*2000年5月5日メッセージノート*
育てる教会・育つ人(エフェソ4:12-5:20)
序.子供がとてもかわいいからといって、いつまでもそのままでいほしいという親はいません。今日5月5日は「子供の日」子供がすくすくと育つことをねがう祝日です。神様は人が子の成長を願うように、あなたとあなたの教会がもっと成長してゆくことを願っておられるということ。どうしたら成長できるかと言うことを聖書はどう教えているのでしょうか?
A. 成長=キリストの体が造り上げられてゆく (4:12-16)
1.自分の役割を知り、それを忠実に行うことによって(ローマ12:3-8)
結婚式はよくゴールインと表現されます。確かにそれは恋愛というレースのゴールといえますが、同時に「結婚生活」 という新たなレースの始まりであることをわすれ、走るのをやめてしまったら不幸な結果を招くことになります。
同じように人生のゴールはクリスチャンになることではなく、クリスチャンとして成長して「キリストの満ちあふれた豊さにあずかる」(エフェソ4:13)ことだということを、多くの教会、多くのクリスチャンは忘れています。キリストの体に連なる一人一人が分に応じて働き体が成長する(エフェソ4:16、ローマ12:3-8)。つまりクリスチャンになるということは、新しく生まれるということだけではなく、与えられている役割を担うことでもあるのです。成長しないのは役割を担おうとしないからであり、信仰はただ使うことによって成長するのです。
2.クリスチャンになることがゴールではない(12,13)
ここには私達がどのように成長していくかということが書かれています。神様はあなたがクリスチャンになり天国行きのキップを手に入れるだけで満足するのではなく、親が子供が成長しやがて同じことを協力してできるようになることを望むように、イエス様は私達が霊的にも成長して、神の国の前進のために働けるようになることを望んでおられます。
3.赤ちゃんクリスチャンが多すぎる(教会の責任、個人の責任) (ヘブライ6:1,2)
成長できない教会、成長しないクリスチャンの問題は初代の教会の時代からすでに存在していました。ヘブライ人への手紙のこの個所はそのことを良く伝えています。日本の教会がなかなか発展できない理由は伝道の問題というよりは、成長の問題ではないかとアメリカで成長している教会の牧師が指摘しています。決心する人がいないのではなく、決心した人がドロップアウトしてゆくことが不振の原因なのではないかというのです。固い栄養を食べようとしないクリスチャン、固い霊的な食べ物を提供しない教会はそのあり方を変えてゆかなければ成長は望めません。
4.赤ちゃんクリスチャンでいるのはつまらない (ヘブライ5:11-14)
成長には痛みや苦労が伴うのは、信仰についても同じことが言えます。
赤ちゃんのままでいるべきではない二つの理由があります。一つにはせっかくのキップをその価値の重要性を理解せず捨ててしまう時が来るかもしれないからです。もう一つの理由は、親が子供の成長に連れいろいろなことができるようになることをよろこぶように、神様もあなたの成長を楽しみにしておられるからです。大人には子供には出来ない楽しみがあるように、成熟したクリスチャンの楽しみがあります。それは「誰かが癒され、救われ、成長し、いつか自分と同じ働き人となる」過程をケアしつつ、ともに歩むことです。
B. 成長する体質に改善しよう (17-5:31)
1.クリスチャンとして歩むことを決心すること(17-24/マタイ7:21-23)
同じキリストについて学んだはずなのに、それが人によってひどく異なって現れ人々を混乱させます。未成熟のゆえにこのような混乱に留まるのではなく、踏み出すために、古い人を脱ぎ捨てて新しい人を着る、つまり内面の変化を待っているのではなく、変わろうと決心することです。
2.新しい生き方の具体例を知る(17-5:5)
キリストにある新しい生き方とは、罪と気付いたことを再び犯さないように主に願いそのように努める事であり、他者に対しては「神様の憐れみの心を持って赦す」という生き方です。そして神様の聖霊を悲しませるのではなく喜ばせる生き方です。
3.自分が「光の子」だという自覚を持つ(5:6-20)
