*2000年3月31日メッセージノート*
イエス様の診断と処方 III
弱ってゆくのか、成長するのか?(黙示録2:18-3:6)

A. 教会はどう変わってゆくのか?(Iコリント3:10-17)
1.行いにおいて成長する教会に(2:18、19)
2.生きているというのは名ばかりの死んだ教会に(3:1、2)

B. 危険はどこにあるのか?
1.偽預言者(2:20-23)
2.霊的廃退(2:18-19、3:1-2)

C.教会の健康を回復するために
1.神様を畏れる(2:23)
2.今持っているものを、行いを固く守る(2:25)
3.目をさます(3:2)
4.弱っている人々を強める(3:2)
5.悔い改める(3:3)

D. 勝利者に与えられるもの
1.永遠の命の保証(3:4b)
2.霊的に成長するための糧(2:17)
3.イエス様が共におられる(2:28)
4.白い衣(清さ、神に属する身分、祭服、勝利者の)(3:4a)

*メッセージのポイント*
 教会は人の体のように適切な栄養を取って、運動して(体を動かして)、健康を保ち、目標めざして進んでゆきます。どこか具合が悪ければできるだけ早く適切な治療を施します。ほっておけば病状はすすみ致命的な状態になってしまうかもしれません。私たち一人一人はキリストの体(世界一つの全体としての教会)のそれぞれの器官(たとえばユアチャーチ)を構成する部分(ユアチャーチの様々な働き)のひとつの細胞だと考えることができます。人の体と違うところは、私たち(キリストの細胞)はそれぞれ自分の意志を働かせて活性化することを期待されているというところ、まわりの細胞が弱った細胞を助けることができるというところです。

*ミニチャーチのためのヒント*
1)教会の元気とあなたの元気にはどんな関係がありますか?
2)あなたは健康に成長しつつありますか?そうでなければ何が問題ですか?

ディボーションノート―神様との親しく静かな時を持つためのヒント―
 ディボーションノートは毎日聖書を読み続けるための助けです。聖書箇所は金曜日のメッセージに沿って選ばれています。文章は書いた人が神様から受け取ったものですから、あくまでもヒントです。必ず(!)、はじめに聖書箇所を読み、その日のみことばからのメッセージをあなた自身が神様から受け取ってください。そして、それをぜひ誰かに(ミニチャーチなどで)シェアしてください。

4月1日(土)黙示録 2:18〜19/コリントの信徒への手紙一 3:12〜17
 私たちの人生の実りとは私たちの行いではなく、どのように、そして、なぜ行われたかということが問われるものです。私たちが神様や教会、人々に仕える理由は神様との関係からくるものです。私は、他の人から自分が聖い者、あるいは油注がれた者であると見られたいからという理由で教会に仕えている人を何人も見たことがあります。マタイの6章でイエス様はこのことについて、「祈ったり、断食をしたり、施しをする時、人に見られたくてする偽善者のようであってはなりません」と教えています。神の目のうちにある炎は、一つは教会に対する情熱を、もう一つは嘘、惑わし、偽善などに対する怒りを表しています。私たちの行いとは神様との関係を反映するものであって、関係をさらによくするために行うのではありません。私たちの行いは神の炎によって真価がためされる時がき
ます。そして、もし私たちが偽善者であるならば、全ての人がそれを知るのです。

4月2日(日)黙示録 2:20/マタイによる福音書 10:16〜20
 以前にもやはり預言の受け入れ方について書いたことがありました。ひとつはその預言者又は預言した人の主との歩みをチェックします。二つ目はその預言が神様の性質と合っているかを見ます。三つ目は聖書のことばに倣っているかをよく吟味することが大切です。実はもう一つも今回は思い出したので書き加えますが、大抵の場合は確信を得るための神様からの確認(CONFIRMATION)だと教わりました。つまり、突拍子も無い事柄や全く新しく未来を予測するものはとても少ないということです。もちろん神様の主権なのでそういうこともあるかもしれま
せんが、その時こそ私達も蛇のように賢くならなければいけないのです。霊的賜物の中に知恵がありますが、それは私達の普段の能力と違って聖霊が導いて下さるのです。同時に識別の賜物もありますが、何もこういった優れた賜物が自分には無さそうと思わないで下さい。まずはみことばとそれを書いた神様と常に慣れ親しんでいれば、サタンにすきを与えることも無いと思います。自然と超自然的なことが分かってくるとき私は主とコミュニケーションがとれているときだからです。

