*2000年10月1日メッセージノート*
「愛さない人々を愛する」
(使徒言行録6:8-8:1、ルカ6:32-36、ヨナ書)A 神様を信じられない人の限界
1) 世界は疑い、ねたみ、憎しみで満ちている
2) 憎しみのエネルギーでは世界は変わらない
B 信じるとは「無限の愛に生きること」だ
1)有限の世界で無限の方に信頼を置いて生きる
2)無限の方は歴史の中でご自身を示される
(人々を通して、あなたを通して)
C 信じたら踏み出そう
1)自分を見つめる事を止める
2)自分のために人をコントロールしない
3)無限の方の力を頼れるのだから、やり直せないことは一つもないし、やり直せない人は一人もいないと確信しよう
*メッセージのポイント*
ステファノの最後は、イエスキリストの愛が信じる人を通してあらわされる、ということの証拠です。イエス様の愛のように自分を愛する者にだけではなく自分を迫害する人々にまで及ぶ愛、地上の常識を超えた愛があなたのうちに働きます
*ミニチャーチのためのヒント*
1)イエス様の愛を表すために自分に必要なのは何?
2)何で私はこんな世界に生きているのでしょうか?
*ディボーションノート*―神様との親しく静かな時を持つためのヒント―
ディボーションノートは毎日聖書を読み続けるための助けです。聖書箇所は金曜日のメッセージに沿って選ばれています。文章は書いた人が神様から受け取ったものですから、あくまでもヒントです。必ず(!)、はじめに聖書箇所を読み、その日のみことばからのメッセージをあなた自身が神様から受け取ってください。そして、それをぜひ誰かに(ミニチャーチなどで)シェアしてください。
10/2 使徒言行録6:8-15
ステファノと言う人と彼のした業を勉強するときにいつも感じるのは、この人のように自分はなれないという思いです。8節には「素晴らしい不思議な業としるしを行った」と書いてありますが、なぜそのような人を人々は迫害したのでしょうか・・・。ステファノは素晴らしすぎるので、彼を迫害した人々から何か学ぶ方が私には身近なような気がするのです。聖書を読む時、色々なことが私達には明らかにされているので「なぜ?」と思うことが多々ありますが、その場にいたら私も迫害する側にいたかもしれないということです。本当に神に遣わされた人物なのかどうか見極められるか、又は絶対に自分は嫉妬しないとは言い切れません。自分で自分の心をチェックすることも大切ですが、自分の心ほど当てにならないものはありません。いつの日も変わらずしていかなくてはならないことは、できる限り主のそばにいて、主に心をチェックしていただき、一番重要なのは主をおそれる人になることです。主の知恵をいただける人は神をおそれている者だけだからです。(箴言2:5-6)
10/3 使徒言行録7:1-16
アブラハムやヨセフなど人類の歴史を担った人々の信仰は旧約聖書のなかに記され、これからの未来に新たに聖書を開く人々にも影響を及ぼして行くでしょう。彼らの働きは偉大です。一方私達の信仰は日常の小さなことの積み重ねが多く、記述として残ることはないでしょう。しかし私達の家庭内での愛の行動が自分の子供に信仰を伝え、さらにそれが孫へそして子孫へと伝わっていきます。職場や学校での愛が新しい人を救うことになります。未来を考えるときに私たちの信仰がどれだけ重要か理解できると思います。そして記述として残らなくても、神さまが見ていて下さり決して忘れることがないということは大きな励ましです。
10/4 使徒言行録7:17-36
私が神様を信じよう、神様に従おうと決心するのに時間がかかったのは、今までの自分の生活がずいぶん変わってしまうのではないかと心配したからでもあります。別にモーセのように王宮に生まれたわけでもないのに、やはりそこには不安がありました。何もかも捨てて主に従うということが理解できずに、何か世捨て人のようになることを求められているのではないかと思ってしまったのです。クリスチャンがこの世で積極的に生きることを求められていることを知らなかったのです。誰もイエス様が与えてくださる新しい命に生きることに比べれば、捨てることを惜しむべきものは何一つありません。モーセの生涯から私たちには学ぶことがたくさんあります。彼はヒーローですが同時に献身の人でもありました。自分の生活のことだけを考えるなら一生王宮で優雅な暮らしができたのです。でも彼は神様の仕事に生きることを選び取り、充実した生涯を全うしたのです。私もスケールは数段小さくてもモーセのように歩みたいと願っています
10/5 使徒言行録7:37-43
この神の立てたモーセに対する多くの人々の態度は、使徒言行録の時代にも今の時代にも見られる典型的なものです。それは本当に従うべきものを示しても簡単に自分たちの偶像を作ってしまい、その目先の利益を守るために真理を指し示す声に耳をふさぎ、圧殺してしまおうとさえするという態度です。神様の召命を聞く前の若いころの生意気なモーセに従う者がなかったというのは当然だと思いますが、神様の導きに従って出エジプトという大事業を成功させてからのモーセに対してさえ不満の声は絶えず聞こえてきました。クリスチャンはさすがに目に見える偶像を持つことはありませんが、目に見えない偶像に縛られて神様から遠く離れてしまっているという状態に陥ることはあるのです。神様以外の人間に信頼を置いていないか?、自分の仕事や趣味が偶像になっていないか?神様にではなくお金に仕えていないか?人間的によいこと、たとえばボランティアで人助けをすることであっても、それをすることが神様を礼拝することよりも上に優先順位があるならそれは立派に?偶像です
10/6 使徒言行録7:44-53
「真実には痛みがともなう」という英語の格言があります。つまり、真理は時に人々の気分を害することがあるということです。しかし、現実に真理とは、いくら聞きたくなくても、聞く必要があるものです。もし、真理を受け入れるなら、心と思いに平安をもたらし、人生に自由をもたらすからです(ヨハネ8:32)。もし、私たちが人々の反応を気にするあまり、率直に真理を語らないのであれば、私たちは人々を欺いているのと同じです。たとえ、友情関係を失うというリスクがともなうとしても、私たちはイエス様のことを語るとき、率直にならねばなりません。
10/7 使徒言行録7:54-8:1
私はステパノのように大胆に神さまのことを人々の前で証しできるだろうか?また、もし私がステパノの立場だったら、殺される直前にその人たちのために罪の赦しを願うことができるだろうか?と考えました。とてもできそうにないなあと思いました。そして、ステパノに限らず、なぜ神さまのために一生懸命語る人がこのような仕打ちを受けなければならないのだろうという疑問も出てきました。しかし、ステパノを殺すことを賛成し、率先してクリスチャンを迫害していたパウロでさえ、神さまは変えてくださり、それどころか後に偉大な使徒として用いられるようになります。神さまのご計画は私たちの思いや理解をはるかに越えているのです。臆病な私でも、神さまが必要なときに語る勇気を与えてくださり、用いてくださるよう祈りました。