*2000年3月3日メッセージノート*
イエス様の診断と処方 II
もっと豊かに(黙示録2章8-17)
A. 信仰による豊かさ(黙示録2章8-11, 箴言15:15-17)
1.裕福なことが豊かなこととは限らない
2.安逸な暮らしが豊かな暮らしなのではない
3.敵がいないことが豊かなのではない
4.苦しみは過ぎ去る
B. 豊かな心の最大の敵(黙示録2章12-15)
1.外の敵に強いだけではいけない
2.偶像礼拝
3.偶像礼拝はさらに多くの罪をもたらす
C.神様への信頼がもたらす恵み
1.恐れは取り除かれる(16)
2.さらに成長してゆくための糧が与えられる(17a, 出エジプト16)
3.将来のヴィジョンがはっきり見えてくる(16b)
*メッセージのポイント*
誰でも豊かな人生を送りたいと願います。本当の豊かさとはなにかということについては、「心の豊かさ」ということでコンセンサスがとれているようですが、では本当の「心の豊かさ」は?となるとずいぶん違った意見があるのです。聖書は一つの答えを提示しています。それは愛において豊かな人生、しかしそれは神様の赦しと助けがなければ誰にも実現できない人生です。私たちが愛する人々にイエス様を伝えるのは、その人にもこの豊かさを伝えたいという思い以外の何物でもありません。
*ミニチャーチのためのヒント*
1)あなたは自分が豊かだと思いますか?それはなぜですか?
2)なぜ聖書は偶像礼拝を厳しく禁じているのでしょう?
ディボーションノート
―神様との親しく静かな時を持つためのヒント―
ディボーションノートは毎日聖書を読み続けるための助けです。聖書箇所は金曜日のメッセージに沿って選ばれています。文章は書いた人が神様から受け取ったものですから、あくまでもヒントです。必ず(!)、はじめに聖書箇所を読み、その日のみことばからのメッセージをあなた自身が神様から受け取ってください。そして、それをぜひ誰かに(ミニチャーチなどで)シェアしてください。
3月4日(土)ヨハネの黙示録 2:8〜9a/コリントの信徒への手紙二 6:1〜10
今日の聖句に出てくるスミルナはエフェソとともに「アジヤ州第一の都市」の称号を競い合う繁栄した商業都市でしたが、ここに住むクリスチャンは経済的には困難で、迫害も受けていました。しかし、スミルナのクリスチャンに主は、あなたは実際には富んでいると語りました。この箇所を読んで、以前外国から来て日本に住んでいる人が言っていたことを思い出しました。「私の国には貧困に苦しむ人がたくさんいるけれど、私は日本の人たちをうらやましいとは思わない。むしろ、かわいそうだと思う。なぜならば、お金はあっても心が貧しい人が多いから。私たちはお金はなくても心はもっと豊かです。」私はそれを聞いて日本人として心が痛みました。本当の豊かさは金銭や物質的なものではないことをどのくらいの人が理解しているでしょうか?クリスチャンとして私たちはキリストにある真の豊かさを示す生き方をしていかなければと改めて思いました。
3月5日(日)ヨハネの黙示録 2:9b〜11/テモテへの手紙二 2:8〜13
無理解、反発そして迫害。ただあなたがイエス様を信じているというだけで、受けなければならないとしたらあなたはどう思いますか?私はそのような目に遭ったことはありませんが、子供の頃からイエス様を信じていた友人は、それが理由でいじめられたことがあるそうです。今この国では一般に個人の思想や信条が尊重されるべきだと考えられていますから、ここに書かれているようなひどい目に遭うこともあまりありません。でも50年前、イエス様を信じている=非国民というレッテルを貼られた時代がこの国にもあったのです。第2テモテの11節以下の言葉は、もし私たちがそのような状態に置かれた時でも力のある真実の言葉だと思います。迫害に耐える能力、技術などはありません。経験すら不必要なことがこの国の歴史でさえ教えてくれます(キリシタンの迫害では小さな子供たちまでも主を拒まずに殉教してゆきました)。ただ主への愛だけが、どんな時代にあっても主に従ってゆく力なのです。
