*2000年4月7日メッセージノート*
イエス様の診断と処方(4)
生ぬるいのが一番まずい(黙示録3:7-22)
A. なぜ生ぬるいのが一番まずいのか? (14-17、ルカ6:24-26)
1.なまぬるさは成長をもたらさない
2.なまぬるさは目を曇らせる
3.なまぬるさは人を傷つける
B. 熱くなるためにこれらのことを祈り求めよう
1.もっと信頼できるように (7-8)
2.もっと忍耐できるように (10)
3.もっと神様と近くなれるように (12)
C.熱くなるためにこれらのことをしよう
1.イエス様から学ぶ機会を大切に (18, コロサイ2:3, イザヤ55:1-3)
2.きっぱりと悔い改める (18)
3.主の交わりのなかに心を開く (20)
*メッセージのポイント*
自分の問題を問題として認めていないなら、問題を解決することはできません。問題がない人はどこにもいません。信仰を持っていたとしても問題自体が無くなってしまうわけではないのです。けれどもイエス様に従って歩むなら、全ての問題には解決が与えられます。問題は地上に生きている限り繰り返しやって来ますが、一つ一つの問題を乗り越えるたびに、その経験を活かしてそれまで以上に愛の業に用いられるようになるのです。
*ミニチャーチのためのヒント*
1)何で生ぬるい生き方(愛において,信仰において)が問題なのですか?
2)あなたにとって「熱い」生き方ってどのようなものでしょう?
*ディボーションノート*―神様との親しく静かな時を持つためのヒント―
ディボーションノートは毎日聖書を読み続けるための助けです。聖書箇所は金曜日のメッセージに沿って選ばれています。文章は書いた人が神様から受け取ったものですから、あくまでもヒントです。必ず(!)、はじめに聖書箇所を読み、その日のみことばからのメッセージをあなた自身が神様から受け取ってください。そして、それをぜひ誰かに(ミニチャーチなどで)シェアしてください。
4月8日(土)黙示録 3:7〜9/マタイによる福音書 16:13〜20
今日の聖句にでてくるダビデのかぎ、また、天の御国のかぎとはイエス様のもっておられる権威を象徴しています。その権威とは、人には決して開くことができないことを開き、また人には決してストップできないことをストップすることのできるのです。イエス様は御国の働きをするようにと私たちにもその権威を下さっています。先週のエロル牧師のメッセージで、新約聖書に100回以上使われている原語(ギリシャ語)のSozoは、「救い」「癒し」「解放」と3つの意味に訳されていることを学びました。この御国の現れであるSozoをもたらすために、私たちはイエス・キリストの御名と権威によって祈る必要があります。また、悪霊に対しては権威をもって命じることができます。イエス様を信じる者は彼と同じわざ、またさらに大きなわざ行うとイエス様は言いましたが、そのためには、イエス様の権威について正しく理解し行使していかなければなりません。
4月9日(日)黙示録 3:10〜13/ローマの信徒への手紙 5:1〜11
忍耐とは、何かが起こることを待つという意味だけではありません。諦めてしまいたいと感じる時に、神様から受け取ったものを持ち続けていくという意味があります。私たちの教会は小さく、何も起こっていないように思えて、もう諦めてしまおうと感じたときが何度もありました。しかし、もし私たちが諦めてしまったら、神様がご計画されていることや達成しようとしていることを決して知ることはできません。私たちが諦めという誘惑に負けないならば、神の恵みは私たちを強め、思ってもみなかったすばらしい事を神様がして下さるのを見ることができるでしょう。私たちが今持っているものに忠実ならば、神様は私たちをもっと信頼して下さり、もっと与えて下さるのです(マタイ25:21)。
4月10日(月)黙示録 3:14〜15/ヨハネの手紙一 3:11〜19
ハートは凍っているより熱く燃えている方がいいに決まっている。それはよくわかります。でも中途半端に生暖かいハートは凍っているより悪い?と今日のテキストは教えてくれます。人間関係においても、最初から拒絶されるより、理解してもらえていると思っていたのに突然手のひらを返される方がこたえます。互いに愛し合うというのは、一つには互いに正直であるということです。分からないのに分かっていると言う。賛成できないことなのに反対しない。そのような態度は、あとで人の心をひどく傷つけてしまいます。
神様はもちろん私たちが愛に熱く燃えていることを望んでおられる。しかしなまぬるさ(信仰を持っているといいながらそれを働かせない、愛しているといいながら愛さない といった状態)は他人にはもちろん自分に対しても有害で、神様との関係も損ないます。愛せないなら信仰が働かないなら、正直に主の前に「私は冷たいものです。燃やしてください」と願う方がずっといいのです。
4月11日(火)黙示録 3:16〜17/マタイによる福音書 6:19〜21
この国では多くの人が自分は中流の暮らしをしていると考えているそうです。中流意識は欲求不満にもならず、プライドを保てる無意識の知恵なのかもしれません。そして経済的な面から言えばそれは妥当なことといえるでしょう。でも私たちの心の面ではどうでしょうか?この世の富を追及しすぎることは、魂を悪魔に売り渡すことになりかねません。しかし心が良いもので満たされることを願い求めることは、祝福をもたらします。魂が欠乏している現実を知らなければ、人はそれを求めず、ただ物質的なことや自分のプライドを満足させようとするのです。自分の心の乏しさが分からないで、満たされていると思わせるのはサタンの仕業です。ここでの「金持ち」とか「会われ、貧しい、見えない」とはもちろん霊的な豊さ、貧しさを意味しています。私たちは油断をしていると自分が本当に霊的に豊なのか、乏しいのか分からなくなってしまう時があります。神様にもっと求めて豊かになりましょう。
4月12日(水)黙示録 3:18〜19/ペトロの手紙一 1:3〜9
現在私が携わっている仕事ではこういったキャッチフレーズがあります。「結果が全てです。」この世ではほとんどの場合、物事は結果で判断されます。そのプロセスでなされた努力や熱心さなどあまり関係がないかのように。でも、私達を愛して下さっている神様は違います。私達の心の状態を一番見ておられます(ともするとこれは一番こわいことかもしれませんが)。私の友人から聞いたことですが、ある人が神様に(夢の中か心の耳での会話か忘れましたが)今までの彼の人生の事で「よくやった」とほめていただいたそうです。その人は自分がしてきたことを同じように感じていなかったので「私のしてきたことはほめていただけるような事は何もない」と答えたところ、神様は「私はそれを見ていたわけではない」と言われたそうです。そこで初めて、その男性は今まで自分が熱心に主を求めてきたことをおっしゃっていると分かったそうです。この話を聞いて、主のすばらしいご性質(attribute)を改めて知り、私も希望を持って生きてゆけると思いました。
4月13日(木)黙示録 3:220、22/サムエル記上 3:1〜10
主はいつでも戸口に立って私達のドアをたたいています。そしてこちらがドアを開きさえすれば、必ず入ってきて食事を共にとってくれます。食事とは主と私達相互の親密な時間です。20節の「見よ」、「わたしの声を聞いて」とあるように、私達は主の姿を見ることができ、また声を聞くこともできるのです。心から望んで期待すれば、私達の感覚を通して存在を認識できるでしょう。過去に、私は望んでも望んでも、神様の応答が聞こえないときがありました。その時は神様が応えてくれないと思っていましたが、これは間違えで、私がドアを十分に開いてないため、神様を迎え入れることが、できなかったのだと気が付きました。私の罪がドアを開けることを阻んでいました。