ここでは神様の子供として育つという観点から、そこには見習うという要素、愛されていることを知っている者としてなすべきこと、神を神としない「偶像礼拝者」ではなく常に神様に感謝している者が、子が親の嗣業をつぐようにキリストと神の国を受け継ぐ事ができます。
神様の光は善と義と真実です。私たちもいま神様に結ばれて光となっています。一方、実を結ばない暗闇の業とは悪、不義、偽りです。忘れてはならないのは私たち自身が光なのではなく神様の光を輝かせているということです。それは神様を離れれば闇の中に引きずり込まれてしまう可能性があるということです。
神の家族の中で成長してゆくことについて書かれているこの部分の締めくくりに、賛美と感謝が指摘されているのは、それがとても重要な事でありここまで指摘されてきた事を可能にする鍵だからです。日常生活をキリストの香りを放って生きるためには、まず第一の事として常に主の前に出てワーシップする事をプライオリティーのトップとして守る事です。
*メッセージのポイント*
いくら教会の成長を願ってもそこに成長する体質がなければ、それを期待することは難しいことです。教会の体質とは私たちの霊的体質に他なりません。教会の役割は人々をキリストに導くことにとどまらず、キリストにあって成熟した人に育てること。そのために必要なのは机上の学びではなく決心すること、望まれていることを一つづつ聖霊の助けによってクリヤーしてゆくこと。
*ミニチャーチのためのヒント*
1)あなたのクリスチャン精神年齢は?
2)新しい生き方としての具体例をあげてみて下さい。
*ディボーションノート*―神様との親しく静かな時を持つためのヒント―
ディボーションノートは毎日聖書を読み続けるための助けです。聖書箇所は金曜日のメッセージに沿って選ばれています。文章は書いた人が神様から受け取ったものですから、あくまでもヒントです。必ず(!)、はじめに聖書箇所を読み、その日のみことばからのメッセージをあなた自身が神様から受け取ってください。そして、それをぜひ誰かに(ミニチャーチなどで)シェアしてください。
5月8日(月) エペソ4:12-16/ローマ12:3-8
神様は私達一人一人に霊的賜物を与えて下さっています。私自身も初めはどんな賜物が与えられているか知りたくてあるテストまで受けたことがあります。その時はちょっと意外な賜物が上位にあって、「ふぅん」なんて思ったものでした。それから数年が経ち、またテストしてみましたが、今回はどんなふうに変わったか知りたいという気持ちの方が強かったのです。上位の三つの賜物が入れ替わっていました。それより自分で驚いたのは、この三つも4位や5位とさほど点数に差が無くなっていたのです。前回ほどミニストリーや賜物に対して情熱が無いと聖霊に指摘されたとすぐに分かりました。主に対する情熱も反映されていましたが、主の憐れみによって早く指摘していただけたんだと思います。どんな種類の賜物より、どれだけイエス様を愛しているかが私達クリスチャンのライフラインです。しかし、私達はキリストの体の一部として、各自いただいたものはしっかり用いなければなりません。用いた分だけ、さらに主の恵み(力ある主の臨在)に与れるのです。神の国に方程式は確かにありませんけれど、私達の用いられたいという心は主に届くのです。
5月9日(火) エペソ4:17-24/マタイ7:21-23
神様は私たちにどのように生きることを望んでおられるのでしょうか?少なくとも神様は私達が「クリスチャンになる事」を期待しているのではなく、クリスチャンとして「生きてゆく」ことを望まれているのだということが今日の二つの聖書の個所から知ることができます。エフェソの信徒への手紙を読んで興味深いのは、古い人を脱ぎ捨て新しい人を着るという表現です。このことは自分で努力して変わってゆきクリスチャンと認められるのではなく、内側が古いままであっても、「新しく生きるんだ」と決心することによって、神様に新しい人と認められ成長してゆけることがわかります。
多くの人は「クリスチャンになるためには努力が必要だが、クリスチャンになってしまえば神様にお任せ」と考えています。でも本当は「クリスチャンになるためには何の努力も要らないけれど、クリスチャンとして成長してゆくためにはするべきことがたくさんある」のです。クリスチャンになることよりも、クリスチャンとして成長してゆくことのほうが大変なことです。決心は聖霊の助けによって一瞬で出来ますが、成長は一生の課題です。
