*2000年7月9日メッセージノート*
わたしはどうしたらいいのですか?(使徒言行録2:14-47)
A. 今はどんな時代?(14-36)
1) 終わりの時(14-21 ヨエル3:1-5)
2) 聖霊の時(22-24 ヨハネ11:17-27)
3) 預言成就の時(25-30 詩編16:8-11)
4) 悪もまた際立つ時(31-36 詩編110:1)
B. 時代を越えた生き方(37-47)
1) 自分の原点を十字架に定める(2:37-42 イザヤ書53)
2) キリストの体である教会にしっかりと連なる(2:43-47 ヤコブ1:19-27)
*メッセージのポイント*
キリスト教は歴史観を持った教えです。歴史には始まりがあり終わりがあります。この歴史の中心がイエスキリストの十字架です。歴史はこの出来事以来絶え間なく終末に向かっています。クリスチャンは終末と聞いて恐れる必要はありません。なぜなら神様の救いを信じる者たち、教会にとっては、終末とは救いの完成を意味しているからです。教会はまたこの完成に向かって日々成長し、神の国を前進させている存在なのです。
*ミニチャーチのためのヒント*
1)私たちはどんな時の中を生きていますか?
2)時の流れに押し流されないために必要なことは?
*ディボーションノート*―神様との親しく静かな時を持つためのヒント―
ディボーションノートは毎日聖書を読み続けるための助けです。聖書箇所は金曜日のメッセージに沿って選ばれています。文章は書いた人が神様から受け取ったものですから、あくまでもヒントです。必ず(!)、はじめに聖書箇所を読み、その日のみことばからのメッセージをあなた自身が神様から受け取ってください。そして、それをぜひ誰かに(ミニチャーチなどで)シェアしてください。
7月10日(月)使徒言行録2:14-21/ヨエル3:1-5イエス様が復活され、天に昇られてから「終わりの時代」始まったのです。いつの時代でもキリスト者は、イエス様が今こそ再臨するであろうと願ってきたのではないでしょうか。その時がいつであろうと、私達は心と霊の準備はしておかなくてはなりません。同時に私達は一番追い求めるべきは主の御顔であって、奇跡、不思議、そしてしるしばかりではないのです。かといって、それらを全く期待しないのでは聖霊の力、つまり神の力に期待しないのでは「恵みの時代」に生かされている意味が無いのではないでしょうか。もちろん皆が皆全員、奇跡をを起こしたり、見たりするわけではありませんが、信じる者に神の霊が豊かに注がれるとみことばに約束されているのです。何度も言いますが、一人一人が期待することはとても重要であるということです。
7月11 日(火)使徒言行録2:22-24/ヨハネ11:17-27
主は私達の教会で新しい人を救いに導くという形で、その業を見せてくれました。一人の人のイエス様との出会いは計れないほど大きく、そしてすばらしい出来事です。私自身も改めて今救いの中にいることを新鮮に喜び、イエス様を信じて生きる毎日を見直すことができました。本当の生きる力を与えられていると感じることができます。主が私を創造され、目的を持ってこの場に置かれていること、見返りを期待することなく、人を愛せるようイエス様が見本になっていること、困難の中にあっても聖霊様の力で必ず助けてくれること等など。信仰をもってから今まで数え切れない、そして大きな力を与えて下さいました。感謝と同時にこの恵みをもっと謳歌しようと思っています。
7月12日(水)使徒言行録2:25-30/詩編16:8-11
ダビデは私たちと同じように弱さを持った人でした。しかし、ダビデは神様が自分を見捨てないことを知っていたので、何が起ころうと、神に仕え信頼していました。イエス様の復活はダビデの時代から何百年もの後にならないと成就しなかったのですが、彼は永遠の命という神の約束が全ての人々のためにあることを理解していました。そのことは、困難にあっている間でさえもダビデに希望と平安をもたらしました。また、従順でありたいという願いを与えました。ですから罪を犯したときに心から悔い改めることが出来たのです。
7月13日(木)使徒言行録2:31-36/詩編110:1神様は旧約聖書の預言通りに今聖霊をすべての人々に注いで下さっています。預言やいやし、世界各国でのリバイバル等、色々なことを耳にしたり実際に見たりします。使徒の時代の人々もそうだったでしょうが、現代の私たちもこのような力強い聖霊の働きを目の当たりにしたとき、二通りの反応がある思います。それを神様からのものでないと否定的に考え自分には関係ないとする人。それを神様からのものと信じ、自分のものとして受け取る人。私は初めて自分の頭では理解できない事を見たとき、すぐには信じることができませんでした。しかし、これが本当に神様からのものだったら自分も体験したいと思いました。神様は強制する方ではありませんから、私にわかる方法で教え導いて下さり、聖霊を豊かに注いでくださいました。また、他の人を通して働きかけて下さり、預言を受け取る機会もありました。大切なことは聖霊の働きを担って現すのは、信じている私たちであることを一人一人が自覚し、私たちの心を神様に向けていつも開いていることではないでしょうか?
7月14日(金)使徒言行録2:37-42 イザヤ書53
自分の言葉や行動で知らず知らずのうちに人を傷つけてしまった経験をしたことはありませんか?私は長い間、人間が自分の欲望だけに従って歩むなら、神様を悲しませ、人の心を傷つけてしまうという事を知らずに歩んできました。そしてイエス様を知った時に、それが自分の罪だという事に気づかされました。ユダヤの人達もイエス様が十字架にかかって初めて自分たちの罪に気付いたのでしょう。傷つけてしまった人の心はなかなか癒されるものではありません。しかしここには答えがあります。誰でもイエス様が私たちのためにしてくださった十字架の出来事を自分のためだと信じるなら,心が強く打たれます。そして「わたしはどうしたらよいのですか?」とたずねるでしょう。そして答えは「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば賜物として聖霊を受けます。」
7月15日(土)使徒言行録2:43-47 ヤコブ1:19-27神様を恐れるという事をずいぶん私は誤解をしていました。恐れる対象が気まぐれで乱暴な者なら恐れるというのは恐怖するということでしょう。しかし相手が信頼でき、公平で心が移り変わらない方ならそれは恐怖ではなく畏敬です。この神様の庇護の下にいるなら、自分が傷つくことを恐れる事なしに、愛する事ができます。失うことを恐れることなしに与えることができます。このことを知って神様は私にとって恐ろしい存在ではなくなりました。今日の聖書の個所には、誰でも自分の属する教会がこうであったら素晴らしいなあというモデルがここにあります。そして具体的な忠告をヤコブの手紙から受け取る事ができます。わたしも今日の二つの聖書の個所をしっかり心に留めて、私がその一部である「ユアチャーチ」がもっともっとこんな姿に成長してゆけるように歩んで行こうと思います