*2000年4月21日メッセージノート*
十字架(I コリント1:18-2:5)


A. 十字架の言葉は (18-25)

1.十字架の上の出来事と私たちにとっての意味 (15:3,4、イザヤ53)

2.人間の知恵ではその真価はわからない

3.人の求めるしるしではなく、神様の与えるしるしをもたらす(マタイ12:38-40)

4.人の求める知恵ではなく、神様の与える知恵

5.信じる者を救う

B. あなたが誇るべきただ一つのこと。あなたの誇りは? (26-31)

1. クリスチャンであることをひそかに誇りに想っていないだろうか?

2.自分の能力,地位,生まれなどを誇りにしてはいないだろうか?

3.自分の何かを神様の前で誇るのではなく,与えてくださった方を誇ろう

C.どうやってイエス様を人に伝えるのか (2:1-5)

1.単純に十字架につけられたキリストを紹介しよう

2.霊と力による証明(1)=愛すること

3.霊と力による証明(2)=神様の力の現れを求める

*メッセージのポイント*

 十字架の出来事と復活は私たちが信じている事柄の中心です。この時代の風潮は信仰に理解を寄せるというよりは無関心か拒絶に傾いていますが、一方では人間の知恵はもはやこの社会の混乱に対してほとんど力にはなっていません。人々は無意識の内に本当に頼れるものを求めているのです。私たちは人々にイエス様を伝えようとしていますが、いつのまにか神様の方法というより、人の知恵に頼った宣教をして失敗することがあります。神様が求める宣教は、特別な人にしか出来ないような難しいものではありません。ただ単純にパウロの言葉にならって「私たちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば,私たちも義と認められます。イエスは,私たちの罪のために死に渡され、私たちが義とされるために復活させられたのです。」 といいましょう。そしてそこに神様にいただいた愛を加え、神様の力の現れを求めるのです。これが私たちに神様がさせようとしている宣教です。

*ミニチャーチのためのヒント*

1)私たちは何を宣べ伝えるのですか?

2)なぜ宣べ伝えるのですか?

3)どうしたらもっとよく宣べ伝えられると思いますか?

 

*ディボーションノート*―神様との親しく静かな時を持つためのヒント―
 ディボーションノートは毎日聖書を読み続けるための助けです。聖書箇所は金曜日のメッセージに沿って選ばれています。文章は書いた人が神様から受け取ったものですから、あくまでもヒントです。必ず(!)、はじめに聖書箇所を読み、その日のみことばからのメッセージをあなた自身が神様から受け取ってください。そして、それをぜひ誰かに(ミニチャーチなどで)シェアしてください。

23日はイースターです!今週はイエス様の十字架とよみがえりに想いの焦点を合わせ、感謝と賛美の心ですごしましょう

4月22日(土)Iコリント1:18-19/イザヤ29:13-14
 父なる神様がイエス様を通してなされた十字架のみわざを理解するのは私達の理性や知性でなく、自分にどれだけの神様の力が必要かと認識できた時ではないでしょうか?その認識しうる力でさえ、聖霊の力なしではありえません。つまり、私達は無力であり、神の前で無に等しいと本当の意味で分かったときに、神の力を体験することができるのです。初めは頭で理解しようとするのですが、その時は「これは本当に昔に起こったことなのかしら」とか「なんでこんなに残酷なことを通して私達は救われなくてはならないのか」と色々考えてしまう人が多いのではないでしょうか。それは、まだまだ自分のそして人間の罪深さはもちろん、私達人間がイエス様の十字架の苦しみを引き起こしたとはわかっていないからです。父なる神様が私達を救いたいというのと和解の道を作って下さったと分かるのも、頭ではなく謙遜な心でしかないので、人間の力で得た知恵や賢さはこの時ばかりは邪魔なのです。マタイ5:3にあるように、自分の心の貧しさを知って神様の前でへりくだった者だけが天国だけでなく、この世でも天国を味わえる気がします。

