*2000年8 月6日メッセージノート* 
聖霊に導かれている教会のしるし(使徒言行録4:23-36)

A 客観的な認識と信仰のバランス(23-31)

1) 教会を客観的に見られる

2) 主の主権を確信している 

3) 歴史を解釈する力 (詩編2)

4) 自分の役割を知っている

5) 御心と願いの一致

6)祈りにおける一致

B 社会生活の中で表されるしるし (32-36)

1)所有観の変化

2)周りの人々からの好意 (IIコリント2:14-17)

3)バルナバのような人
     (9:26, 11:22-30, 14:, 15:1,39, Iコリント9:6, ガラテヤ2:1-, コロサイ4:10) 

*メッセージのポイント*
 神様が信じるもの全てに望んでおられる一致の願いが人々の心に働いて、今まさに初代の教会がここで形作られようとしています。教会は決して特定の人の情熱で出来るものではありません。はっきりした聖霊の導きによってそれは成されます。またこの世におかれて、よく用いられることのできる教会はその使命を果たすために不可欠な要素を持っている必要があります。ユアチャーチもそのような教会として成長していきたいものです。

*ミニチャーチのためのヒント*

1) この初期の教会と私たちの教会との共通点、相違点を考えてみましょう

2) 「すべてを共有していた」という精神を今、どう生かすことが出来ますか?


*ディボーションノート*―神様との親しく静かな時を持つためのヒント―
 ディボーションノートは毎日聖書を読み続けるための助けです。聖書箇所は金曜日のメッセージに沿って選ばれています。文章は書いた人が神様から受け取ったものですから、あくまでもヒントです。必ず(!)、はじめに聖書箇所を読み、その日のみことばからのメッセージをあなた自身が神様から受け取ってください。そして、それをぜひ誰かに(ミニチャーチなどで)シェアしてください。


8月7日(月) 使徒言行録4:23-24/列王記下19:15-19

一言に主が天と地と海と全てお造りになったと言いますが、私達はどれだけその意味と重大さを解っているのでしょうか・・・この箇所を読んで、また新たに私も考えてみました。キリスト者であればあたりまえに信じていることではありますが、その意味の深さを心にいつも留めておくべきと思います。それを一番解っていたのが、ここで大胆に真理を語っているペトロとヨハネです。自分たちの身の安全や投獄される心配など問題でないかのように、そして聖霊の力に完全により頼み、無学であったはずが大祭司達も一言も言い返せない知恵を発揮したのです。
 現代の日本に生きている私達は自分の信仰によって投獄される恐れなどもちろんありませんが、主の偉大さと聖霊の力をもっと信頼すれば、小さなコンプレックスから大きな試練まで相変わらず悩まされることはあっても、主にあっての喜びと成長が保証されているのです。

8月8日(火) 使徒言行録4:25-28/詩編2

現在でもクリスチャンになることやイエス様のことを伝えることが違法である国が世界にはいくつもあります。迫害や投獄が実際に起こっているのです。私たちは生まれた時から日本やアメリカのように言論や宗教の自由が法律で保証されている国に暮らしていますから、それが当たり前のように思っていますが、実はとても恵まれていることなのです。私はクリスチャンですと堂々と公言でき、イエス様のことを自由に伝えることができることを感謝します。 ただ一つ覚えておきたいのは、それでも敵は巧妙に妨害してくるということです。人々の心を神様から遠ざけるために何か別のこと(お金、ファッション、学歴など)に関心を向けさせたり、迫害とまではいかなくてもクリスチャンであることを家族や友人から反対されたりします。しかし、そのような困難が敵の策略であると知っていれば、落ち込むことはありません。敵よりももっと力と知恵のある神様により頼んで、祈り続け、勝利を得ることができるからです。困難にめげずイエス様のことを伝え続けましょう。

8月9日(水)使徒言行録4:29-31/マルコ16:14-18

ペテロとヨハネたちは宗教の統治者達から、彼らの熱狂的なミニストリーを公でしないようにとプレッシャーをかけられました。しかし、彼らはイエス様から受けた教えと戒めや、復活後に起こった様々な出来事の方が他の宗教家達の教えや戒めよりももっと重要であると確信していました。対決しなければならない場合にはいつも、イエス様の約束と教えを思い起こし(ヨハネ14:26)、神様がその約束を成就して下さるよう祈りました。私たちが神様の約束に従って祈るとき、神様が使徒達に応えて下さったように、私たちにも応えて下さることを期待しましょう。

8月10日(木)使徒言行録4:32/Iコリント1:10-17
聖書はキリストの教会が一つであること、私たち一人一人がそのからだの一部であること教えてくれていますが、実際には私の心がそれを納得することはとても難しいと感じてしまうことも多いのです。どれほどまでに惜しみなく与えることが出来るか?といつもイエス様に問われているような気がします。どうしても、目に見える自分の属している教会が他と比べてどうか、とか、自分の労力に相応な実を結んでいるのだろうか?無駄なことを続けているのではないか?などという思いが心を支配しそうになります。心を一つにするということは、物質面でも不足を補い合い、助け合うということでしょう。本当はこの一点に心を集中することを神様は望んでおられるのではないでしょうか?私たちはあらゆる物について一時的に所有を認められていますが、いつでも働きのために用いることができるという権利を神様が有していることを認めねばなりません。自分の貧しさを顧みず与える者、与える教会になることを神様は求めておられるのだと思います。

8月11日(金)使徒言行録4:33/IIコリント2:14-17
昨日の自分の一日を振り返ってみました。朝聖書とディボーションノートを読んで、今日一日の自分と家族の平安を主に祈りました。通勤の自転車の上ではワーシップソングを口ずさんでいました。ここまでは良かったのですが職場にいる約9時間、祈ることもせずイエスさまを手本に自分の言動を考えてみることもありませんでした。この変わりように気がついて自分が情けなく、落胆してしまいました。主とコミュニケーションを図らない時間帯は、罪に陥りやすく、そのことを自分でも気がつくこともなく過ごすこともあると思います。ましてキリストの香を放つことができたでしょうか。
 使徒たちが人々に大胆に証をしていたにも関わらず、受け入れられていたのは彼らの行い、言葉、人柄にキリストの香が漂っていたからだと思います。全てが愛に満ちていたのです。私は使徒達のようになり、この場に置かれた務めを果たせるよう、毎朝願う必要があります。

8月12日(土) 使徒言行録4:34-37/IIコリント9:6-15
ここでなされていることは何か共産主義みたいな感じですが、強制的になされていることではなく自発的なものであったことに注意しなければなりません。こんなことが何の強制もなくなされていたことをあなたはどう思いますか?きっとここにはクリスチャンは献金しなければいけない、という思いではなく、周りの人々のニーズを注意深く察知し、それを自分で出来ることによって満たしてあげたいという願いに基づくものだと思うのです。その出発の動機が愛に基づくだけでは不足です。共産主義にしても動機は憐れみや愛だったのです。出発点だけではなく、そのプロセスの中でいつも愛が基本に無ければあらゆる人間の営みはむなしく失敗するでしょう。愛が基調にあるなら、逆に現れる形や制度はどのようであっても神様の栄光を現すものとなってゆくのだとおもいます。