*2000年8 月13日メッセージノート*

心はどこを向いているか? 
使徒言行録5:1-11


A 神様は心を見られる

1) ささげる心(5:1-4/IIコリント9:6-15)

2) 神様を欺くことはできない(5:5-6)

B 人が神様を欺こうとする時(創世記3)

1) サタンに心を奪われる(5:3)

2) 人にそそのかされ(5:7-10)

C 神様は愛の神・赦しの神ではなかったのか?

1) 地上の歩みは人生の一部に過ぎない(Iコリント5:1-8)

2) どんな死に方をするかが問題では無い(ルカ13:1-5)

3) 心を神様に向けて歩こう(使徒言行録5:11/箴言14:22-27)

*メッセージのポイント*
 私たちの行為の全ては,最終的には神様に対する行為であると同時に、(私たちが神のからだ=教会の一部であるからには)神様ご自身の働き、教会の働きでもあります。それは決して報酬や人の賞賛のためではありません。このことを忘れる時に、神様の栄光の名のもとで、虚偽や不正が行なわれキリストの体を傷つけることになってしまいます

*ミニチャーチのためのヒント*
1) あなたが受けたサタンによるそそのかしの経験をシェアして下さい
2) 何で彼らは命を落としたのだと思いますか?

*ディボーションノート*―神様との親しく静かな時を持つためのヒント―
 ディボーションノートは毎日聖書を読み続けるための助けです。聖書箇所は金曜日のメッセージに沿って選ばれています。文章は書いた人が神様から受け取ったものですから、あくまでもヒントです。必ず(!)、はじめに聖書箇所を読み、その日のみことばからのメッセージをあなた自身が神様から受け取ってください。そして、それをぜひ誰かに(ミニチャーチなどで)シェアしてください。

8月14 日(月)使徒言行録5:1-2/使徒言行録12:20-25
 他の人から良く思われたい、認められたいと願わない人はいないと思います。しかし、本当に畏れるべきなのは、人の目ではなく神様の目です。いくら献金をしたか、どれだけ奉仕をしたかなど、人は目にみえる部分で計り、評価しますが、神様はその心を見ておられます。私たちのmotivation(動機)が純粋なものであれば、それがどんなに小さなことでも神様は喜んでくださいます。しかし、そうでない場合...今日の聖書の箇所を読むとよくわかります。日々私のすること一つ一つが自分の栄誉のためではなく、神様の栄光のためであり、神様に喜ばれるものであるかどうか今一度吟味したいと思います。

8月15日(火) 使徒言行録5:3-4/IIコリント9:6-15
 このストーリーのポイントは、私たちが言葉にした意志と行いは一致していなければならないということです。たとえ献金箱に100円しか入れなかったとしても、それはかまいません。しかし、はじめはもっと入れる意志があったのなら問題です。私たちの意志とは、公に誰かに対して言った言葉だけでなく、自分の心の中だけで意図していたことも含まれています。私たちが自分自身を偽るとき、サタンにドアを開き、私たちの考えに影響を与えることになります。そして、それが頻繁に起こると、何が真実なのかという私たちの感覚は麻痺してしまいます。ですから、自分自身に正直になることはとても大切なことです。神様は全てをご存じですから神様をだますことは出来ません。私たちは神様の前に出て、本当にオープンに正直に言いましょう。「神様、私はこうしたいのですが、それができるかどうかわかりません。あなたの助けが必要です!」 守ることの出来ない約束をしてはいけません。

8月16日(水)使徒言行録5:5-6/Iコリント5:1-8
初めてこの個所を読んだ時、いくら神様を欺こうとしたからといってこんな目に合わせるのはひどすぎると思いました。けれどもIコリント5:1-8と合わせて読んだ時に神様の憐れみは彼らにも及び続けていることがわかりました。この目に見える地上の生活は永遠の中の一部でしかありません。この地上での歩みの終わり方は様々ですが、時には人間の理解を超えた、人間の側から見れば納得できない形でやってくることもあるのです。でもその理由の一つには、その人が永遠の滅びに落ち込まず、霊においては救われるためでもあるということです。これは私の考えですが、地上における激しい霊の戦いの中にある教会にとって、彼らの行為を黙認することは教会全体を滅びに向かわせる致命的な病巣を放置することに等しいことだったのではないでしょうか?もちろん人々は神様にその裁きを任せたので、神様は彼らを一時黄泉に隔離されたのでしょう。神様は過失や失敗を罰する方ではありませんが、欺こうとした者に対しては、「もう地上にいなくてもいいよという処置もあるということです

8月17日(木)使徒言行録5:7-8/Iテサロニケ4:1-12  
彼らは夫婦という神様が最も大切にしておられる人間関係をもって神様を欺こうとしたのです。もしどちらかがサタンに耳を貸さずに、主の声を聞こうとすれば、このようなことにはならなかったのです。しかし夫婦の人間関係の中でパートナーのアドバイスを聞き入れることさえ、サタンは妨害してくるでしょう。サタンは人間のプライドや自尊心につけこんで、私達が神様の意志に背くように仕組みます。主から与えられているパートナーが隣に置かれていて、その人が主からの知恵と指針を示してくれる、ということを意識しなくては聞く態度にはとうていなれないでしょう。弱い私達ですが神様の存在と憐れみが必ず間違いを修正してくださいます。私自身がサタンに支配さず、神様が望まれる夫婦関係を保つことができるよう祈ります。

8月18日(金)使徒言行録5:9-10/マタイ6:24
人は神様を信じていながら、時々サタンと裏取引をするというようなかたちで生き続けることは出来ません。神様を欺くことは誰にも赦されませんません。神様を信じていない人の罪は重大ですが最悪の罪である神様を欺くことではありません。けれどもクリスチャンであるなら信じている神様を欺こうとする可能性があります。それはサタンに心を奪われるということです。人は誰かが同意したり、保証してくれるとよいことでも悪いことでも大胆になります。 結婚するまでとても神様に使えることに熱心だった二人が、結婚後いつのまにか二人で仲良く?神様から遠ざかって行ったカップルを何組も知っています。一人で仕えるより、二人で心を合わせて仕える方がより困難なのかもしれません。結婚は神の国の大きな祝福であるがゆえにサタンから見れば重要な攻撃目標なのです。アダムとイヴのように互いに責任をなすりつけあってサタンの口車に乗り道を踏み外さないようにしたいものです

8月19日(土)  使徒言行録 5:11/箴言14:22-27
 神様を恐れることと畏れることを知っている者は幸いです。神様からの知恵と約束された豊かな人生を送ることができるのです。かく言う私ももちろん100%解っているわけではありませんが、主からの知恵で法律も戒めもだれがボスであるかということではなく、ましてや私達を苦しめるためのものでもなく、私達を守るためのものであるということが分かり始めたのです。主の愛のゆえに、私達のために十戒もあるのだと理解することができたのです。どうやって、又は何をして生きていけば良いのかと思うとき、主を畏れ求め続ければ必ず主のみこころが見えてきます。神様の目にかないたいそして、喜ばれたいと望むとき、主を畏れることを知ることができ、主が私達をサタンから守って下さるのです。