*2001年3月11日メッセージとディボーションノート*

あなたは誰を頼みとしていますか?(使徒言行録14:1-7)

1.姿勢はいつも変わらない(使徒言行録14:1, 1ペトロ1:13-21)

1)相手の立場、文化、国籍、地位によって伝える事は変わらない

2)あなたが信じているという事実も内容も変わらない
  (信仰は感情ではなく意志)

2.反対するもの(使徒言行録14:2-6, 2テモテ4:1-5)

1)サタン

2)サタンにつく者

3)サタンに働く余地を与える者

3.強い心を保つ条件(使徒言行録14:3、7, 詩編54, ローマ12:9-21)

1)主を頼みとするなら

2)プライオリティーが変わらないなら

<メッセージのポイント>

福音が伝えられるところには必ず分裂が起こります。分裂を恐れたり避けようとしたりして妥協する事は間違いです。誤解してはならない事は、妥協できないのは「わたしの主はイエスのみだ」ということであって、表面的なこと(仏教儀式に出席しなければならない時の立居振舞など)ではありません。あなたの反対者が権力者と結びついた時、分裂は迫害へと変化してゆきます。聖書はそのようなところにとどまって殉教していった者と、難を逃れてまた宣教をする者との両方の信徒のあり方を紹介しています。自分の身体に危機が及んだ時に難を逃れる事は信仰の妥協ではありません。 反対者たちにとって皮肉な事に迫害すればするほど福音はもっと広い世界に拡がってゆき、地域的には今世界を覆おうとしています。しかし今でも小さな地域をみるならば、どの国にも、社会にも、家庭にさえも反対や無理解があります。そこでのクリスチャンの武器はたった一つしかありませんそれは、イエス様から与えられた「愛」です。 祝福と収穫が豊かなところには、反対者のねたみも強く彼らは命の危険さえ感じながら宣教を続けました。それができたのは、ただ主を頼みとしていたからです。

<ミニチャーチのためのヒント>

1.あなたが敵からの攻撃と感じている事があれば皆に話して、祈ったりよい知恵をもらったりしましょう。
2.私らしく、私という存在に自信を持って生きるために必要な事は?


*ディボーションノート*
―神様との親しく静かな時を持つためのヒント―

ディボーションノートは毎日聖書を読み続けるための助けです。聖書箇所は金曜日のメッセージに沿って選ばれています。文章は書いた人が神様から受け取ったものですから、あくまでもヒントです。必ず(!)、はじめに聖書箇所を読み、その日のみことばからのメッセージをあなた自身が神様から受け取ってください。そして、それをぜひ誰かに(ミニチャーチなどで)シェアしてください。

3月12日(月) 使徒言行録14:1, 1ペトロ1:13-21 

私たちが何を伝えたいのかはっきり自分で分かっていないと、相手にもうまく伝わりにくいと思います。相手の人にはイエス様という御方、つまり神さまの愛を知って欲しいわけです。その結果としてその人はクリスチャンになることでしょう。なぜこのように当たり前のことを書いているかというと、あまりにも簡単なことだからこそずれてしまったり、反対に色々と難しく考えすぎてしまうことも多いからです。相手の立場、文化または国籍などによって伝えることはもちろん、伝え方もあまり変わらないのです。

3月13日(火) 使徒言行録14:2, 2テモテ4:1-5 

福音がユダヤ人にもギリシャ人にも語られその両方から信じる者が多く起こされました。しかし同時に反対する者も現れ、その多くはユダヤ人でした。神さまに愛され、神さまをギリシャ人より知っているはずのユダヤ人ですが、その分優越感をもち謙虚さを失いペテロ達の語る真実の言葉に素直に耳を傾けることができなかったのだと考えられます。かえってペテロたちをねたみ他の人までそそのかすような行動をとりました。人間は知らず知らずのうちに自分たちが優れているとか知識があるとか思いがちです。特に専門的な分野や自信のあることについては顕著です。そのような場合、自分より年下の人や経験の浅い人の言葉を受け入れるのが困難な時があります。神さまの知恵や真実、励ましはクリスチャンに限らす私達の周りの人を通して自分に届きます。今日は特に謙虚な姿勢を持ち神さまの言葉を受け取り損ねることがないように祈りましょう。

3月14日(水) 使徒言行録14:3, 詩編54

私たちが日常おかれている立場はさまざまです。イエス様について気軽に話せるところもそうでないところもあるでしょう。一日中イエスさまという言葉を発しないままに働いているクリスチャンもいるのです。あなたは置かれている場所がイエス様によって与えられたと信じていますか?もしそう思えるのなら、たとえ語るチャンスがあまりなくても心配する必要はないと思います。聖書が言葉というとき、それは耳に届く音としてだけの意味があるのではありません。イエス様自身の存在自体が神の言葉だとヨハネは彼の福音書の最初にあかししています。あなたがそこにいるということが、神の言葉がそこにあるということを意味しています。あなたがそこにおかれていることを信じ、そこに主の栄光が現れることを願うならばきっと、しるしと不思議が主の手によってなされ神の恵みの現実が現されます。その日を待ち望んで踏みとどまりましょう。

3月15日(木) 使徒言行録14:4,マタイ10:34-39 

あなたは誰かの反対にあったとき、自分の考えを引っ込めても摩擦を避けてやり過ごすタイプですか?それとも自分の考えは少しも譲れないと砕氷船のようにぶつかってゆくタイプでしょうか?イエス様のことを伝えるという点ではどうでしょうか?イエス様は私たちの救いのために神が人となり罪を自分の身に引き受けるという史上最大の譲歩をした方であると同時に、私に従って生きるのか、自分勝手に生きるのか厳しく二者選択を迫る方でもあります。今日の聖書の一節は「神様の恵みを伝える」ということが一時的に大きな反対を引き起こすことを教えてくれています。それはとても仲のよかった友達や、物分りのいいはずの家族からのものかもしれません。そんな時、求められている態度は彼らを避けるとか対立することではありません。むしろ彼らを今まで以上に愛することではないでしょうか?

3月16日(金) 使徒言行録14:5-6, 1コリント10:13

私は自分の命にかかわるような迫害を受けたり、実際に見たことはありません。しかし、マーティンさんの国では今も、宗教の違いによって、人々が実際に殺害されたり、迫害を受けています。このような迫害は遠い昔のことではないのです。それに比べると自分の試練などは小さなものですが、今日のIコリントの聖句は私が試練にあったとき、いつも読んでとても勇気付けられる聖句です。そして、今も迫害を受けている人たちにとっては、命にかかわる聖句です。神様が脱出の道をも備えてくださるのですから、自分の身体に危機が及んだ時に難を逃れる事は信仰の妥協ではありません。聖霊の力と導きを信じ、今も迫害を受けている人々の尊い命が主にあって守られることを、また迫害をしている人たちの心にイエス様の愛が届くことを心から祈ります。

3月17日(土) 使徒言行録14:7, ローマ12:9-21

神さまだけがくださる純粋な愛は、この世にある何をもっても消し去ることはできません。どこで何をしようと全てにおいて私たちを導く神の愛こそが、神の国を広げていくのです。使徒達がルステラとデルベに逃れたとき、彼らは復讐する代わりに福音を宣べ伝えることを続けました。私たちがどこでどんな状況にあろうとも、さらなる神の愛がはたらく余地があるはずです。私たちは、この世に神の愛を示すために神さまから選ばれた者なのです。