*2000年3月17日メッセージノート*
神の御国シリーズ1/パート 3a:
弟子となることの過程 ジョンニューマン

1. 弟子となること(ヨハネ15:8, 16)

a.与えることを通して受け取る(マルコ4:21-25)

b.私たちが整えられたと感じる前に、神は私たちに与えよと求めることがよく
ある(使徒5:12-16, 使徒3:12, 使徒10:25-26)

c.信仰によって行動しなければならない(ヨハネ15:4-6)
1. 信仰にはリスクがともなう

2. 私たちは従う、それから、神は行動される(マルコ6:30-44)

2. 父の御業を行う

a.イエス様は私たちの模範(ヨハネ 10:30、14:9-11、17:22)

b.イエス様は父の声を聞いた(ヨハネ7:15-17、8:28、12:49-50)

*メッセージのポイント*
 弟子となるための鍵は父との親しい関係です。(自分の弱さを認め)完全に父にゆだねることと(たとえ疑問があっても)父が私たちにしなさいと語られていることに従うことです。首尾一貫して持続できるかどうかにより私たちの信仰は試されます。
私たちは答えがすぐに見えない時、あきらめてしまいますか?それとも、結果がどうであれ、神に語られたとおりのことを行いますか?

*ミニチャーチのためのヒント*
 初めて信仰の一歩を踏み出す時はちょっと恐いと感じるかもしれません。なぜならリスクがともなうからです。では、それほどリスクがあるのになぜ私たちは踏み出すのでしょうか?それによって益となること、また損になることとは何でしょうか?何が信仰の一歩を踏み出すようにさせるのでしょうか?また、その時何によって平安を与えられるのでしょうか?

ディボーションノート―神様との親しく静かな時を持つためのヒント―
 ディボーションノートは毎日聖書を読み続けるための助けです。聖書箇所は金曜日のメッセージに沿って選ばれています。文章は書いた人が神様から受け取ったものですから、あくまでもヒントです。必ず(!)、はじめに聖書箇所を読み、その日のみことばからのメッセージをあなた自身が神様から受け取ってください。そして、それをぜひ誰かに(ミニチャーチなどで)シェアしてください。

3月18日(土)ヨハネによる福音書 15:4〜6
 聖書には沢山のたとえが出てきますが、神様と私たちの関係を表すたとえのなかで、このぶどうの木とその枝という説明は私にとってとても心が励まされるものです。神様を知らずに生きていたときには、心に絶対必要な栄養のことなど考えもしませんでした。毎日面白おかしく健康にすごしてリッチになれればいいなあ、と考えていた私ですが、地上のものではどうしても満たされない心の隙間を見つけた時、「本当に信頼できる確かなもの」探しが始まりました。神様は心の隙間を埋めてくださっただけではなく、生きがいや仕事(お金を稼ぐための仕事ではなく、ここにおかれている使命)にも気付かせてもらえました。 いまでも物事がうまく運ばない時、元気が出ない時、失敗する時はあります。このような時は大抵心がしっかりと神様のほうに向けられていない時なのです。この世界には誘惑や、恐れ、怒りなど心が幹から離れてしまう原因が沢山ありますが、それだからこそ頼りない小枝は互いに励ましあってしっかりイエス様につながっていたいものですね。

3月19日(日)マルコによる福音書 4:21〜25、8:35/ルカによる福音書 6:38
 ミニストリーは牧師や特別な油注ぎを受けた人だけがするものだと勘違いしている人がいます。また、癒しの祈りで病いがいやされるのを見たり、力強いミニストリーによって縛られていたものから解放されたりする体験をしても、自分が他の人のために祈ることには尻込みをしてしまうという人もたくさんいます。自分はまだ未熟なのでもう少し受けてから始めようと思ったり、神様からもっと力をいただいてから、と思うのです。でも、考えてみて下さい。私たちはすでに神様からたくさんのものをいただいているのです。愛、恵み、憐れみ、赦し、喜び、平安、賜物...。私たちはまず自分が今持っているものを与えることからスタートしなければなりません。神様は与えた分だけさらに注いで下さるからです。初めから大きな事が出来る人はいません。神様の声に耳を澄ませつつ、まずは小さな事、自分に出来る祈りから始めましょう。

