神様が私たちを選んで下さったことを感謝します。私たちには特別な機会が与えられているのですが、するべきことはただ神様からの権威をいただき、神様に従うことなのです。

2月27日(日)ヨハネによる福音書 5:19〜21、26〜27、30
主から任された事を行うときに、うまくスマートにやろうと思い、具体的な準備ばかりに時間と気持ちを奪われて、主との関係がおろそかになってしまう時があります。そんな時は準備の通りに事が進んでいくかどうかばかり気になって、主の導きを正しく聞くこともできなくなってしまいます。神様の声を聞くことができなくては、私の働きの目的が本質から反れてしまいます。イエス様は全てにおいて私達の模範ですが、ここでは特に父との関係において示して下さっています。ヨハネ5-30「私自身の望むことは求めず、私を遣わした方のみこころを求める」。神であるイエス様でさえ自分の望むことを求めないのなら、私達はどうあるべきでしょう。ちっぽけな自分の思いを捨てて、ひたすら主のみこころをもとめる態度が必要でしょう。
 何か行う時、具体的な準備はもちろん大切ですが、それに先立つ霊的な準備をもっと優先すべきです。

2月28日(月)ヨハネによる福音書 10:14〜16
 クリスチャンになったばかりの頃,「イエス様が羊飼いそして私たちは羊」と聞いて疑問に思ったことは,どうしたら羊飼いの声を聞き分けることができるだろうか?ということでした。この聖書の個所を見ると羊が羊飼いの声を聞き分けることはさも当然のように書いてありますが、私には自信がありませんでした。聖書を通して?牧師のメッセージを通して?でも神様は直接語りかけてくださることはないのかなと思ったものでした。信仰を持ってから長い間、私にとっては祈りは私から神様への一方通行、礼拝は神様から私への一方通行と考えていたのです。カリフォルニアでヴィンヤードの礼拝に触れた時、礼拝も祈りも神様との相互のコミュニケーションであることを体験的に知りました。この経験を通して私は神様ともっともっと近くなれたように思います。心から、思いを尽くし、力の限りに礼拝をささげてゆくと神様の声をもっとよく聞き分けることができるようになると思います。

2月29日(火)ヨハネによる福音書 14:15、21、23
 神様に従うということは、一度きりのことではなく、継続的なことです。でも、このことは、口で言うほど簡単ではありません。私は自分自身の忍耐のなさのために、「ああ、神様、またやってしまいました。ごめんなさい」と謝ることが何度もあります。でもここで私はダメなのだとあきらめてしまうのではなく、「神様赦してください、あなたの忍耐をください」と神様に戻ることが大切だと思っています。 また、今日の聖句には、神様を愛し、戒めを守る人にはご自身を現わして下さるとあります。私たちが親友に何でも打ち明けるように、神様はご自分の心を親しい人に特別に明らかにして下さいます。いつも、神様の近くにいて、従う心をもって耳を傾け続けていれば、神様は必ず語ってくださいます。

3月1日(水)ヨハネによる福音書 15:1〜10
 気がつくと人生の半分をイエス様と歩んでいました。あの人生最大の折り返し点からはや20余年がたとうとしています。振り返って思い出すのはイエス様を悲しませたりがっかりさせるようなことばかりですが、それでもイエス様なしの20年を考えると、なんと恵みに満ちたときだったろうと思います。イエス様はどんな人であっても主につながっていることを祝福してくださる方だというのがいまのわたしの気持ちです。そしてつながっている限り肉体の成長は止まってもたましいの成長は続きます。今思い起こしてみると、自分で何かをして頑張って突っ走っている時よりも、神様に静かに聴きながら一歩一歩手探りで歩んでいる時の方が、自分にとっては成長の時だったように思えます。これからも主にしっかりつながって歩んで行きたいと思っています。

3月2日(木)ヨハネによる福音書 15:14〜16
 私たちは,教会に所属している「教会員」であるとか神様のための「働き人」として自分を意識することはあっても神様にとっての「友」「パートナー」「同労者」といった風にはあまり考えないのではないでしょうか?ひとつには神様があまりにも偉大で完全なお方なので、友だちなんて恐れ多い?なんて考えてしまうからでしょう。でも私たちにとってどんなに立派過ぎて不釣合いに思えても、イエス様の方から「君は私の友達だよ」と呼びかけてくださったのですから、誰が何と言おうとイエス様はあなたの友なのです。そして友であるイエス様はご自分の豊かさをすべて分かち合ってくださるのです。私たちは自分の能力や業によってではなく、ただイエス様が友と呼んでくださったので、その権威と力を使うことができるのです。