********メッセージの梗概*********
2000/11/05 神様の食器棚 使徒言行録9:1-22
食器棚の中の器にはそれぞれ用途があり。色も形も大きさも皆違いますが。どれも楽しい食事に欠かせないものばかりです。家の中に一つぐらいは食べ物を載せない飾り皿があってもいいでしょうが、みんなそれでは食事ができません。人を器でたとえることは聖書だけではなく日本でも一般に見られることです。クリスチャンとは神様に特別な目的のために選ばれた器です。
A 「選ばれた器」としての生き方
1) 主に出会う経験(3-5)
あなたが最も自分にふさわしい生き方をしたいと思うなら、パウロが体験したように個人的にあなたの主と出会う体験が不可欠です。旧約聖書の中に出てくる神様に用いられた人たちが困難を乗り越え使命を果たすことができたのは、その人生の原点に神様との出会いがあったからです
2) 自分が用いられるということについての確信(サムエル上16:1-13)
神様の働きのために人が用いられる時、リーダーシップは必ず神様が取られます。私たちが働きを選ぶのではなく、神様が任命されるのです。しかも神様の働きには苦しみもあることがここに示されています。はじめは意に染まないミニストリーかも知れません、苦労が大きいかもしれません。でも主があなたに呼びかけてくださったことなら必ず。肯定的に受け取ることができます。とにかくはじめてみることです。耐えられるところまで耐えてみることです。
3) 今なすべきことを行う(6)
あなたが今最優先にするべきことはなんですか?サウロは街に入るということだけを命じられました。そして彼はそうしたので、自分が生涯を賭けてなすべきことを知ったのです
4) 助けを求める(7-8)
サウロは迫害の先頭にたって歩いていましたが、いまや同行していた人々の手を借りなければどこにもいけない状態になってしまいました。神様に用いられたいなら人から助けられることを拒んではいけないのです。
5) 主の前に静まる(9,イザヤ57:16-19 )
今までの自信に満ちたサウロが人の手を借りなければ歩くこともできなくなってしまったのです。今までの自分の存在を支えるすべてがここで崩れ去りました。どのような気持ちで飲まず食わずの3日間をすごしたかここには書いてありませんが、徹底的に砕かれ清められたのではないでしょうか?
6) 自分の役割を知る(15-18)
スープボウルで味噌汁は飲みませんし、メインディッシュに納豆はのせません。器が自分の役割を知らなければ、しなくてもよ いことのために苦労をしたり、なすべきことを怠ることになります。
7) 過去の重荷を主の前に下ろす(19b-22,テトス:11-15 )
イエス様こそ救い主であるという真理は、サウロの新しい命の原点となりました。そして誰もがこの原点に立たなければ救われないことを伝えずにはいられなかったのです。今までの自分がどうであったかという事でサウロは伝えることを躊躇しませんでし た。あなたも本当のことを求めて、それをイエス様に見出したものです。以前の自分がどのようなものであったかという事にとらわれないで今の喜びとすべての人に必要な真理を伝えましょう。
B 「新しい器」を歓迎する態度
1) 「選ばれた器」は別の「新しい器」を歓迎し共に用いられることを願う(17)
残念なことに私たちは自分のプライドに心が不自由なものです。誰かが自分の地位を脅かそうとしていると思いがちです。そして「古い器」は「新しい器」の登場を恐れて妨害します。教会の中でもそれは起こります。
2) 必要な助けを与える(7-8)
「新しい器」の失敗に対して「古い器」がどういう態度をとるのかによって、体全体の体質が変わります。どうか若い人々の失敗を許し、支え、助けてください
3) 偏見を持たない(10-14)
神様が人の人生を変える時、そのために必要な人を備えられ用いようとされますが、この人にも神様は信仰の飛躍を求められます。アナニアはサウロがどんなに危険な人物か知っていただけに恐れました。もし幻が主からのものではなかったら命にかかわることになります。神様はどんな人をも変えることができますが、そのアフターケアをあなたに任せるかもしれません。
