*2001年1月7日メッセージとディボーションノート*

今週のメッセージ(2000年1月7日)
体の一部であるということ(1)


 ユアチャーチの21世紀の歩みが始まります。ユアチャーチに神様が願っておられることは、私達が主の体として神の国の前進のためにこの地域で用いられてゆくことです。この12月のハワイでのカンファレンスを通して主が強く教えられたことは、このことをもっと真剣に受け止めなければいけないということでした。そこで体に連なるということをより具体的に言い表したメンバーシップ・カヴェナント(メンバーの誓約)をかかげることにしました。この誓約を守ってゆくものがユアチャーチのメンバーです。これから年に一度このカヴェナントについて礼拝の中で確認して主への献身を新たにしてゆくことにします。つまりこの誓約は1年ごとに、自分を吟味し更新してゆくことです。(牧師・リーダーも例外ではありません)
ユアチャーチの礼拝、ミニチャーチはいつでも誰でも参加を歓迎するものです。聖餐にもイエス様を主と信じるものなら誰でも与ることができます。奉仕にも参加できます。たとえあなたがこのカヴェナントに署名しなくても今までと何ら変わりなく教会活動に参加できます。
ミニチャーチの牧師、ワーシップリード、子供の教会の牧師などのリーダーはメンバーの中から主任牧師が任命します。つまりあなたが責任ある立場でこの教会で主に仕えたいと願うなら、この誓約に同意して署名し牧師に提出してほしいのです。


私はイエスキリストを人生の中心とするクリスチャンとして、ユアチャーチのヴィジョンと目的に心から同意し主にある兄弟たち姉妹たちのなかに加わることを聖霊の導きであると確信して、以下の事柄について神と他の教会のメンバーに対して誠実であることを誓います。

1.わたしは

・・・彼においてのみ希望と赦しがあることを確信することによって
・・・いつでも彼の私に対する計画に従うことによって
・・・人をすなどる漁師として人々に希望と平和の福音を伝えることによって

イエスを愛し、私の人生の主、また全てのものの造り主であることを信じ告白します。

"わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方向に向かっていった。そのわたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた" イザヤ53:6

"しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。"
ヨハネ1:12

"「キリスト・イエスは、罪びとを救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。" テモテT1:15-16

"イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」といわれた。" マタイ4:19

2.わたしは

・・・聖霊によって牧師・リーダーが立てられていることを認め
・・・彼らのために毎日祈ること
・・・この教会の働きに神によって迎えられた彼らに従い支援すること

を通して教会の牧師・リーダーを尊敬し、その導きに従います。

"わたしたちの期待以上に、彼らはまず主に、次いで、神の御心にそって私たちにも自分自身をささげたので" コリントU8:5

"終わりに、兄弟たち、わたしたちのために祈ってください。主の言葉が、あなたがたのところでそうであったように、速やかに宣べ伝えられ、あがめられるように、また、わたしたちが道に外れた悪人どもから逃れられるように、と祈ってください。すべての人に、信仰があるわけではないのです" テサロニケU3:1-2

"指導者たちの言うことを聞き入れ、服従しなさい。この人たちは、神に申し述べるものとして、あなたがたの魂のために心を配っています。彼らを嘆かせず、喜んでそうするようにさせなさい。そうでないとあなたがたの益となりません。" ヘブライ13:17

*メッセージのポイント*
愛すること、信じること、従うことは切り離して考えることはできません。神様との関係においては「従う」ということが最大のポイントです。神様に従うということは教会のリーダーに従うことです。それはもちろん一人の人間に対する服従ではなく、キリストの体である教会とその機能としての牧師のリーダーシップに従うということです。「イエスキリストを信じてクリスチャンになる」ことだけが強調されがちですが「クリスチャンとして生きる」ことはそれと同等に大切なことであり。クリスチャンとして生きるということは、主の体(教会)の一部として機能することなのです。


*ミニチャーチのためのヒント*
1) あなたはこのカヴェナントの内容にどのような疑問がありますか?そのことについて話し合ってみましょう
あなたにとってクリスチャンであるということと教会のメンバーであるということに感覚的なギャップがありますか?


*ディボーションノート*
―神様との親しく静かな時を持つためのヒント―

ディボーションノートは毎日聖書を読み続けるための助けです。聖書箇所は金曜日のメッセージに沿って選ばれています。文章は書いた人が神様から受け取ったものですから、あくまでもヒントです。必ず(!)、はじめに聖書箇所を読み、その日のみことばからのメッセージをあなた自身が神様から受け取ってください。そして、それをぜひ誰かに(ミニチャーチなどで)シェアしてください。

1月8日(月)イザヤ53:6 ヨハネ10:14-18  

わたしは彼においてのみ希望と赦しがあることを確信することによってイエスを愛し、私の人生の主、また全てのものの造り主であることを信じ告白します。(カヴェナント1-1)

いろいろな問題が絶え間なく起こって、一つの問題にやっと解決の光が見えてきた途端に次の問題が起こって気持ちがくじけて「もうどうにでもなれ」と思ってしまうことはありませんか?私にも時々そういうことがありますが、そんな時最後にたどり着く気持ちは、「イエス様の赦しの内に自分はここに立たされていて、続く道は主が用意していてくださる」という安心です。それがあってここまで歩んでこられたと思うのです。あなたはこれから先、イエス様なしに歩むことができますか?イエス様がただ自分が選んだ一人の神様と考えるなら、状況の変化によって何か別なものにの乗り換えることができるということになってしまいます。私はイエス様を他の誰にも変え難く愛しているので、彼にのみ赦しと希望があることをいつでもはっきりと告白したいと思うのです。