3月20日(月)マルコによる福音書 6:30〜44/列王記上 17:8〜16
 神の備えは、私たちが信仰の一歩を踏み出した時にだけ与えられるものです。
ただ従順になることによって始まります。ナイキのスローガンは"Just Do It(とにかくやってみよう)"です。この言葉は私たちにとって良い助言となります。私たちは祈りのミニストリーの結果を心配するべきではなく、神と神の言葉がそう語っているからこそ祈るのだということを忘れてはなりません。また、より長く、より一生懸命に祈ることによって結果を作り出すことは出来ません。神様だけが結果を生みだすことが出来るのです。この2つの話しの中にでてくる弟子達とやもめは、たくさんの食べ物が得られるまで待ってはいませんでした。そうではなく、ただ主に従ったのです。奇跡は何もせずに現れるわけではありません。私たちが何かに挑戦した結果起こるのです。それは理にかなっていなかったり、望みのないことのように思えることかもしれません。しかし、私たちが従順に一歩踏み出す時、神は応えて下さり、私たちの信仰は成長するのです。

3月21日(火)使徒言行録 3:12、10:25〜26、4:29〜31
 私は自分の能力や体力の限界が低く、醜い面も認識しているので、神様から力を与えられなければなにもできないと思っています。しかし時には主から与えられた働きを人からほめられたりすると、あたかも自分の栄光に思いこむという間違いを犯してしまいます。使徒3:12でペテロは彼を賞賛する民に、はっきりと自分の力ではないと言っています。次の機会にはペテロの姿勢を見習いたいと思います。まだ信仰を持たない人に私の行動や態度に感心を抱く人がいたら、はっきりとその土台となっている神様の事を告げたいと思います。

3月22日(水)ヨハネによる福音書 14:9〜11、10:30、17:22
 神様と、イエス様と、聖霊様。三人なのに一人、一人なのに三人?私が洗礼を
受けた教会では洗礼準備クラスがありました。「三位一体」の所で少しつまずきました。聖書の神様が「三位一体」ってどういうことなんだろうと悩んだものでした。神様を見ることはできません。2000年前のイエス様と出会って握手することもできません。でも聖書を読むことによって理解することができます。この理解が本当に正しいかどうか聖霊様は今私たちに直接働きかけて教えてくれます。ここに書かれている神様とイエス様は一つという真理も聖霊様の助けによって信じられるものなのです。数ヶ月の勉強会が終わって最後の締めくくりに教会の役員さんたちの前で面接試験(試問会といいました)があったとき、一人の長老さんに「神様はどこにいますか?」と聞かれて考え込んでしまいました。分からなかったのではなく答えがありすぎて困ったのです。神様なら天の王座,イエス様ならその横だけれど、聖霊様は心の中にいてくださるはずだし・・・で、今ならこう答えるでしょう。「あらゆる時代と地域を越えて神様はたったお一人おられ、その神様が私の心の王座にも座っていてくださる」と。イエス様が神様と一つであるように私たちが一致するとは、神様を見上げ、イエスさまに従い聖霊様と共に歩むということだと思います。

3月23日(木)ヨハネによる福音書 7:15〜17、8:28、12:49〜50
 人がある先生又は師と呼ばれる人の弟子になるとしたらと考えてみました。まずその先生のすることなす事をよく見て、聞いて、学ぶことから始めるでしょう。そして先生のするとおり同じ事をするためになるべく長い時間をいっしょに過ごすことも大切です。次に先生の言うとおり従順にすることで上達も早く、先生との信頼関係もできることでしょう。人間同士の師弟関係さえもこのように築き上げていくのですから、私達と神様ならなおさらみことばを通して、また主と交わる時間をたくさん持つことが大事です。イエス様と天の父の関係からそれが一番良く分かるように、イエス様は「父に教えられた通りに話している」「私はいつもこの方の御心に適うことを行うからである」とおっしゃっています。父なる神は私達にイエス様のようにパーフェクトになりなさいとはおっしゃっていない気がします。私達の心を見て、私達が自分の力に頼らないとき、神様の力が私達に必要な知恵や賜物を下さるのです。