5月10日(水) エペソ4:25-32/マタイ18:21-35
「絶対ゆるさない」なんて言ってしまうことがありませんか?つい口から出てしまうこの裁きの言葉が人を傷つけ神様を悲しませます。何人かの牧師の口からその言葉を聞いた時、わたしは神様から裁かれたような気がしました。そして私自身も言ってしまったことがあります。キリストにある新しい生き方とは、罪と気付いたことを再び犯さないように主に願いそのように努める事であり、他者に対しては「神様の憐れみの心を持って赦す」という生き方です。そして神様の聖霊を悲しませるのではなく喜ばせる生き方です。赦すということは決して罪を黙認することではありません。忍耐強く罪の中にいることがその人にとって益にならないばかりか、身を滅ぼすことになるは、コンスタントに伝えてゆくべきことです。けれどもその罪のゆえにあなたが迷惑を受けたとしてもあなたが「ゆるさない」と言うことを神様は望まれません。嫌な思いをさせられているのにゆるさなければならないとしたら私はどこで慰められるのか?といわないで下さい。あなたを愛し、いつも共にいて慰めてくださる方がいるのですから。
5月11日(木) エペソ5:1-5/ヘブライ12:1-11
子供に対して、どのようになって欲しいか、様々な親の思いがあります。私自身の得意な点は真似させようと思い、ほめたり励ましたり。逆に自分の短所が子供に観察できると、とてももどかしく、時には子供を責めてしまいます。聖書に従い子供を育てているつもりですが、私の子供に対する思いはもしかしたら利己的な面があり、間違った方向へ向いているかもしれません。しかし父なる神の私達一人一人に対する思いは決して間違いはありません。父が私に望まれる姿を求め、この事実を信頼し、日々変えられていくのです。人間の父親には模範としてはいけない短所が必ずありますが、私達の主は「神に倣う者となりなさい」のことば通りに全てを手本にできるのです。今日の箇所は具体的な私達の態度、在り方が示されています。注意深く一日一日を過ごしましょう。
5月12日(金) エペソ5:6-14/イザヤ60:1-4,19-22
神様の光は善と義と真実ですから、その正反対である暗闇の業とは悪、不義、偽りであることは誰にも明らかです。ところが、私はかつてこの世の価値観で生きていた時、暗闇の中で善も悪も正しく判断することができていませんでした。自分ではそこそこ正しく生きているつもりでしたが、なんと間違っていたことでしょう!今、私の回りにいるほとんどの人はそのような暗闇の中でそのことにさえ気づかず暮らしているのです。イザヤ書には主が私たちの永遠の光となってくださると書いてあります。感謝な事に不完全な私でも主が光をあてて輝かせてくださるのです!主に喜ばれることが何であるかを見分けながら歩み続け、もっと光の実を結びたいです。そして、暗闇にいる人たちが私たちを通して輝いてくださっている本当の光に気づいてくれることを願います。
5月13日(土) エペソ 5:15-20 / 詩編 26:1-8
今週の聖句の箇所(4:17からも含めて)は私たちが日々どのように生きるべきかを教えています。私はまだ若いクリスチャンだった頃、この箇所を何度も読み返さなければなりませんでした。このことは私にとって新しいライフスタイルであり、聖句によるとその時の友人はみな悪であるといういことだったからです。しかし、霊的に成長するにつれて、悪い習慣を持つ友人達とはある一定の距離をおくことが自然なことになっていきました。このような霊的な知恵は聖霊から与えられます。それは、他のクリスチャン達と交わる、聖書を読み学ぶ、祈りのミニストリーを受けるという色々なことを通してですが、神様との直接の関係から与えられるということが最も重要です。このことがワーシップを優先順位の上におく理由です。ワーシップは神様との関係を深めます。ワーシップソングの言葉や音楽は重要な働きをしています。つまり、教会で歌った歌を覚えているとそれは日々私たちに神学を教えてくれるのです。ワーシップの歌が心の中をめぐっている時、問題に陥ることは困難となります。
5月7日(日)のメッセージ
バド ピアソン「良い知らせの日」(列王記II 6:24-7:11)
5日、7日両日ともカセットテープがあります。お聞きになりたい方はご連絡下さい