4) 役割の違いを喜ぶ(Tコリント12:12-31)
すべての人に与えられている役割は皆違っています。それを自分が属している一つの体のこととして、受け取れるようになるまで、主に変えられることを願いましょう。
5) チャンスを与える(4-6, イザヤ25:4-10)
私たちイエス様を信じるものが迫害されるとき、それはイエス様ご自身が迫害されている時なのです。神の国の前進を阻もうとする力は当然迫害となって私たちに立ちはだかります。しかし神様はこの事態に直接介入されてパウロの間違った正義はここでイエス様に打ち砕かれます。しかもサウロ自身はここで人生に敗れ去ってしまうのではなく、180度変えられてパウロとして勝利の人生を歩みます。神様にも変えられない人は一人もいません。
<メッセージのポイント>
私たちは皆、神様に用いられる器です。色も形も大きさも用途も皆異なっており、それぞれが目的に応じて組み合わされて用いられます。神様は新しい働きにためには、新しい器を加えられます。どうしたら互いに組み合わされて仲良く用いられてゆくことができるでしょうか?<ミニチャーチのためのヒント>
1) あなたは神様の食器棚の中のどんな器ですか?
2) あなたは教会やミニチャーチに「新しい器」を迎える事に困難を感じますか?
*ディボーションノート*
―神様との親しく静かな時を持つためのヒント―
ディボーションノートは毎日聖書を読み続けるための助けです。聖書箇所は金曜日のメッセージに沿って選ばれています。文章は書いた人が神様から受け取ったものですから、あくまでもヒントです。必ず(!)、はじめに聖書箇所を読み、その日のみことばからのメッセージをあなた自身が神様から受け取ってください。そして、それをぜひ誰かに(ミニチャーチなどで)シェアしてください。
11/6(月) 使徒言行録9:1-3 マタイ10:26-31
どんな理由があって自分の信仰や信念のために人を殺すことができるでしょう。けれどもそのような狂気は歴史の中では何度も繰り返し登場しています。サウロもそれが正しいこと、神様の御心と信じてクリスチャンを迫害していたのです。ステパノが殺されてしまったように地上だけに限って見れば悪が勝利したように見えることもあります。今は狂気の支配する時代ではありませんが、この国にもかつてそのような時代がありました。このような狂気に巻き込まれるとか,どう考えても理不尽だと思えるような災いは形を変えて今でも存在しています。私たちのうちの幾人かは「残念な」といいたいような死を迎えるかもしれません。しかしクリスチャンにとっては「残念な死」というものは存在しません。なぜなら地上での歩みは永遠の命のごく一部でしかないからです。私たちには死の後に永遠の喜びが待っているからです。
11/7(火) 使徒言行録9:4-6 イザヤ25:4-10
私たちイエス様を信じるものが迫害されるとき、それはイエス様ご自身が迫害されている時なのです。神の国の前進を阻もうとする力は当然迫害となって私たちに立ちはだかります。しかし神様はこの事態に直接介入されてパウロの間違った正義はここでイエス様に打ち砕かれます。しかもサウロ自身はここで人生に敗れ去ってしまうのではなく、180度変えられてパウロとして勝利の人生を歩みます。神様にも変えられない人は一人もいません。私は20歳を過ぎるまで神様の存在をはっきりと否定する者でした。神様を信じることは馬鹿馬鹿しいことで、人にそれを勧めることなど犯罪的なことだとさえ思っていました。けれど神様は、神様を信じている人の愛を通して、ご自身の存在を私に知らせてくれたのです。それは私が後の人生をあれほど軽蔑していた伝道者として生きることを、神様がその計画の中に記していてくださったからです。
11/8(水) 使徒言行録9:7-9 イザヤ57:14-21