4月23日(日)Iコリント1:20-21/ヨハネ20:19-23 
 子供は決まって夕食後に「絵本を読んで」とせがみます。イースターの2日前の日も同じように自分の気に入った本を持ってやってきましたが、驚いたことにその本は普段はあまり読むことがないイエス様の生涯の物語でした。おかげでイエス様が生まれてから、十字架にかかり、その後復活するまでのストーリーをじっくり読むことができました。もちろん子供向けの本でしたが、私自身に対して、イエスが犠牲になったことを語り、主の大きな愛がとても強く伝わってきました。私は4月から職場が替わり、慌ただしく過ごしていたので、イースターをあまり意識していませんでした。しかし子供の日常の楽しみを通して、主がイースターの出来事を再度確認させてくれました。
 
4月24日(月)Iコリント1:22-15/ヨハネ21:15-19 
 ある本に、ジョン・ウインバー師がイエス様を受け入れた時の様子が書かれていました。彼はその時、何年も前に見た誰かのTシャツに書かれていた言葉を思い出させられます。「僕はキリストのために愚か者になれるよ。君には愚か者になれる人が誰かいるかい?」彼は今までは何とばかばかしいと思っていたのですが、その時の祈りのなかで真理を悟ります。『十字架は滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには神の力である(18節)』それ以来キリストのために愚か者になりっぱなしだ、と結ばれていました。 私はまだまだウインバー師のように、愚か者になることができていないなあと思います。イエス様のことを伝える時に愚かに思われるのではないかと恐れる自分がいることに気づかされました。キリストは神の力、神の知恵であることを確信し、また、自分の力でなく聖霊により頼んで伝えていかなければなりません。

4月25日(火)Iコリント1:26-27/サムエル上16:5b-13 
 時々なぜ神様は私のようなものを御国の働きのために用いてくださるのかと考えることがあります。優秀な人、強い人、容姿端麗な人ではなく、わたしのようなものをと。神様が見られるのはその人の心だということと知っていても、人をうらやんだりしてしまう私ですが、この個所で能力や才能、財産などがどれほど神様からその人を遠ざけてしまう危険性を持っているかわかりました。もちろんそれらの物を持っていることを否定されているわけではありませんが、神様を誇りとして生きる代わりに自分を誇りとしてしまうならそれは立派に?偶像礼拝です。ダビデの父エッサイは常識的な考えに捕らわれてダビデをサムエルに会わそうともしませんでした。しかしサムエルは神様の助けによりエッサイの子のうち誰が王にふさわしいか教えられ、正しい選択ができました。私たちも人を見るときに、その人の持っているものだけではなく、そのひとに対する神様の計画を信頼して接したいものです。

4月26日(水)Iコリント1:28-31/ガラテヤ6:11-18
 「あなたにとって大切なものは何か」と聞かれた時あなたは躊躇なく「イエス様」といえますか?私たちはいろいろ大切なものを心のなかに持っていて、口では「イエス様が一番」と言っていても、いざその大切なものを失いそうになると、イエス様のことを忘れて慌ててしまうものです。でも本当は私たちにイエス様とともにいること以上に素晴らしいものはないのです。あの十字架の出来事があってわたしたちはイエス様とともに歩む者とされました。今私の手元に一つのキーホルダーがあります。「このポケットの中の十字架は、私がどこにいようとも、イエスさまの十字架によって、<私はイエス様を信じるクリスチャンだ>ということを思い起こさせてくれる」と書かれています。十字架が、全てのこの国の人にとって単なるアクセサリーではなく、人生において最も重大な事柄を表していることを伝えるのが私たちの役割です

4月27日(木)Iコリント2:1-5/マタイ28:16-20
 ノンクリスチャンの人が私たちにキリスト教の事を質問する時、その人は正しい答えを探しているだけではなく、私たちが真剣であるのか、また答えている事を本当に信じているのかを見ています。もし、本当は答えがよくわからないのに、つくろった答えをしようとするなら、私たちは愚かに見えることでしょう。なかにはどんな答えをしようと信じない人もいますが、それはイエス様に直接会った人たちでさえも信じなかったのと同じです(マタイ28:17)。もし、聞き慣れない宗教用語をたくさん使って話しをすれば、知らない人はキリスト教やクリスチャンは自分たちとはほど遠いものと感じてしまうことでしょう。もしわかり易い言葉で人々に語り、答えがわからない時や間違えた時はそれを認めるならば、私たちもその人たちと同じであることがわかり、そこに神様に働いていただける余地を与えることになるのです。