1月9日(火)ヨハネ1:12 Uテモテ1:7-14

わたしはいつでも彼の私に対する計画に従うことによってイエスを愛し、私の人生の主、また全てのものの造り主であることを信じ告白します。(カヴェナント1-2)

イエス様を自分の主として愛するということは、心から喜んでその導きに従うということだと思います。キリスト教の歴史を振り返るとおよそ500年ごとに大きな信仰のリニューアルがありました。1000年頃には東方教会と西方教会が分離しました。1500年頃には西方教会の中からプロテスタント教会が誕生しました。このようなムーヴメントは制度としての教会がどんどん硬直化してゆくのに対して、神様が真剣に従う者に新しい計画を教え、彼らがそれに応えてはじまったものだと思います(もちろんそこには社会的・政治的力も働いたのですが)。
あなたが主の計画に従って歩むということと、あなたの計画を達成するために主に助けを求めるという事は正反対のことです。神様はあなたの計画のための奉仕者ではなく、あなたのための計画を持っておられる主であることを認めましょう。

1月10日(水)テモテT1:15-16 マタイ4:19

わたしは人をすなどる漁師として人々に希望と平和の福音を伝えることによってイエスを愛し、私の人生の主、また全てのものの造り主であることを信じ告白します。(カヴェナント1-3)

 イエス様が弟子とするべく選んだ漁師たち(ペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネ)は、イエス様の呼びかけにすぐに従っています。大切な仕事の道具や家族さえも残してすぐに従ったことが今日の聖句でわかります。フルタイムで神様の仕事に就く人々はペテロたちが体験したような神様からの召し(calling)をいただいた人たちです。神様から選ばれて「人をすなどる漁師」という仕事を人生の目的としている牧師や宣教師たちです。では、そのように特別な召しを与えられていない他の多くのクリスチャンの人生の目的は何でしょうか?実は、「人をすなどる漁師」となることは牧師や特別な人たちだけに与えられた仕事ではありません。自分の職業が何であろうと、また学生であろうと、クリスチャンであれば誰もが求められている本質的なものです。つまり、迷って生きている人々に神様の愛を伝え、イエス様のもとにお連れするという大切な役割です。

1月11日(木)コリントU8:5 ヨハネ13:20

わたしは聖霊によって牧師・リーダーが立てられていることを認めることを通して教会の牧師・リーダーを尊敬し、その導きに従います。
 (カヴェナント2-1)

 人によっては自分のエゴや私欲やコントロールする力のために牧師やリーダーになりたがることがあります。しかし、私の知っている最もすばらしい牧師やリーダーの何人かは、はじめはそのようなポジションに就くことを望まなかったと言います。ただ神さまに仕えたかっただけなのだと。ユアチャーチのリーダーとして私たちも決して人の上に立つことを望んでいたわけではなく、ただ、神さまに仕えそして神の国の働きに加わりたかっただけなのです。何年も仕えることを通して、また、自分たちに与えられたものに忠実であることによって、神さまは私たちをリーダーシップのポジションに少しずつ昇格させて下さいました。誰がリーダーとなるかを選ぶのは私たちではなく神さまなのです。

1月12日(金)テサロニケU3:1-2 使徒言行録12:1-5

わたしは彼らのために毎日祈ることを通して教会の牧師・リーダーを尊敬し、その導きに従います。(カヴェナント2-2)

 ある教会を訪れた時、礼拝後にその教会の牧師と話す機会がありました。私はその牧師のために祈るように導かれたので手を置いて祈りましたが、その牧師は少しけげんな顔をして戸惑っていたようでした。おそらくこの教会では牧師やリーダーは信徒のために祈ることが習慣化し、祈られることは希だったのだと思います。そして主は私の祈りを通し祈られる必要性を少しでも気付かせようとしていたのでしょう。牧師や教会のリーダーは神様から大切な役割を任された人で、罪を犯さないわけではありません。誰もに共通した弱さを持つ一人の人間です。また教会の方向性を定める重大な責任を担っているという点で人一倍祈られることが必要なのです。ユアーチャーチのリーダー達は月に2回集まり互いに祈り合っていますが、もっとサポートが必要なのです。皆さんの祈りによって励まされ力を得たいと思っています。

1月13日(土)ヘブライ13:17 コリントT16:15-18

わたしはこの教会の働きに神によって迎えられた彼らに従い支援することを通して教会の牧師・リーダーを尊敬し、その導きに従います。(カヴェナント2-3)

教会の牧師とリーダー達がミニストリーに専心できるために私達は何が出来るでしょうか。
具体的に教会内の仕事を手伝うことなどはもちろんです。しかし、リーダー達にも私達がしてほしいことを、つまり一番必要なのは私達の理解や祈りと励ましなのではないでしょうか。そして次にリーダー達は他の私達と大きな違いがあることも認識しましょう。それは神様と私達、両方に責任があるということです。その特別な働きを担っている人達に従うことは、主が望んでおられることです。盲目的になることではなく、聖霊からリーダー達に、そして私達一人一人にも知恵を与えて下さるように祈りもとめましょう。