3月6日(月)ヨハネの黙示録 2:12/ヘブライ人への手紙 4:12〜13
剣とは神のことばであり、それは唯一の真理です。真理は、どんなに深く隠されていても真実でないことを明らかにします。なぜならば神は全知の方だからです。私たちが神に隠せるものは何一つないのです。私たちが自分の本当の姿を隠すために何を使ったとしても、神の剣は外面の全てのものを刺し通します。 剣には二つの面があります。一つは神の怒りです。それは、神から離れていた者に厳しい裁きをもたらします。もう一つの面は神の哀れみです。それは外科医が悪い部分を取り去る時に使うメスのように、悔い改めて神に助けを求める者に癒しと回復をもたらします。私たちの裁きの時には、隠されているものがあってはなりません。
3月7日(火)ヨハネの黙示録 2:13/マタイによる福音書 10:26〜31
神様の全き愛を知ると恐れから解放されます。この箇所を読んでいてすぐに思い出したのがヨハネの手紙一 4:18「完全な愛は恐れを締め出します。」です。殉教するということ自体、今私自身の生きている時代や場所的に関係があるように感じていません。でも、もしそういった状況に置かれた場合、何が自分を支えてくれるのかと考えたら、やはり神様の全き愛と主との深い交わりでしょう。そしてそれから来る言葉では言い表せない喜びだと思います。「忠実な証人」と呼ばれた人々はもちろん特別な賜物で殉教する人として選ばれたわけですから、私には想像の世界ではありますが、神様から少し離れると恐れが戻って来たという経験があります。それは急に死が恐くなるという形で現れたので、自分でも驚きました。反対に主と常に深い交わりを持っていると自分の命や存在さえあまり中心でなく、主の臨在で心も体もいっぱい!!となった時もありました。その時から主のために何かしたいという気持ちが強くなってきたのです。
3月8日(水)ヨハネの黙示録2:14-16/コリントの信徒への手紙I 5:9-13
最近の警察の不祥事で開いた口が塞がらなくなって困っている人も多いことでしょう。もし今私が警察に些細な交通違反で捕まっても、反則金の支払いには応じる気がしません。まず自分たちの行いを釈明し責任をとってから出直してこい、という気持ちになるでしょう。いくら国家が与えた権威を持っていても、組織自体が堕落していたら、その権威は力を持たなくなると思います。ペルガモンの教会は外からの攻撃に対しては殉教もいとわないほど勇敢に戦いました。しかし教会内部には堕落が生じていました。いくら外側で良い働きをしていても、内部が堕落した教会に真理を見いだすことができるでしょうか。この教会の人が語る「愛」や「真実」という言葉に説得力があるでしょうか。人々はそれらの言葉と教会の実情に矛盾を感じ、教会から離れて行くと推測できます。堕落は私達の目が神様から反れてしまうことから簡単に始まります。神様が今日この御言葉を私達に示されました。私たちの教会のことを注意深くふりかえってみましょう。
3月9日(木)ヨハネの黙示録 2:17/イザヤ書 58
最も手ごわい敵は内側にいると、いろいろな分野で言われます。正直に考えてみると、自分がイエス様にしっかりと従ってゆくことのできない言い訳に、忙しさとか、教会が小さいこととか、経済的な困難を理由にしてしまいがちな自分を無視することはできません。イエス様はご自分で大きな教会や教団を造ろうとはなさいませんでした。弟子たちは安定した職業を捨て、ユダヤ教会から去りただ主に仕えました。私たちにもそういう気持ちを求められているのではないでしょうか?
外からの迫害にも、内面の問題にも御心を求めて忠実に歩む者に主は報いてくださいます。それはの言葉イエス様によって必要な霊的な糧を与えられ、生き続けるという特権です。こに記されている白い石が何を指しているのかはあきらかではありませんが、シモンがイエス様に彼の人生の目的と主にある役割を表すペテロという名前を頂いたように、たちもイエス様の再臨の時に、そのような自分の新しい名前が書かれた白い石を頂けるのかもしれません。