4月3日(月)黙示録 2:21〜23/ローマの信徒への手紙 2:1〜10
 神様は私たちに善悪を判断する基準として聖書を、また、霊を見分ける力という賜物を下さっています。聖霊の導きもあります。ですから、私たちは偽予言者のような存在に出会ったとき、自分は影響されないし、そのようなことにはかかわらないという判断ができるはずです。しかし気をつけなければならないのは、私たちの心の態度です。偽予言者とまではいかなくても、明らかに神様に反することをしている人たちに出会った時、私たちは心の中で、または口に出して、さばいていないでしょうか?人をさばくのは、私たちの仕事ではなく神様の仕事であることを聖書は教えています。そして、忍耐強く慈愛豊かな神様は、さばく前にどんな者にも悔い改めの機会を与えて下さるのです。悪意に満ちたイゼベルにさえも同様に悔い改めの機会を与えたとあります。悔い改めるかどうかは私たち次第ですが、そのことも神様は全てご存知です。人の悪を見た時、または、人に傷つけられた時、そのことをさばくのは公正かつ正義の神様であることを覚えたいと思います。

4月4日(火)黙示録 2:24〜25/申命記 31:14〜21、31:30、32:6
 申命記には人間が神様から顔を背け約束をやぶるなら、神様は怒り、人間には災いと苦難が訪れ、滅ぼされると書いてあります。私がもし旧約の時代に生きていたなら、とうに滅ぼされて存在しないものとなっているでしょう。神様を悲しませることをいくつも犯しているからです。しかし私達には罪を赦すためにイエス様が与えられたので、神様から顔を背けても滅ぼされることはありません。肉体を含め滅ぼされることがないとしても、神様から顔を背けて生きているなら、それは滅ぼされているのと同じなのではないでしょうか。もしかしたら滅ぼされることより、神様と離れて生き続ける方がひどく惨めな状態かもしれません。まず自分自身が先に選ばれた者として主と親しく生きること、そして顔を向けることを知らない人達に向くべき方向を知らせることが私達の務めです。

4月5日(水)黙示録 2:26〜27/ルカによる福音書 12:4〜12
 誰でも「恐れる」という感情を持っています。そしてその対象は人それぞれです。狭い所にいると恐れる人もいれば、だだっ広い場所にいると不安になる人もいます。人といるのが苦手な人、人がいないと寂しい人。こんなことは個性のうちだと思いますし、「恐れ」は怪我をしたり傷ついたりしないための安全装置で
す。たとえば高い所にたつと足がすくむということがなければ、転落事故はもっと増えるでしょう。そんな身を守る恐れの感情は役に立っていますが「恐れ」は度を超すと日常生活に支障をきたします。神様が自分に期待していることができなくなってしまうとしたら、その恐れは神様に癒していただく必要があります。神様とともにいれば、恐れる必要は何もありません。真理の戦いは一生続くでしょう。あるいはこの世を去るとき神の国の権威は目に見える形では確立されていないかもしれません。それでも神の国が完全に現れる日は必ず来る、と神様は約
束されました。そしてこの権威には何者も逆らうことができないほど強力で武力にも脅かされないものとなります。

4月6日(木)黙示録 2:28〜29/イザヤ書 43:1〜7
 人生を戦いにたとえるなら、それがどんな展開であっても勝ちは勝ちだし負けは負けです。イエス様に出会う前には、なんとしても人生を勝利したいと思っていました。それもいつでも優勢でなければ不安や、不満があったので心は全然穏やかでなく、余裕もありませんでした。自分の思い通りにいっている時には、その状態が終わることを恐れ、うまくいっていないときは、恨みや呪いを人に向けました。私は今あなたと同じようにイエス様とともに歩んでいます。そしてそのこと自体が人生の勝利のように思えるのです。どんなに形勢が不利であっても、イエス様から離れなければ勝利は決まっているのです。またひどい状況のなかでも勝利を確信して進めます。 ここは文脈通りに読むと、信仰の歩みを歩み通したものにイエス様は「明けの明星(イエス様)」を与えるというわかりにくい意味になりますが、逆らう者にとっては滅びを意味するほど暗く過酷な終わりの時にあっても、信じる者にはイエス様が明るい光として共にいて下さり、主との交わりは決して尽きることはないということを意味しているのではないでしょうか?ります。悔い改めるかどうかは私たち次第ですが、そのことも神様は全てご存知です。人の悪を見た時、または、人に傷つけられた時、そのことをさばくのは公正かつ正義の神様であることを覚えたいと思います。