* 2000年8月第3週メッセージノート*
心の畑をたがやそう マルコ4:1-20
A 蒔かれた後の心の状態
1) とにかくまず種を蒔こう(5:1-4/IIコリント9:6-15)
2) 蒔いてもすぐには心を開かない人もいる(5:5-6)
3) ピンチに弱い根の浅い信仰
4) 誘惑や多忙に弱い信仰
B 種蒔かれた畑を耕し、収穫を得るまで手入れしよう(創世記3)
1) 真剣に、全身全霊を傾けて聞こう(5:3)
2) 信じるとは従うこと(5:7-10)
*メッセージのポイント*
神様の言葉を聞き従うか従わないかは、私たちに任せられていることです。また心をよく耕して大地に根を張るようにイエス様につながることも、そうしないことも。神様からのエネルギーをいっぱい受け取れるよう邪魔な茨を取り除くことをするかしないかも、私たち一人一人の決断にかかっているのです*ミニチャーチのためのヒント*
1) 自分の心の状態が石地にような時の経験がある人から学びましょう
2) このたとえで神様があなたに教えられたことで一番印象深いことを語り合いましょう
*ディボーションノート*―神様との親しく静かな時を持つためのヒント―
ディボーションノートは毎日聖書を読み続けるための助けです。聖書箇所は金曜日のメッセージに沿って選ばれています。文章は書いた人が神様から受け取ったものですから、あくまでもヒントです。必ず(!)、はじめに聖書箇所を読み、その日のみことばからのメッセージをあなた自身が神様から受け取ってください。そして、それをぜひ誰かに(ミニチャーチなどで)シェアしてください。8/21 マルコ4:1-4/13-15
聖霊に満たされてすばらしいメッセージをする牧師を招いての聖会に参加した時のことです。私自身を含め、会場にいたほとんどの人が神様のことばに触れられてとても満たされました。ところが、後になって、私の友人と一緒に来ていた女性(クリスチャン)が非常に気分を害して帰っていったと聞きました。理由は、その牧師がきちんとしたスーツ姿ではなかったからと言うことで私はとても驚きました。残念ながらその女性は語り手の服装を気にするあまり、神様からのメッセージは全く受け取っていなかったのです。人はそれぞれ違う価値観を持っていますが、一つの事にあまりにもこだわりすぎていると、神様からの本当に良いものまで見失ってしまうことになりかねません。神様がくださるメッセージや約束はみなに分け隔てなく与えられますが、それを受ける人の心の状態によって、受け取るものや結ぶ実が違うのです。私たちの心は今どのような状態でしょうか?何かに縛られて堅くなっていたり、神様以外のことに気をとられていて、せっかくの種が成長できない状態になっていないでしょうか?素直な柔らかい心で神様からのものを受け取りたいです。
8/22 マルコ4:5-6/16-17
私たちのまわりには、石ころだらけの人生をおくっている人が大勢います。彼らこそ神様の助けを最も必要としているはずですが、そういう人にほど神様のことを伝えるのは難しいものです。しかし、石ころだらけの人生だからといって、その人たちが絶望的だと断言すべきではありません。石ころだらけの道は一見荒々しく見えますが、石ころの下に良い土壌が隠されていないとも限らないからです。私たちのすべき事は種を蒔くことですが、種を蒔く前 に石をどけて下の土がどんなものか見てみることはできないのです。私たちにできることはただ種を蒔き、その後何が起こるのかを見守ることです。
8/23 マルコ4:7/18-19
この箇所を読んでギクッとしたのは私だけではないと思います。もちろんこのたとえ話はみことばを聞いた時、又は少しの時間のたった状態で、私のように10年もたってからまだこんなことではとは思いますが、それが真実です。心のプライオリティーと言うのは常にチェックしておくべきものと思います。サタンの狡猾な手段はもちろん、自分の弱さを見てそこに焦点をおいてしまった時など多々あるのです。主の強さに焦点をおいている時、自分の弱さに気付かないどころか、自分の弱さを喜んでいる自分があるのです。主はこんなに弱くてどうしようもない私をそのまま受け入れて下さっていると!!嬉しくて話しがそれましたが、主としっかりつながっていると、この世の思い煩いから主のある希望へと心の平安を取り戻せるのです。試練や悩みはなくなりませんが、心を思い煩いでいっぱいにすることはないのです。
8/24 マルコ4:8/20
聖書の中には2000年も前から変わらない人間の真理や神を讃える美しい言葉、またイエス様が語る救いや知恵、愛の言葉が詰まっています。それらを読むと私達は救いの喜びや信仰の強さ、そして生かされている喜びを実感することができ、とても豊かな気持ちになれます。しかしこれは主が与えてくれる恵みのほんの一面だけであり、主が最も望んでいるのは聖書の前や礼拝での満たされた時ではないことを忘れてはいけません。そこから 離れた時に愛や知恵の言葉を実際の生活に生かすこと、これこそ神様の本当の望みなのです。私は一日の終わりに日記を付け、御言葉を実行できたかどうかチェックすることにしています。(毎日つけているかは別として、わたしにとってクリスチャンになってからの日記は有意義です)自分の行動を振り返ると、主に対し恥ずかしいことが多いのですが、実を結んだ時の喜びは100倍以上のものがあります。
8/25 マルコ4:9/ローマ11:7-16
聖書に記されている神様の救いの計画は壮大です。イスラエルの民を選び、預言者を通して語りかけ、イエス様の来臨を準備し実行された後はいったん異邦人の救いを推進させ今に至っています。しかし救いの全体計画から見ればイスラエルの民は決して見放されてしまったわけではありません。旧約の民イスラエルに対して、新約後の時代に生きる私たち異邦人クリスチャンの彼らに対する態度は、何度も間違え神様を悲しませてきました。反イスラエル主義が頂点に達してナチスによる最悪の迫害が現実になってしまったのは、クリスチャンの中にさえそれを許す土壌があったことを否定することは出来ません。第二次大戦後は反イスラエル主義の反動として福音の真理を曲げてまで(パレスチナ人クリスチャンの存在を無視して)現在のイスラエルに同調しようとする政治的な思惑が絡んだ動きが特にアメリカを中心としてクリスチャンの中にも見られます。神様は人間的な次元において反イスラエルでも親イスラエルでもありません。どんな民族であれ、心から神様に聞きたいという願いを持つ人を祝福の内に導いてくださるのです。
8/26 マルコ4:10-12/イザヤ8:6-13
聖書を読めば自動的に誰でもその核心を理解し受け容れられるわけではありません。神様は信者・教会員を求めておられるのではなく従う者、仕える者を求めておられます。それにしても神様はこれほどまでに私たちを信頼してくださるのはなぜでしょう?神様はほとんどの場合、信じていない人に直接アプローチするのではなく、信じる者を用いて真理を伝えようとなさいます。私たちがイエス様を伝える時、その人がイエス様やキリスト教、また聖書に興味があると言ったとしても、「じゃあ聖書を読んでみれば」と勧めるだけでは不親切なのです。第一にわからないことがあったらいつでも教えてあげられることを知らせておかなければなりません。そしてそれにも増して大切なことは、聖書の言葉があなたの生活の中にどう生きているのかを言葉ではなく、その人があなたを見てわかるようにあなた自身が御言葉に生きることです。このことがもっとできるように神様に助けを求めて祈りましょう