*2000年4月14日メッセージノート*

桃栗3年柿8年(コロサイ2:1-23)


A. 教会に立てられたリーダーの苦闘 (1-5)

1.はげます

2.愛による信頼関係を築き上げるために

3.霊的洞察力をもてるよう訓練するために

4.イエス様とのパイプを太くするために

5.誤った教えに対する判断力をつけるために

B. 私たちに勧められているのは? (6-8)

1. 受け入れる

2.結ばれて歩む

3.キリストにあって成長する

4.信仰がライフスタイルになる

5.真理にとどまり続ける

C.あなたの一番大切なもの (9-23)

1.十字架の恵み

2.キリストの体である教会

3.真の礼拝

*メッセージのポイント*
 人の組織でありながら神様の体という性質を持つ教会。私たちは皆例外なくその一部です。あなたがイエス様を「あなたの唯一の神=救い主」と信じているなら、目に見える地域の教会の一員であることを拒むことはできません。目に見える教会に属することなく、神様を信じているというのは矛盾した霊的に不健康な状態です。時にはわずらわしいと思える教会の人間関係の中にこそ霊的成長があります

*ミニチャーチのためのヒント*

1)あなたの牧師がどのようなヴィジョンを持っているか知っていますか?

2)あなたはそれにどのように関わってゆきたいのですか?

 

*ディボーションノート*―神様との親しく静かな時を持つためのヒント―
 ディボーションノートは毎日聖書を読み続けるための助けです。聖書箇所は金曜日のメッセージに沿って選ばれています。文章は書いた人が神様から受け取ったものですから、あくまでもヒントです。必ず(!)、はじめに聖書箇所を読み、その日のみことばからのメッセージをあなた自身が神様から受け取ってください。そして、それをぜひ誰かに(ミニチャーチなどで)シェアしてください。

受難週に入ります。今週はメッセージテキストからディボーションするだけでなく、ルカによる福音書からイエス様が十字架に至る道行きをたどりましょう。

4月15日(土)コロサイの信徒への手紙 2:1〜5/ルカによる福音書 22:1〜23
 パウロは自分の働きや苦労を理解してくれるようコロサイの人々に語っています。それはこの人達がパウロを知ることによりキリストを真に知るようになるため、と書いてあります。コロサイの人々がパウロの苦労を知ったら彼のために祈り、また直接支援を行うと思います。パウロを助けようという気持ちが芽生え具体的な行動を始めることにより、コロサイの人々は益々成長すると考えます。
 私達の教会も同じ事が言えると思います。お互いをよく知ることにより、その人の悩みや必要が見えてきます。そのために祈り、自分を犠牲にして必要を満たす。教会であるならば当たり前のことですが、再度原点に戻ることを示されているように感じます。教会の中でこのような働きが充足したときに、教会以外の人達にも本当の意味でアプローチすることができ、新たに救われる人が加わるのではないでしょうか。

4月16日(日)コロサイの信徒への手紙 2:6〜8/ルカによる福音書 22:24〜46
 小さな赤ちゃんがたった一人では育っていくことができないように、新しく生まれかわってクリスチャンになった人もたった一人で健全に信仰を育てていくことはできません。私自身のことを振り返ってみても、イエス様に導かれ、受け入れるまでと、その後キリストに結ばれ、根をおろし、信仰を守り育て現在に至るまで、その時その時に、色々なクリスチャンの先輩や仲間たちの祈り、教え、導き、励ましをたくさん受けてきました。そのようにして自分が成長していくにつれ、今度は新しいクリスチャンたちのために、また、まだイエス様を知らない人たちのために自分が受けたことを与えることができるのです。種蒔き、成長、収穫というプロセスがあってこそ初めて神の国は増え広がっていきます。

4月17日(月)コロサイの信徒への手紙 2:9〜12/ルカによる福音書 22:47〜71
 私たちは何度も、もっとイエス様に似た者となるようにと教えられてきました。しかし、これは完璧で全く罪のない者となるよう努力しなければならないという意味ではありません。私たちはクリスチャンになる過程を通ったとき、すでにイエス様に似た者となりました。私たちが悔い改めたとき、神様なしの古い人生は十字架につけられ、神様に背を向けていたために死んでいた私たちの霊は新しいいのちへとよみがえりました。私たちの霊は神のもとへと回復されたので、イエス様が父と親しい関係を持ったのと同じ方法でイエス様を模倣していくことができるのです。このようにして、私たちはイエス様と同じ業を行うための権威を受け取ります。

4月18日(火)コロサイの信徒への手紙 2:13〜15/ルカによる福音書 23:1〜25
 私たちの教会では受難週ということで、特に変わったプログラムがあるわけではありませんが、忙しい日常生活のなかで薄れがちな、自分という存在の原点である十字架に想いを集中するのはとても良いことだと思います。この世界にはイエス様を信じていないのに人に賞賛され、尊敬に値する働きをしている人が沢山います。そんな人にとっては十字架を知らないことが何のハンディーにもなっていないような気がしてしまいます。けれども私たちにはその人の一面しか知ってはいません。やはり十字架の素晴らしさを再確認するためには、自分のことを考えるのが一番です。自分がどれほど小さく、至らない存在であっても、その自分のために十字架にかかってくださったイエス様。どんな私であっても受け容れて
くれるイエスさま。そのイエス様に応えて、つまずきながらも精一杯生きてゆく自分の姿を想像して、十字架の恵みを感謝しましょう。

4月19日(水)コロサイの信徒への手紙 2:16〜19/ルカによる福音書 23:26〜43
 人の体では思春期になると成長のバランスが崩れて不具合を生じることがあります。一つの部分の成長が早すぎて周りの組織が追いつかず痛んだりすることがあります。また大人として自立したいという心と、まだまだ親などに依存していたいという心がせめぎあって思春期特有の精神疾患を患ってしまうこともあります。キリストの体である教会の成長も全く同じことが言えます。私たち一人一人はイエス様の愛に応えて歩んで行くわけですが、組み合わされて互いにささえあい結び合わされていること、中心であるイエス様にしっかり結びついていることをはっきり自覚していてはじめてキリストの体は健康に成長してゆけます。熱心な行ないが常に良い結果をもたらすわけではありません。その熱心が肉の思いからのものであったなら、それは周りを傷つけ、御心を損なうという結果をもたらしてしまうのです。

4月20日(木)コロサイの信徒への手紙 2:20〜23/ルカによる福音書 23:44〜56
 主キリスト・イエスが十字架で死なれたのは私達人間に自由を与えて下さるためでした。神様を知らない人々の内、すでに自由と思っている人がほとんどではないでしょうか。ではキリスト者である私達の自由とは何かと言うと、それはあらゆる恐れからの解放です。将来の心配、病気になる恐れ、経済上の恐れなど色々あると思いますが、一番大きいのは人の目を恐れることではないでしょうか?主を畏れているとこれらの恐れから解放されますが、人を恐れていると人間の作った規則や教えにますます縛られてしまうことになります。さらに恐いことは、自分が縛られていると自由な人がねたましく思えて、周りの人を裁いて同じ悪循環に引き込もうとするのです。特に悪いことは自分はねたんでいるのではなく、相手のために注意していると思いこんでいるようなケースです。自分が喜んでしていることは人に押しつけようとは思わないけれど、人の目を気にして我慢していると無理がたまって喜びどころか落ち込んでします
ことになりがちです。イエス様の流して下さった血には力と権力があり、私達に本当の自由を下さいます。