身も心も砕かれるとはまさにこのことでしょう。自信満々だったサウロの確信はイエス様との出会いによって打ち砕かれ、肉体的にも人の手を借りなければ歩くこともできない状態になります。心を砕かれるとは、人間的には絶望的な状況の中で、神さまに叫び求め自分を変えていただくことです。また、深い悔い改めも伴います。でも、神さまは意地悪でこんなことをするのではありません(今日のイザヤの箇所、詩編34:17-18; 51:17; 147:3など)。聖書には何度も心砕かれるという言葉がでてきますが、この経験は私たち人間には必要なことなのだと思います。このことなしに、人はへりくだることができませんし、神さまに100%信頼していくことができないのではないでしょうか。サウロ(後のパウロ)をはじめ現代に至るまで神さまから大きな働きを任される人は必ず心砕かれる体験をしています。そのことを通して神さまとのより親しく深い信頼関係が築かれ、そこから神さまのミニストリーが始まるのです。
11/9(木) 使徒言行録9:10-14 マタイ14:22-33
この箇所を読むと、何年か前に聞いた話を思い出します。それは、ロンドンの暴力や大きな犯罪に関わっていたあるギャングのボスの話です。彼はある日、神さまと出会う体験をして信じるようになりました。しかし、ギャングのボスであった人を迎えてくれる教会はどこにもなく、牧師さえもいませんでした。しかし、そのことを聞いたある牧師が彼と連絡を取り、彼を迎え、弟子訓練をすることを申し出ました。実はその牧師は過去に、その人の関わっていた犯罪の被害者だったことがあり、初めは恐れを持ちました。しかし、神さまはこの人を助けるようにと言われたのです。現在、この元ボスは牧師となり、犯罪者やギャングに福音を伝え、多くの人が救われています。彼のミニストリーはロンドンやイギリス各地で大きな影響を与え、ロンドンの犯罪率は大きく低下したそうです。 彼は、あの時もしこれ以上誰も自分を助けてくれないのならば、あきらめて元のギャングの生活に戻ろうと思っていたと言いました。もし、その牧師が神さまを信頼せず、元ボスを助けるということに従っていなければ、どうなっていでしょう。皆さん想像できますか?
11/10(金) 使徒言行録9:15-19a サムエルII 16:1-13
神様に用いられたいとよく私達は口にしますが、それは本当に神様を信頼していないとできないことです。深く信用していない相手の言うことを聞くのは難しいと思います。「もちろん私は主を信頼していますとも」と言うのは簡単ですが、もしそうなら、私達もアナニアのように常に行動できるはずなのです。「信仰とはRISKとスペルする」といういいまわしが英語ではあるくらいです。神様を信じるリスクを取るか、取れないか・・・それはどれだけ主と個人的な関係を育んできたかによると思います。まず第一に主が自分を用いようとなさっているということを信じなくてはならないし、次に主の声に聞き慣れていないとそれが本当に主からの声なのか聞き分けられないのです。そして不安や、時に苦しみがあるかもしれないその働きをまず肯定的に受け取ってみることです。行動に移すとき必ずや神様はその働きを祝福するだけでなく、私達に大きな喜びを下さいます。
11/11(土)使徒言行録9:19b-22/テトス11-15
サウロはまったく正反対の生き方を選択しました。それは今まで貫いてきた自分の信念を否定することであり、自分の犯した過ちを認めることを意味します。同時に迫害する側から迫害される側へ仲間入りすることとなり身の危険も加わりました。しかしサウロはイエス様を主とすることのメリットとデメリットを天秤にかけ、悩んだ末に決断したとは思えません。ただ主に打ちのめされその後に癒された形の主の招きに幼子のように応じたのだと思います。自分の意志ではなく主に動かされたという感覚なのでしょう。サウロはその後、過去の自分がどうであったかということを気に留めず躊躇せずに伝えています。自分であれこれ考えるのではなく主に動かされるときに、正しい道を歩むことができ、たとえ迫害されても何も恐れずに行動できるという手本を示してくれています。