*2000年10月29日のメッセージ*

「仕えるライフスタイル」フィリピ2:3−8 

A イエス様が示された模範

1. イエス様はご自分の地位や栄光を求めなかった(v.6, Lk.4:5-8)

2. イエス様は仕えられるためにではなく、仕えるために来られた   
(v.7,Jn.13:12-17,Mt.20:28)

3. イエス様は不正な行為に対してご自分では報復せず、それを受け止められた (v.8,Mt.27:28-40)

B 私たちはイエス様の模範に従うことを期待されてい(v.5,Jn.13:15) 

1.私たちは自分個人の栄誉のための野望や希望を第一にするのではなく、
  まず他の人の必要に心を留めるべきです。(v.3-4)

2.私たちはイエス様がそうされたように、不当な扱いを受け止めるように求められている

*メッセージのポイント*
W.W.J.D.? これはアメリカの教会で人気のあるキャッチフレーズです。Tシャツやシール、また他のアクセサリーにもよく使われています。その意味は「イエス様ならどうなさるでしょう?」です。どんな状況の中でも、特に他の人との関係において、私たちはいつもこのことを自分に問いかけることができます。

*ミニチャーチのためのヒント*
もしイエス様があなたのミニチャーチに来られたら、何をなさるでしょう?
あなたはどうしますか?

*ディボーションノート*
―神様との親しく静かな時を持つためのヒント―

ディボーションノートは毎日聖書を読み続けるための助けです。聖書箇所は金曜日のメッセージに沿って選ばれています。文章は書いた人が神様から受け取ったものですから、あくまでもヒントです。必ず(!)、はじめに聖書箇所を読み、その日のみことばからのメッセージをあなた自身が神様から受け取ってください。そして、それをぜひ誰かに(ミニチャーチなどで)シェアしてください。

10/31(火)フィリピ2:7, ヨハネ13:12-17, マタイ20:28)

クリスチャンとしてイエス様と共に生きるようになってから、自分の中に「方向転換」が起こっているのに気づくことがあります。以前の私はもっと自分の栄誉や成功を求め、自分が低く見積もられることに我慢ができませんでした。だから物事がうまくいくと優越感にひたり、その後には必ず失敗と劣等感が襲ってくるという繰り返しで、満足や喜びを感じることがとても少なかったように思います。
 イエス様は新しい生き方をその姿をもって教えてくれました。イエス様の私に対する愛が分かるにつれて、他の人をもっと愛したいという願いが大きくなったのです。家庭で、教会で、会社で、そして時には見知らぬ人々の間でも、今の私はどんな小さな必要であってもそれに応えることができる時に本当の喜びを感じています。 

11/1(水)フィリピ2:8, マタイ27:28-40, イザヤ53:7, ペトロT2:22-23

イエス様が十字架の死を受け入れられたことは、私たちにとって二つの重要な意味があるように思えます。第一にそれは私たちが解放されるためにどうしても必要だったということです。第二の意味はこの第一の意味ほど人気がありません。それは「赦され、解放された私たちがイエス様の十字架を背負って歩む」お手本になったということです。ある人は自分が救われた、平安を得たところで止まってしまっているように思えます。それはクリスチャンとして新しい命を得たけれども、ちっとも成長せずに赤ちゃんのままでいることです。イエス様はこの十字架の二つの意味を両方とも受け取ってほしいと願われているのではないでしょうか?自分が生きて働いているキリストの体・教会の一部として主の愛の働きのために多くのことを犠牲にして互いに使えあうことを望まれているのではないでしょうか?

11/2(木)フィリピ2:5; ヨハネ13:15

世界中に国王、王子と呼ばれる人が何人位いるのか私には見当もつきませんが、過去の歴史をたどっても自分の従事者やしもべの足を洗ったことのある王様は一人もいないでしょう。たとえ何の肩書きもない人でさえそんなことは簡単にはできないことです。 しかし、王の王と呼ばれるイエス様は弟子たち一人一人の足をたらいの水で洗い、手ぬぐいでふいたのです(ヨハネ13:1-15)。神であるご自分を無にして、特権を主張されずに(ピリピ2:7)、逆に仕えることを身をもって教えてくださいました。なぜそんなことができたのでしょうか?それは、イエス様が弟子たちを、また人々を心から愛しておられたからです。私たちがイエス様を模範にして生きたいと願うのであれば、まず、私たちの心の中をイエス様の愛とあわれみと恵みで満たしていただく必要があります。

11/3(金) フィリピ2:3-4

人を自分より優れた者と思うと、自分が小さいつまらない存在に思え、落ち込んでしまう時があります。目に見えるものさしで自分を計り、結果的に卑屈になってしまう悪い癖です。主は「人を優れた者とし、へりくだりなさい」と教えていますが、同時に卑屈になる必要がないことも十分教えてくれているにも関わらず情けないことです。私達がこのままの自分の姿で受け入れられ、愛されていること、たとえ人から見たら劣っていたとしても主だけは尊いものとして見てくれること、主にとっては私は必要不可欠な存在で大切な務めを任されている事実があるのです。この事実があるので私達は自分の存在価値を見いだすことができて、生きていけるのです。神様の愛を感じたうえで、健全に人を優れた者と思い、仕えることができるよう変わりたいと思います。

11/4(土) 1ペテロ 2:19-21

この聖句で述べられていることは、もしも私たちが法律的に無実の罪で間違って告発された場合に、自分の身の潔白を証明しなくても良いという意味ではありません。ここでは、むしろ自分の信仰やイエス様に従うことに伴う行動について迫害を受けたときのことが述べられているのです。私たちはクリスチャンであるがゆえに他の人から不当な扱いを受けることがあります。その時はそれに応戦するのではなく、神さまが私たちの味方であることを知りつつ受け入れることが最善なのです。クリスチャンに反対する全ての人たちと戦うことは私たちの仕事ではありません。しかし、心を開いていて、福音を聞く準備のある人たちに伝えることが私たちの役目です。